「きれいごとでない祈り」7/26 隅野瞳牧師

  7月26説教 ・聖霊降臨節第9主日礼拝
「きれいごとでない祈り」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書18:1~14

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 本日の箇所では、キリストが再び来られることを信じる者の祈りについて、記されています。3つの点に目を留めて御言葉にご一緒に聴きましょう。

1.大胆に祈り、働きかけを続ける。(1節)

2.神と罪人である自分だけを見て祈る。(13節)

3.神が私たちの叫びを聞き、正しく裁いてくださることを信じる。(7節)

 

1.大胆に祈り、働きかけを続ける。(1節)

 17章では神の国が来ることについて語られましたが、それに続いて主イエスは祈りについてたとえで教えられました。再臨への備えは祈りにあるからです。まず、気を落とさずに絶えず祈ることについてです。

 最初のたとえには、神を畏れず人を人とも思わない裁判官と、やもめが出てきます。神を畏れるとは、人が見ていなくても善きも悪しきもご覧になり、すべてを御手のうちに支配される神を意識することです。神への畏れを持つ者は自分の生き方を吟味し整えていこうとしますが、神を畏れない者は人を人とも思わず、隣人を尊重しない傲慢な生き方となっていくのです。

 さてこのような裁判官が立てられている町に、一人のやもめがいました。聖書において孤児と並んで記されるやもめ、夫と死別し独身となった女性は社会的弱者の代表でした。神はやもめに特別な憐みを示し、人々に正義と愛をもって彼らを扱うよう命じられました。一族を守っていく夫に先立たれ、再婚できずにこどもや親を養う場合、生活はさらに困難を極めました。さてこのやもめが裁判官のところに来ては、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えていました。裁判官はしばらくの間は取り合おうとしませんでした。この訴えを取り上げても面倒なだけで、賄賂や報酬が期待できなかったからでしょう。

 主イエスはこのやもめの姿に、気を落とさずに絶えず祈る者の姿を見ておられます。私たちを取り巻くこの世の現実はまことに厳しく、祈っても何も変わりはしないと思いながら、言葉だけで祈っていることがあります。少し希望が見えたかと思ったらまた閉ざされる、その繰り返しの中で、もう傷つきたくない。希望をもって心を注いで祈ることに疲れ果て、そのような祈りとならざるをえないのかもしれません。信仰そのものが萎えてしまいそうになるのです。

 けれどもやもめは「正しい裁きが行われること」を求め続けました。彼女が弱い者、貧しい者たちの正当な権利が守られ、支えられることを求めたように、私たちもこの世界を神が正しく裁き治めてくださるように、正しく生きようとする者の命が、ささやかな幸せが守られるようにと祈っています。困難な現実の背後にも、神がこの世を支配しておられることを信じているから祈ることができるのです。今の状態は決してあるべき姿ではない、神の御心ではないとの確信です。

 裁判官はしばらく訴えを放置していましたが、彼女のために裁判をしてやろうと考えなおしました。それは彼女がうるさくてかなわないからでした。このままにしておくと彼女がひっきりなしにやって来て、さんざんな目に遭わされると思ったからです。そして主イエスはこう言われました。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」。

 「不正な裁判官」(6節)という表現で、16章の「不正な管理人」を思い出された方もおられるでしょう。本日のたとえに出てくる裁判官は極悪というわけではなく、よくいる普通の人間といえます。もちろん賄賂や権力、感情で裁判を曲げることがあってはなりませんが、法にのっとって誠実に務めていても、神の目からみれば皆、不正な部分をもつのです。

 主イエスはここで私たちの祈りを聞いて下さる神を、この裁判官と重ね合わせておられます。神が不正な裁きをなさるというのではなく、「まして神は」(7節)です。この世の裁判官でさえそうなのだから、神はどれほど正しく裁き私たちを救ってくださるだろうかということです。神は決して私たちの叫びを聞いてそのままにされることはない、必ず速やかに裁いてくださるのだ。神の裁きとご支配、つまり神の国が必ずもたらされることを信じて、気を落とさずに絶えず祈り続けなさいということを、主はこのたとえによって語っておられます。再臨の時の神の裁きは、私たちの真の救い、慰め、希望です。

 やもめの訴えはしばらく聞かれませんでした。けれどもこれがまったく無意味だったのではありません。一度や二度で訴えをやめてしまったなら、裁判官の考えが変わることはなかったでしょう。やもめの訴えは少しずつ積もって、裁判官を動かすこととなったのです。私たちも神に祈る中で、果たして神は聞いてくださっているのだろうか、むなしいことをしているだけではないかと思うこともあります。思うように道が開かれない時の祈りは、一回二回祈るだけでも疲れ、何も変わっていないかのように感じます。しかし私たちを選び神の子としてくださった神は、この裁判官とは比較にならないほどに祈りを聞いておられます。

