「この方が本当に世の救い主」9/19 隅野徹牧師

  9月19説教 ・聖霊降臨節第18主日礼拝
「この方が本当に世の救い主」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書4:25~30,39~42


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいますが、3週に分けて「サマリアの女」のお話しの箇所を読むことにしています。今回がその最終回です。31節から38節は「伝道について、その実りの収穫について」語られていますので、10月第二週の「神学校日礼拝」の時に読むことにします。

 今日の箇所の最後の節である42節をご覧ください。サマリアの人たちが「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」と言った、とあります。この言葉で「サマリアの女の話」は締めくくられている「結論とも言うべき言葉」です。非常に印象的な言葉ですので、今週の説教題にも付けさせていただきました。

 皆様よく思いめぐらしていただきたいと思います。サマリアの人たちがこの告白をするのが、どんなに「奇跡的か」ということを。

 先週お話ししましたが、サマリア人はユダヤ人と絶交したことで、我流の聖書解釈をし、「土着宗教」のような感じになっていました。本来の神と共に歩む歩みから外れたのです。しかし、そんなサマリア人に「神の真理が伝わり」そして「イエス・キリストを本当の救い主として信じ受け入れる」決心が与えられたのです。この奇跡を、順を追って味わいましょう。

 私たちの住む日本も「土着宗教」が強く、なかなかイエス・キリストの福音が伝えにくい状態、しかも今は「コロナ禍」という難しい時代であります。それでも「希望がある!」ということを皆で確認したいと願います。

 まず先週までの流れを確認しましょう。

民族的対立を超えて「敢えて、サマリアに行かれた」神の御子イエス・キリストはヤコブの井戸と呼ばれる場所に腰を下ろされ、「低くて弱い、求める者」となられ「相手を上に置いて」水を飲ませて下さい、とお願いをされたのです。その相手が「人目を避けて井戸に水を汲みに来た、ある女」でした。彼女は当時の結婚制度のもとで苦しみ「人間不信に陥っていた」と考えられますが、イエスは、まず「この女」に近づかれて、対話を始められたのです。  

イエスは10節で「私は生きた水をあなたに与えることができる」、13節14節で「私たちは霊的な飲み物を与えることができる。それは、心の中で泉のように働くので、心は永遠に渇くことがなくなる」と、重ねて熱心に語られるのです。

女はこのことを深く悟ろうとせず、馬鹿にしたような返事をしましたが、イエスはなおも!彼女の心の奥底に光を当てられるのです。

 「わたしの気持ちなんて誰も分かってくれやしない。そして神様は私を救ってくれやしない…」きっと苦しさから、また絶望から神を礼拝することを放棄してきたであろうこの女ですが、その思いをすべてご存じのお方に出会ったことで、目の前におられるイエスに「神の導き」を感じたのでしょう。失っていた「神を畏れ敬う気持ち」が回復します。そして「神に礼拝をささげるにはどうしたらよいか」と尋ねたのです。

 それに対してイエスが答えられた言葉が21節~24節でした。

イエスは「婦人よ、私を信じなさい」と言われたのに続き、「特別な場所や、ささげものに捕らわれない礼拝、地上のすべての民族がそれぞれにささげられる新しい礼拝の時が今まさにここへ来ているのだ」と告げられるのです。その新しい礼拝は「霊と真理をもってささげる礼拝だ」と教えられます。

「あなたは傷ついてきた。生きる意欲を無くしてきた。でも今神のみ前に出ようとしている。これから新しい命が始まるのだ。神の御子であり、永遠の命を与えることができるこの私を通して、誠心誠意、天の父の前に礼拝をささげよう。そのことを天の父なる神は心から待っておられるのだ」

このようなイエス・キリストの愛の招きにより「サマリアの女がどう変わったか」が描かれたのが今回の箇所です。

まず25節から26節です。今日の中心箇所ですので読んでみます。

サマリアの女は「救い主キリストが来られる」ということを知っていました。苦しい生活の中でしたが、心の奥底では「救い主が到来し、分からないことが多くあるこの世にあって、すべてのことを明らかにして下さるのだ」を希望としてもっていたのはないでしょうか?だからこそ「思い出せた」のだと思います。

彼女のように、苦しい状況に置かれ、人からも傷つけられている人はこの世に数多いらっしゃいます。その方たちが、神の時に「この状況のまま希望のないままで終わるのではなく、神は救い主を送って下さったと聖書は教えていたな…」と思い出していただけるように、地道に福音の種を蒔いてまいりましょう。

さて25節に改めてご注目下さい。ここの女の言葉は「ただメシア到来の知識をイエスに披露したのではない」ということです。多くの注解者がいうように、「彼女は目の前におられるイエスが誰であるのか、分かり始めた」という風に私も理解します。

