「さあ、救い主に会いに行こう」12/24 隅野瞳牧師

  

  12月24日 クリスマス・イブ礼拝
(19:00~20:00)

「さあ、救い主に会いに行こう」
隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書2:8~20

最下段からPDF参照、印刷出来ます

 本日の箇所には、イエス・キリストのお生まれになった知らせを最初に聞いて会いに行ったのは羊飼いたちであったことが記されています。2つの点に目を留めて、神の言葉に耳を傾けましょう。 

1. 飼い葉桶の主に出会えない人は一人もいない。(12節)

2. 救い主に会いに行ったなら、自分が聞いた福音を知らせ神を賛美する者となる。(15,17,20節)

 

世界ではじめのクリスマス、神が人となってお生まれになった出来事は、この世界の片隅で起こりました。しかし神は何人かの人々をお選びになり、この出来事とその意味をお知らせになりました。それが本日登場する羊飼いたちです。

2000年ほど前のイスラエルです。人々は、当時その地方を支配していたローマ皇帝アウグストゥスの勅令によって、住民登録をすることになりました。植民地の住民の徴兵と課税のために台帳を作るのです。しかしこのような世俗的な、強いられて行く道をも用いて、神は救い主がベツレヘムにお生まれになるとの預言を実現されたのです。ナザレに住んでいたヨセフも臨月のマリアを連れて、120kmの道を故郷ベツレヘムに向かって旅立ちました。ようやくたどり着いたベツレヘムの町は住民登録をする人々であふれていました。出産が間近なマリアがいるのに泊まる宿もなく、マリアは家畜小屋で主イエスを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのでした

救い主がお生まれになったまさにその地方で、羊飼いたちが野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。彼らは羊の所有者ではなく雇われています。夜も強盗や獣が襲ってくれば、所有者の羊を時に自分の命と引き替えにしてでも守らなくてはなりません。羊飼いたちの仕事に休みはなく、徴兵など社会的な責任を果たすことができませんので、彼らはローマの住民登録から漏れていました。つまり彼らには戸籍がなく、人間として数えられていなかったのです。彼らは安息日を守り礼拝に参加するなどの、ユダヤの宗教的な決まりを守ることもできませんから、汚れた者とされていました。しかしその一方で聖書においては、民を守り導く神また主イエスは羊飼いに例えられ、イスラエルの民を導いたモーセやダビデももともと羊飼いでした。誰にも価値ある者と見られず日々を必死で生きている彼らを神は心に留め、救い主がお生まれになった知らせを最初に伝える者としてお選びになりました。

夜の闇の中にあった彼らのもとに突然主の天使が現れ、この世のものではない光が彼らを照らし出しました。それは神がまさにそこにおられる光であって、彼らは今神の御前にいることを自覚して恐れました。主の光に照らされるとき、私たちの罪はすべてあらわにされます。最初の人間アダムとエバが神に背き、主なる神が近づいた時、彼らは神を恐れて裸の自分を隠しました。ありのままで神に向い神を喜ぶことができないのは、自分が正しくないことを知っているからです。人に対してではなく、聖なる神に向き合う時、自分は正しいと言えなくなります。そこに生じるのは罪の意識であり、恐れをもたらします。しかし神は天使を通して「恐れるな」と呼びかけ、まさにあなたたちのために救い主がお生まれになったと告げてくださいました。主イエスによって罪が赦される時に初めて、神が共におられることが喜びとなるからです。

 

1. 飼い葉桶の主に出会えない人は一人もいない。(12節)

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(10~11節) 

人々に神から遠い存在と見られ、羊飼いたちも自分たちは神の約束に関係ない者だと感じていたかもしれません。しかし全世界のすべての人に与えられた救い主の誕生の知らせは、真っ先に彼らに告げられました。神が伝えたいことは、漠然とした「民全体」…すべての人を救うためにということではなく、「あなたのために」救い主がお生まれになったということです。あなたが自分をどれほど神から遠い存在だと思っていたとしても、あなたは意識する前から神の手に抱かれています。神は「私とあなた」という関係を結び、救いの恵みを与えようとしておられる、それが天使の告げた大きな喜びなのです。

 「今日」、二千年ほど前のある日。神の御子イエス・キリストは歴史上のある時点に、この地上にお生まれになりました。そして私達がイエス・キリストを自分の救い主として受け入れる時、その人にとっての「今日」、御子は私たちの内にお生まれくださり、クリスマスの出来事が起こっているのです。この私のためにも、いやこの私のためにこそ、御子は救い主としてお生まれになりました。

ローマ皇帝アウグストゥスは、北アフリカ、中東、ヨーロッパを平定し、平和を確立した救い主と呼ばれていました。しかし住民登録がそうであったように、大きな力による支配には必ず抑圧される人々がいます。ローマの圧政に苦しむユダヤ人たちは、そこから解放してくれる偉大な指導者としての「救い主」を待ち望んでいました。真の救い主は、人から奪い押さえつける力によってではなく御自身を与えることによって、その愛を受けた者が変えられることによって平和を実現されます。救い主はやがて十字架にかかって私たちの罪を代わりに背負われることにより、私たちの救いを実現するのです。

天使は生まれる御子が「主メシア」であると告げます。「メシア」は「キリスト」と同じ意味で、神によって特別な役目に任じられた王や祭司などを表しますが、特に神の決定的な救いをもたらす救い主をさします。「主」とは生きて存在する神の名であり、お生まれになる御子は全世界を統べ治める王、礼拝を受けるべき方なのです。

この救い主にお会いするためのしるしを天使は告げました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(12節) 

