「私たち一人ひとりの価値」1/12 隅野徹牧師

  1月12日説教 「私たち一人ひとりの価値」(降誕節第3主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書15:1~7

 

 クリスマス、降誕節で違う聖書箇所を読んでまいりましたが、今日から再びルカによる福音書の箇所を続けて読みます。11月までで14章までを読んでいましたので、今回から15章に入ります。ここでは有名な「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」が語られています。ここだけを単独で取り上げることも多いですが、今朝は少し前に読んだ14章からのつながりの中でここを読んでいきたいと思います。今回は見失った羊のたとえの箇所です。早速見てまいりましょう。

 まず1~3節までです。ここには、その後の3つのたとえ話が語られる経緯、事情が語られています。そこを読んでみます。

 15章の三つのたとえ話は、イエスに不平を言ったこのファリサイ派の人々や律法学者たちに対して語られたのです。

 1頁前にめくってP136をお開きください。14章の前半には、イエスが「あるファリサイ派の議員の家に招かれて食事の席に着いた時のこと」が語られていました。そこでイエスは、神の救いにあずかることを、「神が催す盛大な宴会に招かれ、その食卓に着くことにたとえて」お語りになりました。同じ食事の席に着いていたある人がそれを聞いて、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言うと、次にイエスは「宴会に招かれていたのに、直前になって色々と理由をつけて来るのを断った人々のたとえ」を語られました。宴会を催した主人は、その人々に代って、貧しい人、体の不自由な人たちを招き、彼らがその宴席に着いたのです。

 この話のポイントは、神の救いにあずかる人、つまり神の国で宴会の席に着く人は誰か、ということです。もともと招かれていたはずの人々は来るのを断り、招かれるに相応しくないと思われていた人が招かれてその席に着き、救いにあずかっています。神の救いは、そのように「人間の思いや常識を逆転させるような仕方」で与えられるのです。

 イエス・キリストは、そのような神の救いを宣べ伝えるだけでなく「具体的な行動によっても」現しておられました。それが、15章に記されている「徴税人や罪人たちを迎えて食事を共にする」ということです。それを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは2節で分かるように不平不満を言ったのです。彼らは、「あんな罪人たちと一緒に食事をしている者のところになど行けるか」と言ってイエスを批判したのです。

 そのように腹を立てているファリサイ派の人々や律法学者たちに対して、イエスは「見失われた一匹の羊」のたとえをお語りになりました。

 それが4節~7節です。読みますので、目で追ってみてください

 「あなたがた」とは、イエスを批判しているファリサイ派の人々や律法学者たちです。その人々に向かって「自分が百匹の羊を持っていて、その一匹を見失ったとしたらどうするかを考えなさい。九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか?」とおっしゃったのです。

 私たちはここを読むとき「そうはしないよ」と思うのではないでしょうか。残った九十九匹を守る方が大事だから、失われた一匹のことはあきらめた方がよい…そう考える方が「常識的」かもしれません。

 しかし大切なのは、イエスがこのたとえによって語ろうとしておられるのは、ごく単純に、「あなたがたも、自分の大切なものが無くなったら、必死に探し回るだろう」ということです。羊飼いにとって、たとえ他に99匹いようとも「一匹の羊」が大切であることは間違いありません。

 そういう大切なものを見失ったら、あなたたちも必死に捜し回るのではないですか?イエスはそのようにファリサイ派の人々や律法学者たちに語りかけられているのです。  そして、「天の神も、徴税人や罪人たちに対して同じ気持ちを持たれているのだ!」ということを教えられるのです。神にとって「徴税人や罪人たち」は大切な命でした。ファリサイ派や律法学者たちは「掟を守れないので、神から見捨てられるべき人々だ」

 ご自分の大切なものが失われていくのを、放っておくのではなく、「捜して見つけ出して!ご自分のもとに連れ戻す!」それが神なのです。

 そしてこれが大切なのですが…イエスの招きに応えようとせず、その言葉を聞こうとしなかった「ファリサイ派や律法学者たち」もまた、神のもとからはぐれてしまっている羊なのです。彼らをもまた!「愛にゆえに連れ戻したいと願っている」ということに気づいてほしいと思われてイエスは語られているのです。

「お前たちは、私を敵対視しているから、もうしらない!」ではないのです。

 そして「お前たちは、私を求めてせっかく近づいてきた徴税人や罪人たちを見下すから、裁きを与える」とはおっしゃらないのです。 あなたたちも大切な羊である…決して見捨てない…そのことを伝えたくて、イエスはこの羊の譬えをなさったのです。

 反抗的な態度をとるファリサイ派や律法学者たちに対し、イエスは「どうしてここまでされる」のでしょうか? その答えは残りの5~7節にあります。  

 ここを深く味わってメッセージを閉じます。(5~7 よむ)

 ここで教えられていること、それは「神が私たちをわざわざ探し出してくださる」のは、悔い改めに導きたいからだということ。そして「悔い改め」は天にとって何にもまさる喜びだということです。

 「悔い改め」という言葉は教会でよく使われる言葉ですが、少し意味を掘り下げましょう。

 神学辞典で「悔い改め」と引くと、2つの意味が出てまいります。一つ目は「神に帰ること」2つ目はあやまった行為を悔いることです。 これは二つで1セットです。「神を信じる」といいながら、悪い行いを一切止めない、変えないというのは悔い改めではないです。 また「苦行や修練」で、悪い行いを取り除いても、造り主である神のもとに帰らなければ、単なる「善行」にすぎません。自己満足で終わることだっってあります。 

 イエスがなさった譬え話も、「もう飼い主のもとから離れない」という反省と、「飼い主である神のもとにいることが何より平安なのだ」ということが背景にあるのです。

 迷子になった羊は、自分で羊飼いのもとに帰れた訳ではありません。羊は、群れの中で、羊飼いに守られ養われなければ生きることのできない動物です。そしていったん迷子になってしまったら、自分で道を見つけて戻ることはできないのです。つまり群れから迷い出た羊は、羊飼いが捜しに来て見つけてくれなければ、死を待つ他ないのです。

 しかし!この譬えでは、「羊飼いがわざわざ捜しに来てくれて、救われる」様子が描かれるのです。これは神のほうから私たち罪人を捜しに来て下さり、見つけ出して下さることが教えられているのです。

 迷える羊であり、罪人である私たちにできるのは、「自分が神様のもとから迷い出た間違いを素直に認めること」そして「私たちの本当の飼い主である全能の神しか救い出すことができない」ことを信じ「今度は離れないようにする」と決心することです。それが悔い改めです。

 私たちは、ファリサイ派や律法学者がそうであるように「自分が罪人であること」を認めたがらない、プライドが高い者たちです。

 「あの人たちに比べれば自分正しく生きている」そうやって人を見下すことは多いのではないでしょうか。しかし神は、そのような私たちを、大切なものとして愛して下さっていることを今日の箇所から心に留めましょう。

 羊飼いがはぐれた一匹を「嫌々に捜した」のでないことは、6節7節の「喜びの様子」から明らかです。 同じように、神は嫌々に「独り子キリストをこの世に人間として送られた」のではありませんし、キリストも「嫌々で、文句を言いながら十字架で死んでくださった」のではないのです。

 私たちを「なんとかして罪から救い出したい」と思っていてくださる神・キリストは私たちが悔い改めたなら「心から喜んでくださる、愛のお方」なのです。

 この愛を感じながら、この先歩んでまいりましょう。