梅光スピリット♡奨励♡

IMGP31986/29(日)の朝拝では、梅光学院の中学高校の卒業生である信徒の方が、「奨励」(信仰の証と励まし)をしてくださいました。

人生の起伏の中で、4年前突如として日曜日、教会へ行こうと決心なさり、3年前洗礼をお受けになった方です。

中学高校は、梅光女学院(現在は男女共学)で過ごし、中高の6年間、睡魔と戦う朝の礼拝があったそうです。聖書科の「ありがたい」授業も単位を取るための授業としてしか受け止めていなかったとか。

しかし、不思議な事に、心の中に聖書の慰め深いみ言葉が心に染みこんでいたようで、辛いことがあると、ふっと祈っている自分がいたとか。

梅光卒業の時、お友達は、聖書を「もう必要ないから」と焼却炉に捨ててしまっている姿に、なんだか納得できず、結婚してからも聖書を手許においていたそうです。IMGP3199

結婚、出産、育児を経験し、ある苦しいとき「そうだ、教会へ行こう」と思いたち、日曜日の教会へ。

しかし、玄関前で緊張し、おずおずしている間に、一緒に連れてきた二人のお子さんが、なんのためらいもなく引き戸の玄関扉を開き、受付係の方に案内されるままに礼拝堂へ。

「私の捨てられなかったもの」それは『聖書』でした。しかし、今思うと実は、イエスさまが、人生に惑い生きる自分を、捨てずにいてくださったのだと、ハッと気づかされたそうです。

 

奨励を伺いながら、梅光学院が教育の業を通して蒔た福音の種が、長い年月をかけて結実するダイナミックな出来事に、イエスさまの、人知を超える大きな恵みの力を感ぜずにはいられませんでした。

「神は死んだ」と叫びニヒリズムの中で、神の存在を否定しようと、あらん限りの人知を尽くしたニーチェでしたが、その哲学に救いがあったかといえば、疑問です。

しかし、ふっと主のお招きに応えて、イエスさまはいると素朴に信じて従う信仰に、わたしはある輝きと魅力を感じます。

教会には、あなたの「窮屈」な現実から解放する確かな救いの視点が、聖書の言葉を通してひろがっています。

日曜日の教会で、あなたのお越しをお待ちしています。