4月23日説教

「復活の物議」
<聖書>イザヤ書65:17~25   マタイによる福音書28:11~15
古屋裕子牧師(日本基督教団 教師)

ユダヤ人の指導者たちに命じられて墓を見張っていた番兵たちは、図らずも復活の証人となりました。しかし、その事実を目の当たりにした人々は信じず、隠ぺいを図ります。「死人に口なし」。不都合な事実は改ざんし、臭いものには蓋をする。十字架で露わにされた人間の罪は、復活において、なお示されています。しかし、人の手によって閉められた重い墓の蓋を開けるのは、神なのです。
復活を語ることがずっと苦手でした。よく「復活がわからない」と質問され、信憑性の高い言葉を求めて悩みました。その人の墓のような心を開けるのは自分だとでも言うかのように。神は、なぜこのような者を証人として立てられるのでしょう。第一証人は「婦人たち」でしたが、女性は当時の法廷で信用に値する証人ではありませんでした。第一目撃者が科学者とか防犯カメラならば、その信憑性は一気に高まり、多くの人は躓かずに済んだはずではないですか。
でも、「復活」は本当にそのようなことでしょうか。復活は科学的に証明できるものではありません。復活という出来事は、誰にとっても物議です。でも、だからこそ神は、わたしたちをここに招かれるのです。神は、復活の証拠ではなく、復活の信仰をお与えになります。わたしたちが自身では経験できないことを経験し、新しく生きるために!