 やもめは権利を擁護してもらわなければ生きていけませんでした。自分あるいは家族の命の問題だから、裁判官のもとに訴え続けるしか道はなかったのです。神が支えていてくださるから祈り続けられる。祈らなければ私には与える愛がない、勇気がない。あの人の苦しみを思うと祈らずにはいられないというのが、真実の祈りではないでしょうか。

 裁判官は依然として神を畏れないし、人を人とも思いません。私たちもまた、祈りによって相手や状況の根本から変えてしまうことは、できないことがほとんどでしょう。しかし祈り続ける時に、神を畏れないこの世を通しても、神はご自身の正義を実現し栄光を現してくださるのです。

  絶えず祈るという御言葉で思い出されるのは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサ5:16~18)です。この御言葉も、キリストの再臨を意識しつつどのような生活を送るべきかが語られている箇所です。絶えず祈るとは夜も昼も、逆境においても順境においてもという意味です。聖書は魂の「糧」、祈りは魂の「呼吸」であると言われます。祈りは聞いていただくためだけでなく、祈る私たち自身が信仰者として健全に成長し、力を与えられていくために神がお与えくださった道です。息を止めていれば窒息してしまうように、私たちにとって祈りは絶対必要なものです。しかし呼吸は自然にできますが、祈りは自分で祈ろうとしなければ祈れません。神は私たちが祈れるように助けてくださっていますが、私たちは自分の意志で祈ることを決断し、実行することを選ぶ責任があります。祈れない、どのように祈ったら良いか分からない時には、聖霊のとりなしにゆだねて祈りを続けましょう(ローマ8章26節)。

 神は私たちが願う前から、私たちに必要なものをごぞんじです(マタイ6:8)。しかし「求めなさい。そうすれば、与えられる。」(ルカ11:9)祈りにおいて人間が積極的に求めることを神は望まれます。なぜなら神は私たちと親しく交わりをなさりたいからです。そのお取り扱いの中で御心を知り、力を受け、私らしく喜んで使命を果たすことができるのです。一人になれる場所があれば、教会に来た時だけでなくいつでもどこでも、私たちは祈れるのです。たとえ人ごみの中でも神に心を向けるならそれは祈りです。私たちは主イエスの御名によって大胆に恵みの座に近づくことを許されています(ヘブライ4:15~16)。そのままの自分で祈りましょう。大切な方のために祈りましょう。

 祈る時に、みなさんは御言葉をお読みになっていますか?祈りは神との会話ですから、神のお約束をいただき、それに応答し御言葉を握って祈ってください。また祈っているのに聞かれない、御顔が見えないという信仰者たちが、聖書にはたくさん出てきます。その筆頭が十字架の御子です。それらの箇所を読む時に私たちは慰めと励ましを受け、彼らの末がどのようになったかを知って希望を持つことができるのです。そして祈る際にもう一つおすすめしたいのが、祈りの課題を書き留めておくことです。神の答えがあるまで忍耐強く祈り続け、答えをいただいた時に記入します。過去の祈りをふりかえると、いろんな形で祈りが聞き届けられたことを覚えて感謝に導かれ、さらなる祈りへと深められていくのです。

 

2.神と罪人である自分だけを見て祈る。(13節)

 9節以下にはもう一つの信仰、祈りの姿がたとえで語られます。ファリサイ派の人と徴税人が、祈るために神殿に上りました。この二人は、全く対照的な者として記されています。ファリサイ派は律法を厳格に守り、正しい生活を送っていた人々で、み前に出て祈るのに最もふさわしいと思われていました。それに対して徴税人は、神の民であるユダヤ人でありながら、異邦人であるローマに納める税金を徴収し、それによって私腹を肥している罪人の代表でした。

 ファリサイ派の人は心の中で神に感謝の祈りをささげました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(11~12節)。彼は、他の人やこの徴税人のような罪人でないことを感謝していました。そしてさらに、自分が神に仕えてどのようなすばらしい信仰の行いをしているかを祈りました。一般のユダヤ人よりもはるかに多く断食し、作物や家畜だけでなく全収入の十分の一まで徹底して献げている、他の人々が真似できないようなすばらしい信仰的行いをしていることを、彼は祈りにおいて神様に述べているのです。しかしファリサイ派の人の祈りは、神に聴かれる祈りではありませんでした。

