「あなたは、わたしに従いなさい」4/19 隅野瞳牧師

4月19日説教・復活節第2主日礼拝
あなたは、わたしに従いなさい
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書  ヨハネによる福音書21:15~23

 本日の箇所では私たち一人ひとりが主に出会い、使命を与えられることについて記されています。3つの点に目を留めて御言葉にあずかりましょう。

1.わたしの羊を飼いなさい。(15~17節) 

2.願わない道を通される時に、神の栄光は現される。(18~19節)

3.あなたは、わたしに従いなさい。(22節)

 

 本日の箇所ヨハネ21章の前半は主のご復活の後、弟子たちが故郷のガリラヤへ帰り、漁をしたことが記されています。弟子たちは必要な食事を得るために漁に出たようですが、一匹もとれず夜明けになりました。

 すると岸辺に何者かが立って舟の右側に網を打つように言いました。その通りにすると引き上げることができないほどの魚がかかり、弟子たちはその方が主であると悟ったのです。主は炭火を起こし、弟子たちに朝食の場を備えてくださいました。今日の15節以下はその食事の後の話です。他の弟子たちが同席していたのか主イエスとペトロだけが残ったのかわかりませんが、いずれにせよ主は一対一でペトロに向き合う時間を特別にとってくださいました。

 

1.わたしの羊を飼いなさい。(15~17節) 

 ペトロは主イエスが捕らえられた時に、裁判の行われる大祭司の屋敷の中庭まで入っていきました。しかし周囲の人に主イエスとの関係を問われた時に「わたしはあの人を知らない」と、三度主との関係を否定してしまいました(ルカ22:31~34,54~62)。自分の命を守りたい一心で愛する主を知らないと言ってしまった、それはペトロにとって、生涯立ち直れないような深い傷でした。その傷が癒されるためには、彼が自分の姿を見つめ直し、主の愛を受けることが必要です。そのために主は「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と三度お尋ねになりました。

 「この人たち以上に」は最初の主の問いにだけ出てきます。他の弟子たちはともかく、自分だけは最後まで主についていきますと豪語したペトロでしたが、十字架の時に彼は主のもとに留まることができませんでした。この思い上がりに対しての問いかけです。ペトロは以前のようにではなく、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と謙遜に、間接的な表現で答えました。他の人がどれくらい主イエスを愛しているかは、私たちにはわかりません。信仰や愛を他の人との比較で考えることが、そもそも間違いなのです。

 ここに出てくる「愛する」という言葉は二つあります。1度目と2度目の問いで主イエスが「わたしを愛しているか」と言われたのは「アガペー」…犠牲を払い、見返りを求めず、価値なき者に価値を見出す神の愛という言葉です。一方ペトロは「フィリア」…人間的な友情、信愛の情を意味する言葉で「あなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。3度目の時主はペトロに合わせて、私を人間の愛(フィリア)で愛しているかとたずねてくださいました。ペトロのせいいっぱいの思いを受け入れてくださったことを示すのでしょう。ここから私たちは、主イエスを愛する愛も従順も人間からは出ない、まったく神からの賜物であることが示されます。

 ペトロは「わたしはあなたを愛しています」との告白に必ず「あなたがご存じです」と付け加えています。彼はもはや以前のように「あなたのためなら命を捨てます」(13:37)といった勇ましい言葉を口にしません。自分の本当の姿…神と人への愛のなさ、罪深さを目の当たりにするのはつらいことですが、その時こそ私たちは真実に神の前に出て深い取り扱いを受けることができます(17節、Ⅱコリ7:10)。神に用いられる者としてなくてならぬことは能力や強さではなく、「主よ、あなたは何もかもご存じです」という信仰です。罪を犯した者を新たに生かそうとする主の愛が、ここにあります。

 御子の神への姿勢は、自分自身をささげ尽くす愛によって貫かれていました。御自分の存在をかけた愛を通して、主イエスは神の真理を明らかにし、神の栄光を現されました。復活の主は、これからペトロが託される務めを果たすことができるように、自分の力ではなく神の愛によって満たされることを求められたのです。