イエスの「わたしを信じなさい」という愛の招きにより、「霊と真理の礼拝」に導かれることで、「あなたこそが救い主ではないですか?」という思いが湧き、イエスに言った。すると「私がそうである」とイエスが答えられたのです。              

この場面を今の私達に照らし合わせて、思いめぐらしてみましょう。

私たちの現在の日々にも様々な苦しみ・悲しみがありますが、それが何も変わらないと思ってはおられないでしょうか?絶対にそうではありません。

救い主としてこの世に来てくださったイエス・キリストは十字架にかかり、私達の罪を贖ってくださった後、復活され、永遠の命に至る道を開いてくださいました。今天におられるこのイエス・キリストに、私達はこの地上での歩みを終えた後「相まみえることができる」のであります。そのときにはこの世で疑問に感じていたことも含め「一切のことを」明らかにしてくださるのです。

この希望を、キリストに向かって告白するなら、心の耳に対し必ず主からの応答があると信じます。 私たちは、キリストの何を知っているのでしょうか?そしてキリストに何の希望をかけているのでしょうか? このシーンを強く心に刻み、日々の歩みの中で「自分の言葉によって生き生きと」信仰告白をしてまいりましょう。

この信仰の告白とイエスからの応答を聞いたからこそ、残りの部分の感動的な話は進んでいったと考えます。ではまず27節から30節です。

サマリアの女は水がめを置いて町に向かいます。それまで自分が「接触を避けてきた人々」のもとにいって、救い主のことを知らせに行ったというのです。なんという変わりぶりでしょうか!

それまでサマリアの女は人に会うのが嫌だったけれども、生きていくために仕方なく水を汲みに行ったのでした。「不要不急」という言葉が流行った昨今ですが…「不要不急ではない、必要に迫られた彼女の外出」をある意味象徴しているのが「水がめ」ですが…その水がめを置いて彼女は、人々のところに向かうのです。

ここにキリストに出会い救われた人に表れる2つの大きな特徴を見て取れます。①つ目は、「それまでしがみついていた物に固執しない人生を送れるようになる」ということです。主が共にいてくだされば、あとは何とかなる…。イエスご自身がマタイ6:33で教えられている「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」との約束を信じて生きることができるようになるのです。

②つ目の「救われた人に表れる大きな特徴」は、救い主に出会ったことを自然と人々に証しするようになる、ということです。彼女にとって町の人々は会いたくなかった人々でした。しかし、救われた喜びは、そうした人間が作っている壁をも超えて「この人に伝えたくてたまらない…」そのような思いを湧きあがらせるものだということを教えられます。私たちには、今の2つの変化はあるでしょうか?顧みてまいりましょう。

 最後に39節から42節を読んで、メッセージを閉じます。(※ここも読みます)

まずサマリアの女によって、多くの人が「イエスが救い主である」ことを信じてイエスのもとに来ます。そしてイエスに「もう少しここに留まってほしい!」と頼んだのです。2日間そこに留まられたイエスは「神について、救いについて」熱心に語られたのでしょう。その言葉を聞いて、更に多くの人々が「この方が、本当の世の救い主である」ということを信じたのです。

サマリアの女のことをすべて言い当てたから信じたのではなく、イエスにしっかりと会いにきて、またその言葉をしっかりと聞き、自分で決めて「信じたのだ」ということが最後の42節に語られています。

私達の周りは、神の業に溢れています。その神の業に多くの人が気づくように導かれ、その後「神の家であり、イエス・キリストの体であるこの教会においで下さり、神の言葉を聞くことを通し、自分の意志で「イエス・キリストが救い主である」と受け入れて下さることを切に願います。

今回見た「一連の救いの業」は、一人の苦しんでいた女性が「主によって救われ、変えられた」証しをしたところから始まったことを聖書は私たちに教えます。これは私たちも「同じように救いの初穂として用いられる、そのことを神がお喜びになる」ことを教えているのではないでしょうか?

 今日お集まりの皆さんの多くは「なぜ真面目に生きている自分が、こんなに苦しまねばならないのだ」という思いを抱えた経験があると思います。でも、そんな状態の一人ひとりだからこそ、「主が働いてくださった証し」は、より多くの人に真実味をもって伝わると信じます。

 皆様がサマリアの女のように、町の人々の救いの初穂となって用いられるように。そのためにまず、「イエス・キリストが自分の救い主であること」を、自分の生きた言葉で告白することから始めましょう。今大変な時代ですが、信愛教会の一人ひとりを通して、イエス・キリストを救い主として信じる人が一人でも多くあらわれるように希望し祈ります。  (祈り 沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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