1月21日説教

「人の慰めを超える命」
<聖書>ルカによる福音書7:11~23
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)

主イエス一行は、あるやもめの一人息子の葬列に遭遇しました。絶望の中で嘆く母親に町の人が大勢そばに付き添っていましたが、本当の意味での完全な癒しと慰めは神によることを、聖書は告げます。主イエスは母親に、内臓をえぐられるような憐れみを感じられました。主の憐れみは具体的に相手を助けるための犠牲を払います。主は彼女に「もう泣かなくともよい」と言われました。それは「今絶望の中で泣いているあなたを、私の命をもって、永遠に嘆きから救いだす」からです。主は棺に手を触れて葬列を止め、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と命じられました。すると彼は御言葉の通りに生き返り、母親のもとに帰ったのです。私たちは皆、死の力に支配されています。肉体だけでなく、罪によって真の命である神との関係が断絶し、霊的に死んでいる状態になったのです。しかし神は私たちを愛し、御子をこの世に送られました。それは御自身の十字架の死と復活により、悪魔と死の支配を打ち砕き、私たちに永遠の命を与えて生かすためです。私たちが遣わされる所には、死の苦しみや恐れを味わい復活してくださった主が伴われます。主が私たちを通して、嘆きの中にある隣人に、真の慰めと希望を与えてくださいますよう祈りましょう(Ⅱコリ1:4)。
洗礼者ヨハネは来るべき救い主の到来を予告し、悔い改めを説きましたが、そのために投獄されていました。彼は弟子たちを通して主イエスの御業を聞き、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。」と尋ねさせました。主は弟子たちに、あなたがたが見聞きしたことをそのままヨハネに告げなさいと答えられました。そうすれば、ここに起こっている現実が救い主の預言の実現だとはっきりわかると。回り道のように思えても、最終的には御言葉を読み、主イエスこそ救い主であると自ら確認する過程が重要です。その時私たちは信仰を確かにされ、福音を伝えていけるのです。