10月29日 説教

「丸太を取り除かれた者として」
<聖書>ルカによる福音書6:37~42
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)

主イエスは弟子たちに対して、「人を裁くな(判決を下すな)」と語られました。私たちが裁く時も赦す時も、同じように返されます(38節)。善いことを行っても、そのように返してもらえない場合も多くありますが、逆に、悪い接し方をしたのに、愛をもって返してくださる方もいます。そのような方の背後に、私たちは全き愛を注ぎ続けられる神を見るのです。祝福に至っては「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして」返して下さるのです。それは神の子とされ、永遠の命に生きることです(6:35)。神は私たちが注いだ愛を覚えてくださいます。
 私たちは霊的な事柄を正しく見ることができません。それは、兄弟の目にあるおが屑は見えても、自分の目の中の丸太に気づかないようなものです。私たちは人の悪い点はすぐ見つけて裁くのに、自分については正当化します。原罪や成長過程で培われた価値観という丸太が、真理を見る目を遮ります。私たちが私情をはさまずに人を裁くことは非常に難しく、容易に私たちは「告発者」サタンの手下になってしまいます。すべてをご存じであり義なる神お一人が正しい裁きを行う方ですが、主イエスは十字架で人々のためにとりなし、その身に裁きを負われることによって私たちを赦されました(ルカ23:34)。神は相手の人を私以上によく判断されることを覚えて、おゆだねしましょう。
 目の中の丸太は、魂の状態を写し出す聖書を通し、主によって取り除かれます。私たちは救われた後、主に次の魂をお導きする立場に立てられます。それは主が私たち自身を成長させるために、お与えになる恵みでもあります。
誰かをお導きする中で、私たちは自分の愛のなさや未熟さを痛いほど知らされ、悔い改めて主の恵みによって再び出発します。悔い改めた者こそ、その在り方をもって隣人をお導きすることができるのです。罪赦され神の子としてふさわしく整えられる時(40節)、私たちは相手や自分を、「にもかかわらず」包み込む神の愛を見るでしょう。私たちが神の子として成長することを通して、主の愛と救いが周りの方々に注がれるのです。