「上にあるものを求めて生きる」5/4 隅野徹牧師


  5月4日 復活節第3主日礼拝
「上にあるものを求めて生きる」隅野徹牧師
聖書:コロサイの信徒への手紙 3:1~11

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 2週前に幸いなイースター礼拝をもつことができ、先週には「新年度の教会総会」を終え、「まさに新しい歩みがはじまった山口信愛教会」です。

5月の第主日の礼拝である今日から「礼拝の中で唱和する、標語聖句、標語」も新しいものに変わります。 まだ慣れないところがあると思いますが、その分「教会も新たに出発したのだな」ということを感じていただいたらと思います。

先ほど司式者にお読みいただいた今朝の聖書箇所は、選定された聖書日課の中の一つですが、わたしは「ふさわしい箇所が与えられた」ことを喜んでいます。

今回の箇所は、新共同訳の段落分けのとおり、前半が1~4節、後半が5~11節、という風に区分できます。 前半の方に、イースターで味わった「キリストによって、わたしたちもいただく永遠の命、別の言い方で新しい命」が語られているので、メッセージの結論部分として語ります。先に後半部分を取り上げ、そこで「最近天に凱旋された、ローマ教皇」のことにも触れてお話しします。自分にも語られたメッセージとしてここの御言葉を受け止めていただければ幸いです。

まず、今日の聖書箇所である「コロサイの信徒への手紙」が書かれた背景についてお話しします。これは使徒パウロが記した手紙が「聖書の言葉となっている」部分です。

先程の朗読で、「アドバイスが多いな」とお感じになったかもしれません。実はこの手紙が書かれた頃、コロサイ教会の中に「偽物の教え」が入り込み、教会が混乱した…ということがあったようです。それで、「混乱を正すために」パウロは手紙を書いているのです。

教会の中では「禁欲すれば清められる」とか、「善行を積めば天国に行ける」といったまちがった教えが蔓延していました。それに対してパウロは「キリストを救い主だと信じて告白したものは、どう生きるべきか」を伝えますが、今日の箇所のコロサイ3章は、まさにそういった教えの記された箇所です。

では後半の5~11節から見てまいります

5節に「捨て去りなさい」という勧めがでます。何を捨て去るべきだ、と教えられているかというと「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」です。

「みだらな行い、不潔な行い」とは性的不品行を指します。当時の社会では、不倫や売春はありふれていました。そのような行為に人を走らせるものが「情欲」です。

次に挙げられている「悪い欲望、貪欲」とは、私たちに中にある「エゴイズム、自分さえ良ければ良いという思い」です。それが、どんな悪いことにつながっていくかというと、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉、うそ」です。

自分の利益のためであれば何でもする、相手を利用することも、攻撃することも、貪ることも平気で行う… 現在世界で起こっている「争いと対立」の原因となっているものを想起させるのではないでしょうか?

さて、使徒パウロは「これらの行いを捨てなさい」というだけでない大切な教えをしているところが非常に重要だ!と私は思います。

わたしたちは、生まれつき「罪深い性質」をもっています。だから「自分の努力や注意で、悪い行いを捨て去ろう」としても、なかなか上手くいかない…それは私も経験上、痛いほど感じていることです。みなさんも経験はないでしょうか?

パウロの教えで重要なことは「悪い行いをしてしまう、古い人をまるごと脱ぎ捨てなさい。そして神にあって新しい人を着なさい」と勧めていることです。

この「古い人を脱ぎすて、神にあって新しい人を着ること」ことこそ、キリストの名によって洗礼を受け、新しく生まれ変わることを勧めていることに他なりません。

かつて欲望のままに生きてきたわたしたち一人ひとりが、洗礼を受けることによって「キリストの十字架の死に共にあずかり」古い過去に死にます。そして洗礼によって「キリストの復活の命に共にあずかり、新しい命をいただき、新しく生まれることが出来るのです。「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」とアドバイスは、人間の力だけではできません。

しかし、愛の主イエス・キリストの復活の力によって可能なのです。

そして、10節、11節では。「キリストと一体になる洗礼によって新しく生まれ変わった人の、真の生き方」が示されています。

「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」ということと「国籍や宗教、身分で人を差別することなく、すべての人が神の愛の内に招かれているのだ、と理解できるようになる」ということが語られるのです。

とくに11節の最後の「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられる」という風に世界を理解できることは、本当に大切だと感じます。

新しい人を着る時、ギリシア人とユダヤ人の差別、割礼を受けた者と受けない者の差別、奴隷と自由人の差別をしなくなり、異なる者の和解、キリストの平和を目指す人となることができる…わたしはこの言葉から、先日、天に凱旋された「ローマ教皇」を思い出すのです。

 教皇「フランシスコ」は、「貧しい人たちのための教会」をモットーに、清貧を重んじ、弱者に寄り添って生きられました。

外遊先ではスラムや孤児院に積極的に足を運び、多くの「弱さをかかえた人たち」と触れ合う時間を大切にされました。

まさに今日の聖書箇所のコロサイ310節以下に出て来る「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人となった生き方」をそのまま体現されているかのような歩みです。

一方で教皇フランシスコは、現在の経済システムについて苦言を呈し続けておられました。過度な商業主義に警鐘を鳴らしましたが、それは「他人を尊重する気持ちが欠如し暴力が増え、不平等が拡大していると懸念したからだそうです。

「カネが人間を支配してはならない」と拝金主義には」厳しい態度をとりましたが、それは今日の箇所の5節の最後にある「貪欲は偶像礼拝にほかならない」というパウロの言葉と重なると思います。

自分の中に貪欲があるならば、それが「神と自分を置き換えること」につながり、そして隣人を傷つけることになるのだ…ということを肝に命じましょう。

だからこそ、新しく生まれ変わる必要があるのですが、教皇フランシスコのように「神と隣人を心から愛する人」に私たちも変えられることを願ってまいりましょう。

最後に、今日の結論として1~4節を読んで、メッセージを閉じます。【※よむ】

ここでは、キリストを公に信じ受け入れ、そのしるしとして洗礼を受けることによって「古い自分は、十字架にかかられたキリストとともに、死んだのだ」ということが教えられます。

さらに「キリストによって洗礼を受けたものは、死に打ち勝って復活されたキリストによって新しい命を得たのだ」と教えられます。

その新しい命は、この地上だけのものではない、天国に続く命なのだ!ということがとくに3節と4節で教えられているのです。

「上にあるものを求める」とは、「いつか自分が、天へ上げられ、神の御許で永遠の命を生きること」を心に留めていきる、ということです。

その反対に「地上のものに、心引かれないようにしなさい」とも教えられます。これは「物欲や金銭欲」といったいつか消え去るものに心奪われないように、というアドバイスであるとともにもう一つあると思います。

それは「この地上で、報いられない、自分の願う通りにことが進まない」と思っても、それに心奪われた状態であってはならない! あなたたちが豊かに報いられるのは、あなたたちがキリストと相まみえる時、つまり天の上にあげられたときなのだ。

ということだ、

と私は理解しています。

 キリストによって、古い自分を脱ぎ捨て、新しい命を受けたものは、この地上の目にみえる結果や事柄に縛られるのではなく、未来に与えられると約束されているもの、つまり「上にあるものを求めて生きる」ことができるのです。

 どうぞ、皆様、新しくされ「上にあるもの」に目を向け、希望をもって歩んでまいりましょう。   (祈り・沈黙)