「キリストを指し示す者」12/29 隅野徹牧師

  12月29日説教 「キリストを指し示す者」(降誕節第1主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:マタイによる福音書2:1~12

 

 今日は2019年最後の主日礼拝です。 今年は皆さんにとってどのような1年だったでしょうか。一番印象に残っている出来事はなんでしょうか?

 年末になり、新聞やテレビでは「今年起こった出来事やニュースを振り返る」ものがたくさん出ています。 私は山口信愛教会や身の回りで起こった出来事ではなくて、「社会一般で報道されるような出来事」の中で何が一番印象に残っているかというと…つい先日の「中村哲医師」の射殺のニュースです。今年も「不条理な出来事やニュース」が沢山ありましたが、とくに不条理だと感じられたのが私はこのニュースでした。

 「キリスト教信仰を持ち、聖書の価値観に従って世界平和のために努力している人が…あまりにも惨い」そういう思いを抑えることはできませんでした。

 最近、中村哲医師が所属しておられた「日本バプテスト連盟」が、理事長の名で公式にコメントを出しましたが、「本当にそうだな」と思う内容で私も慰められましたので、その一部を紹介いたします。

 中村哲さんはその若き日、福岡の西南学院中学校在学中に聖書を通してイエス・キリストに出会い、香住ケ丘バプテスト教会においてバプテスマを受け、クリスチャンとしての歩みを始められました。
35年前に医師としてペシャワールに赴任されて以来、神を信じ、人を信じ、いかなる時にも現地の人々と危険と労苦を共にして取り組まれた働きは、『天、共に在り』の確かな信仰に裏打ちされたものでした。
 
また、むさぼりと敵意があふれ、毎日おびただしい悲しみを生み出している世界にあって、中村哲さんの存在と働きは、あの最初のクリスマスに輝いた星のごとく、私たちにいつもイエス・キリストの平和の道を指し示し導くものでした。
 
私たちは今、その大きな星を失った悲しみに打ちのめされています。しかしながら、イエス・キリストの十字架が「人間の罪の暗闇に呑み込まれて終わることなく、復活の命の出来事に変えられて世界中の人々に希望を与えていった」ように、中村哲さんがご自身の存在すべてを賭けて取り組まれた尊い働きは、平和の源である神のもとで必ずや人々の心を照らし続ける希望に変えられ受け継がれていくことを信じるものです。

 いかがだったでしょうか?この文にあったように、私たちに出来ることは、中村哲さんの意思を少しでも継ぐことではないでしょうか?

 なぜ?どうして?という思いは消えませんが、でも「排除や貪りが横行するいまの世にあって」中村さんのように「世の多くの人に、平和の主であるイエス・キリストを指し示す働き」ができればと願います。

 今朝は、いま出てきた「キリストを指し示す星」のことが記された聖書箇所を読みます。御言葉を一緒に味わいましょう。

今聖書のP2をお開きでしょうか? クリスマスページェントでもよく描かれる有名な箇所です。 簡単に流れを説明します。

 東方、つまりイスラエルから数千キロ離れた「アラビア地方」の占星術の学者たちが、ある時救い主の誕生を予告する星を発見します。彼らは重要な地位に就いていたと考えられますが、職務を犠牲にしても「救い主を礼拝しに行く」決心をします。

 遠い道のりを「危険を乗り越えて進み」やっとの思いでイスラエルの都エルサレムに着きます。しかしそこには救い主はおられませんでした。ヘロデ王のところに行き「王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねるのですが、その誕生を知っている人は誰もいなかったのです。

 逆に3節、ヘロデ王はその言葉を聞き「自分の地位が脅かされる」と不安にかられ、「学者たちが探している赤子を殺す」という計画を実行しようとするのです。そして学者たちを利用しようとしました。

 4節、ヘロデ王が「旧約聖書に詳しい」祭司長たちや律法学者たちを呼び集めて聖書の預言を調べさせました。すると、救い主はベツレヘムに生まれることがわかったのです。「後で赤子のことを詳しく教えてほしい」とヘロデに頼まれ、送り出された東方の学者たちはベツレヘムへと向かいます。

 すると9節、東方で見ていた星が「人として誕生されたイエス・キリストのもと」に導いたと聖書を教えます。そして、ついにその星が救い主のおられる場所に止まりました。彼らは喜びにあふれて幼子を礼拝し、自分の大切なものを「救い主にささげた」のでした。 