 自己主張を放棄したペトロに、主イエスは新しい任務を託されました。「わたしの羊を飼いなさい」。羊を飼うとはどのようなことでしょうか。ヨハネ10章では、主がご自身を「良い羊飼い」と例えておられます。主はご自身に従う者たちを「わたしの羊」と呼ばれます。羊とはまず「羊飼いは自分の羊の名を呼んで」(10:3)主が名をもって呼ばれる一人ひとりの信仰者です。そして「自分の羊をすべて」(10:4)と言われる羊の群全体、つまり教会のことです。さらには「この囲いに入っていないほかの羊」(10:16)つまりこれから主を信じ従う方々も含まれています。主の愛をもって教会を愛し、その救いの達成のために御言葉や具体的な必要を備え、悪魔の攻撃から守ることが、羊飼いとしての福音宣教者の務めです。

 ここで「わたしの羊」と言われていることに心を向けましょう。教会はペトロや私たちのものではなく、キリストのものです。主イエスこそ、羊のために命を捨てた真の羊飼いです(ヨハネ10:11,18)。

 主にある兄弟姉妹にとって何が本当に大切なことだろうか、今世界中の教会の牧者たちは悩み祈りながら決断しています。どうか牧者たちを祈りによってお支えください。しかしながら一番傷つき涙し、最終的な責任を担っていてくださるのは、大牧者であるキリストです。この主が昼も夜もとりなしてくださっていることを覚える時に、私たちは力づけられ、自らの欠けたる働きをも御手におゆだねすることができるのです。

 「わたしを愛しているか」と「わたしの羊を飼いなさい」のお言葉は、どうつながっているのでしょうか。主イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」です(1:29)。また「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と主は言われました。つまり主イエスを愛するとは、小さく助けを必要とする者を養い育てることを意味します。それが小羊である主イエスに仕える業となるのです。

 「わたしの羊を飼いなさい」のお言葉は、直接的には牧師などに語られた言葉ですが、私たち一人ひとりも小さな牧者としてそれぞれの場に遣わされています。魂を養う教会の働きには御言葉の宣教と愛のわざの両輪がありますが、これをすべて牧師が担うには限界があります。主の御心はそれを皆で分かち合って進めていくことです。初代教会において選出された執事たちが愛のわざに携わり、使徒たちは祈りと御言葉の奉仕に専念したようにです(使徒6章2~4節)。

 不特定多数の人に伝道や愛のわざをすることは、今は難しいでしょう。しかし逆に考えると、家族や職場の方に私だけが接することができる、という立場や資格をいただいているわけです。私たちは今、一番身近な人に遣わされていることは間違いありません。主が私たちにおゆだねくださった方々を覚えて祈り、愛を注ぎましょう。ご自宅で礼拝を守るお姿も証となります。また身近な人以外でも電話や手紙によって、もちろん祈りによって、慰めや励ましを送ることができるでしょう。

 主の羊、大切な魂を牧する愛も信仰も私たちにはありません。けれども主がその務めをお与えくださいました。主が奉仕者に問うことはただ一つ、「わたしを愛しているか」です。私たちも「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」とお応えし、主がすべてを満たし支えてくださることを信じて歩みだしましょう。牧者だけが一方的に羊を養うのではなく、羊がいるからこそ牧者は立ち続けることができます。誰かのために仕えお導きすることを通して励ましを受け、大切なことを学ばされます。それは労を担ったものだけが味わうことの許される恵みです。

 

2.願わない道を通される時に、神の栄光は現される。(18~19節)

 さて主イエスは大切なことをペトロに告げられました。「「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」かつてペトロは十字架に向かう主に「主よ、どこへ行かれるのですか。」と言いました(ヨハネ13:36~37)。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と主が答えられると、ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。」とたずねましたが、その答えがこの18~19節だということができます。

 帯を締めるというのは、急ぐ時や仕事をするときに長い上着の裾をからげて帯に挟むことです。ペトロが自分の望むように生きてきた姿がここに示されています。それは自由で力あることのように思えます。しかしペトロが持っていたものを手放し、望まない道を連れていかれる時にこそ、神の栄光が現わされるのです。

 主に用いられた僕として代表的なのは、旧約ではモーセ、新約ではパウロということができます。エジプト王室で最高の教育を受けて育ったモーセは、40歳の時大きな失敗を犯して遠い地に逃げ、羊を飼う貧しい者として過ごしました。イスラエルの民をエジプトから救い出す指導者としてモーセが神に立てられたのは、その任にたえうる力が自分にはまったくないと畏れおののく者として砕かれた、80歳の時でした(出2:11~、3:10~12)。またパウロはかつてユダヤ教の指導的立場にあるエリートでしたが、彼が福音伝道者として用いられたのは、徹底的に自らの罪に打ちのめされ、体に弱さを受け、キリストのみが誇りだと知らされてからでした(Ⅰテモテ1:15~16,Ⅱコリ12:7~10,フィリ3:5~9)。パウロはたびたび死の危険を味わい、教会の諸課題に心を痛め、福音のゆえに投獄されつつも、主によって大きく用いられたのです。