 ファリサイ派の人は神に感謝していますが、彼が見つめているのは「ほかの人たち」の姿です。彼の感謝は神の救いや恵みに対するものではなく、他の人々と自分とを見比べて自分が勝っていることによる感謝です。そして彼がこの祈りにおいて見つめているもう一つのものは自分自身です。彼の心の目は他の人と自分自身にばかり向けられ、神への祈りになっていなかったのです。

 一方徴税人の祈りはたった一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」でした。存在をかけた祈りというのは、こういうものだと思います。彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈りました。「遠くに立って」というのは、神殿の境内のユダヤ人男子が入ることができる庭の中でも、聖所から遠くの隅の方でということです。顔を天に上げて祈るのがユダヤ人の普通の祈りの姿ですが、彼は御前に顔を上げることができませんでした。「胸を打ちながら」というのは、嘆き悲しみや悔いを表します。彼は自らの罪に打ちのめされ嘆き悲しみつつ、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。「憐れんでください」の派生語には、なだめを受ける、罪を償う供え物という意味の言葉があり、ここで徴税人は罪の赦しと救いを祈り求めていることがわかります。新約において御子は永遠の完全なささげものとして、私たちの罪の身代わりに十字架にかかってくださいました。私たちが神の憐れみ、罪の赦しを願うことができるのは、御子が犠牲となってくださっているからです。

 徴税人にはファリサイ派の人のような余裕はありません。徴税人とファリサイ派の人の明確な区別はどこにあるかといえば、徴税人は他人を見なかったということです。神に見られている自分しか知りません。神の憐みに支えられなければ、神と共に生きることはできないと身に染みて感じていました。

 この二人の対照的な祈りについて語った上で主イエスは、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われました。「義とされる」というのは、神の目に無罪、義しい者と見なされるということです。人々から罪人と言われ実際に罪も犯してきたであろう徴税人ですが、彼は神によって義しい者とみなされて家に帰ったのです。

 ひたすら神のみを見つめ、神による罪の赦しを願い求めた徴税人の祈りに応え、神は彼を義として下さいました。この二人の違いは、神の前に立っているか、それとも人間の前に立っているかです。そしてこのことが、高ぶるかへりくだるかという違いを生みます。神は私たち一人一人に対して、「あなたは私を信じるか」と問うておられます。あの人はどうなのかと比べることをやめて、一人神の御前に出て、神にお応えする時を持ちましょう。悔い改め、信じて救われるということを、難しく考えすぎていないでしょうか?「~ができることが、~の罪を犯さないことが赦しと救いの条件」ではありません。人や自分を見つめてばかりいる目を神に向け、神の裁きを信じつつそのみ前に立つならば、私たちはこの徴税人のように自分を低くし本当に祈る者となるのです。

 

3.神が私たちの叫びを聞き、正しく裁いてくださることを信じる。(7節)

 この箇所の二つのたとえの主題は祈りについてですが、背後にある本来の主題は「神の裁き」です。神がその正しさを貫かれるということです。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)。「人の子が来るとき」という言葉から、ここが17章後半の「神の国が来る」という話の続きであることが分かります。主イエスが再びおいでになり、救われる者と滅びる者が分けられて神の国が完成する時に、果たして地上に信仰を見いだすだろうかと言っておられるのです。ここでの信仰とは、神が公正な裁きを行われることを信じ、失望せずに祈り続ける信仰のことです。

 やもめは神の民の一人として、不正な裁判官を通じても神が義を行われることを求め続けました。私たちもまた、神が選んでくださっているという事実に根ざして、神が聞いてくださっていることを信じて叫び続けるのです。主の裁きというと滅びの面だけを見てしまいそうになりますが、裁くとは罪ある者を有罪とし、正しい者の権利を守って救い出すことです。このやもめのように、私たちが喜んで生きることができるために、神は必ず悪魔の働きを明るみに出されて裁かれます。地上の人生で決着を見ることができないようなことがあっても、最後の審判において必ず神の約束は実行されます。主は再び来られ、すべてを正しく裁いてくださる。私たちの涙をぬぐい、キリストの栄光の姿に私たちを完成してくださる。その日を信じ待ち望んで、励まし合い祈り合いましょう。

 ファリサイ派の人の祈りのように、私たちにも主が見いだしてくださる信仰がないことがあるでしょう。しかし主はそのような私たちであっても、信仰に根ざす祈りへ導きたい、ご自分が見出して喜ぶことができるような真の信仰に入ってほしいと願っておられます。礼拝のたびごとに義とされた喜びを新たにされて、生活の場に帰り、希望をもって今日を祈りつつ歩んでまいりましょう。

≪説教をPDFで参照、印刷できます≫

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