彼らが救い主にささげたもの、それは普通出産のお祝いに贈るものとは違っていました。ささげた3つのものには「目の前におられるキリストがどんな方で、どんな働きをされるのか」表すものでした。博士たちにはそれが分かっていたのです。

黄金は「王の中の王」「世界をすべておさめる全人類にとって本当の王」という意味がこもっていました。乳香は「人々のために祈る祭司」を表しています。つまり私たちすべての人間の祈りを「天にとどける」「とりなす」方として表しています。そして没薬は「痛み止め」です。やがて、私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださることを表しています。

最後の12節、神のお告げでヘロデのところに寄ることをせず、自分たちの国に帰ったことが記されます。 以上が今朝の聖書箇所の流れです。

残りの時間で、この箇所から私が大切だと思うメッセージを2つお伝えします。

①つ目は、「博士たち、つまり占星術の学者たちの姿勢から私たちも学ぶ」ということです。

この当時、今のように「情報が多くない時代」でしたので占星術の学者たちは「未来に対して指針を与えてくれる人」として重宝され、身分が高かったと言われます。財産も多く持っていました。そのまま「楽に、安泰な人生」を送ることもできたはずです。しかし、そういう生き方を選ばなかったところを私たちは学ぶべきではないでしょうか。

まず学ぶ姿勢です。この時の数百年前、イスラエルの民が戦争に敗北し捕虜として外国に捕われていったことがありました。そこで信仰を守ったイスラエルの民から、当地の人にも「旧約聖書の教え、約束」が伝わったと言われています。  

その旧約聖書に「一国の王ではなく、全世界を救う王の王がお生まれになるという預言」があったのを学んだからこそ、学者たちは自分の専門分野である星を見ていて救い主の誕生を予告する星を発見できたのです。私たちもそれぞれの専門分野がありますが、それとともに「聖書を学んでいることの大切さ」を覚えましょう。

そして「学者たちの姿勢で学ぶべきこと」。それは地位や財産を捨ててまでも「救い主を礼拝しに行く決心をした」ことです。 

交通網が発達していないこの時代に、何千キロも離れた場所に行くのですから「自分のもっている財産、そして与えられている時間」を捨てる覚悟がなければ実行に移せません。 11節を見ると、学者たちがキリストにあったのは家畜小屋ではなく「家」だったことが分かります。ヨセフ一家はベツレヘムで家を建てるか借りるなどしたことが読み取れるのです。それだけ学者たちが旅立ってから長い時間がかかっている証拠です。 しかし!それだけのものを犠牲にしてでも「キリストを礼拝することが」何にも代えがたいことを学者たちは理解していたのです。

私たちが守っている日曜礼拝。なぜ日曜かというと、目には見えないけれど復活して確かにご臨在くださる「救い主イエス・キリストに合いまみえ、礼拝するため」なのです。私たちは学者のような思いをもって「主の前に出ている」でしょうか?年の終わりに当たり、もう一度「主の前にどんな心で出ているのか」心を見つめなおしたい、と願います。

 さて最後にもう一つの「大切なメッセージ」についてお分かちします。それは「今の時代にあって、キリストを指し示すものとなる」ことの大切さです。

 最初に紹介した、日本バプテスト連盟の公式コメントには「中村哲さんは、クリスマスにキリストを指し示した星のようだった」と譬えられていました。中村哲さんによって、キリストに出会った人は多くいたことは間違いないと思うのです。とくに「キリスト教文化が根付いていない国や地域で、多くの人々をキリストのもとに連れて行った」という点で、確かに「星」と似ています。

 今日の聖書箇所を通して、「イスラエル以外の外国の民も、神は愛してくださっていること、キリストによって救いへと導いてくださること」が示されています。そのために神は「星」を用いられたわけですが、私たちも同じように用いようとされている!そのように私は感じます。

 まだキリストを知らない人が沢山いるこの日本は、多くの人が「暗闇の中で」どこに向かうべきか悩みさ迷っている国でもあります。オリンピックが華やかに開催される裏側で、多くの人がもがいています。

 そんな中!私たちは「本当の王であり、救い主であるイエス・キリスト」のもとに進んでいきましょう。そして、その姿を通して「悩みの中にある多くの人に」本当に進むべき道はこちらだ!と指し示す者になりましょう。

 来る2020年、一人でも多くの人が「キリストに出会い、学者たちのように心からの礼拝をささげることによって喜びに溢れるように、祈ってやみません。