 ペトロが主と教会のための苦難を経て、死をさえ覚悟する愛に生きる者となることを、主ご自身が保証しておられます。「両手を伸ばして」は古くから、十字架の姿を示すと解釈されてきました。ペトロはローマ帝国による迫害の中、逆さ十字架に架けられて殉教の死を遂げたと言われます。主に任命された時まだ弱かったペトロが、やがて、殉教の死に至るまで生涯をかけて、主に従ったのでした。私たちもしばしば、自分の願いと違う道を通らされます。しかしその道の途中で私たちは、救いを伝えるのは私の力によるのではないことを知ります。そしていつしか、神のご栄光が現わされる器となるために、必要とあらば私を砕いてくださいと願い、小さき者を用いてくださる主を賛美するようになるのです。

 「ところで、わたしたちは、このような宝(福音)を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。…その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(Ⅱコリント4:7,5:15)

 

3.あなたは、わたしに従いなさい。(22節)

 ここに「イエスの愛しておられた弟子」(20節)が出てきます。彼はペトロと親しかったようで、最後の晩餐の席でも(13:23,24)、復活の知らせを受けて墓に出かけた時も(20:2,3)、ガリラヤ湖での大漁の時も(21:7)、二人は行動を共にし、言葉を交わしています。イエスの愛しておられた弟子は、この福音書を記した12使徒の一人ゼベダイの子ヨハネであるといわれています。「イエスの愛しておられた弟子」という表現は、自分の名を表に出さない僕としての在り方とともに、、主の愛を受けた感謝があふれ出ていることが感じられます。

 さて牧者として任命された後ペトロが振り向くと、この弟子がついて来るのが見えました。ペトロは彼を見て「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねました。自分には牧者としての務めが与えられ、また老年になったら何らかの苦難があるようだとわかりましたが、この弟子にお言葉はないのか、彼の将来はどうなるのかが気になったのです。すると主はペトロに「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」とお答えになりました。

 信仰は「あなたはわたしに従いなさい」という主イエスのお言葉に応答することです。他の誰でもなく私が、主イエスに従うのです。ペトロは以前主に招かれ、湖の上を歩いたことがありました。主の御言葉を信じ、主のみを見つめていた時には進めました。しかし突風が吹いてこわくなり、主を見失ったとたんに沈みだしました(マタイ14:30)。主以外を見てしまいがちな私たちです。それはほかの人のありようだったり、絶えず移り変わる情報の波であったりします。

 私たちはキリストに直通でつながっているでしょうか。誰かを通じてつながっていては、その糸はいずれ切れてしまうでしょう。一人ひとりが主に従う時にこそ、同労者である兄弟姉妹、牧師を心から愛し、それぞれに与えられた賜物や使命を喜び、一つ心で進むことができるのです。愛されている弟子のことは主イエスのご支配の中にありますから、ペトロが心配する必要はありません。私たちが自分の使命に忠実である時、他の人は主がそれぞれにふさわしい道を備え配慮されることを信じ、ゆだねられるのです。

 主はこの弟子がペトロより長く生きるであろうということを示されたにすぎません。このことを通して私たちは、主への服従の仕方、仕え方はそれぞれ違うことを知ります。それでよいのです。ペトロのように殉教のような形で生涯を閉じる人もありますし、この弟子のように長生きをして主に仕える人もあります。

 主を否認してしまったペトロに復活の主が新たに出会ってくださったことは、私たちの大いなる慰めと希望です。主は私たちをも、どんな時も変わらぬ愛をもって愛してくださっています。教会は何度つまずき倒れても、つねに主によって癒され、回復させられ、新たな力を受けて歩んできました。そして主が再び来られる時まで、私たちは引き続き主の愛を全地に満たすために仕えるのです。

 「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。… そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒20:28、32) 祈りましょう。

 

 復活の主よ、教会のお一人おひとりをお支えください。主の変わることのない愛によって、私たちはあなたの羊を飼う者として遣わされます。主よ、共にいてください。主の御名によって祈ります。アーメン。