栄光の王、神である方は、なんと布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子だというのです。このお姿は、御子がどこまでも低く地上を歩まれることを示しています。どんな私たちであっても共に生き罪から救い出すために、神の御子は十字架への道を歩まれるのです。神が与えられたしるしは、そのへりくだりです。主イエス・キリストご生涯となされた愛の御業に、その死と復活に、わたしたちは神のことばを見ることができます。あなたと出会い、あなたの魂の内に生きてくださるために、御子はお生まれになりました。それを信じた時に、本当の意味でクリスマスの喜びがあるのです(ガラテヤ2:20)。

すると突然この天使に天の大群が加わり「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」と神を賛美しました。「いと高き所」とは、神の住んでおられる天国のことです。ここで言う「平和」とは争いがないというだけではなく、愛し合う状態があることです。主イエスによって私たちの罪が赦される時、私たちは安心して喜びのうちに神と生きる、神との平和が与えられます。独り子をお与えになるほどの神の愛によって、私たちは自分が尊い存在であると知り、自分との平和が与えられます。そして他の人々をも大切な、かけがえのない存在として受け容れる平和の関係となります。神の招きに答えて主イエスのもとに行くならば、私たちは罪赦され、神の御心に適う者とされるのです。

 

2. 救い主に会いに行った者は、自分が聞いた福音を知らせ礼拝する者となる。(15,17,20節)

「天使たちが離れて天に去った時、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」(15~16節)

彼らは出発し、ついに飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当てました。与えられた御言葉を信じるとは、その御言葉が指し示すしるしを「行って」「見る」ことです。乳飲み子がベツレヘムのどこにいるかまでははっきりわかりませんでしたが、それでも羊飼いたちは互いに励まし合いながら探し続けました。羊から目を離していいわけではありません。それでも天使を通して神がお告げになった救い主に、すべてをかけてお会いすることを決めました。私たちにも「こんな時に…」と思えるようなお声がけが神からあります。しかし主の招きに応えられるチャンスは常にあるわけではありません。その時が来たら、すぐ応答できる私たちでありたいと思います。

彼らは忙しい働きの場で神の御声に接し、主イエスを礼拝する者となりました。神は時間的に余裕のある人ではなく、日々の務めの中にある人を最初の礼拝者として招いてくださいました。慌ただしい日々の中でこそ神の御声に耳を傾け、飼い葉桶のような現実の中にこそおられる御子を見つけたいと思います。イエス・キリストを信じて生きていくなどできないのでは、と思われるでしょうか。人の意見や過去の常識ではなく、自分の心で主イエスに出会い、そのすばらしさを確かめてください。

 「行って」「見る」信仰は、神の言葉を信じて歩む者たちの生き方を変えます。「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。」(17節)

神の言葉を聞き、信仰を持ってそれを受けとめた者は、主から告げられたことを今度は人々に知らせます。羊飼いたちはマリアとヨセフからも、主イエスの誕生についていろいろと話を聞いたに違いありません。この大きな喜びは民全体に告げ知らされるものであり、羊飼いたちはその仲介者としての役割を与えられたのです。

しかしその喜びを告げられた人々は、羊飼いたちの話を不思議に思っただけでした。それは人々が救い主がお生まれになったことを受け入れなかったからです。人々は羊飼いたちに比べれば、御言葉や礼拝に親しみ、知恵のある人たちだったでしょう。しかしどんなに頭で知っていてもだめなのです。小さくても一歩を踏み出し、主に出会わなければ。「23. わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24. ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。…27. 神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」(Ⅰコリント1:23~27)

クリスマスシーズンになると、イルミネーションやうきうきしたお祝いムードが漂います。しかしそこに本当の喜びはありません。この時期は特に、孤独や生活に困難を覚えておられる方の苦しみが増し、空しい気持ちでいっぱいになります。もしあなたがキリストに出会ったのなら、それらの方を思う時に心を痛めず、見ないふりをして過ごすことなどできないはずです。「あなたのために救い主がお生まれになったのです。あなたは、決して一人じゃない。」初めは分かってもらえないでしょう。それでも何度でもこの喜びを伝えましょう。いつかその人の心にひっかかっていた福音が心にストンと落ち、その人を救う時がくると信じて。

飼い葉桶に寝かされている乳飲み子が、あなたがたのための救い主の誕生のしるしであると天使が告げたことを聞いて、人々は驚いただけでした。しかしマリアはその言葉を聞き、自らが体験した出来事を思いながら、全てを心に納めて思い巡らしていました。思い巡らしとは、神が人に何かを明らかにしている時に、神に祈り御旨を求め続けながら、物事を理解しようとすることです。私たちは御言葉、また自分の身の回りに起こってくることについて、どれほどじっくりと考えたことがあるでしょうか。神を信じているのにこんなことになってしまったと結論を急ぐのではなく、神が何を語ろうとしておられるか、静まって考える時を持ちましょう。今はわからなくとも、御言葉に心を留める。日常の出来事に、自分にとってどのような神からのメッセージがあるのか、気づかせてくださるよう祈りましょう。

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)

羊飼いたちは幼子にお会いし、何もかも天使の話したとおりであることを知って神を賛美しながら、野原に帰っていきました。彼らは天使の賛美を聴く者から、賛美をささげる者に変えられたのです。ラッキーなことが起こった、願いがかなったというのは一時的なことで、その人の生涯に残るような喜びではありませんし、品性や人格の一部になることもありません。しかし真の喜びは、苦しい現実をなんとか歩む中で神の語りかけを聞いているうちに、苦しみが喜びに変えられる祝福として与えられます。

自分の内側が変わらないままで外からのものを追加しても、本当の喜びを味わうことはできません。外見がよいとか財産があるとか、人から賞賛されるような人生であっても、心は孤独で空しく恐れの中にある人はとても多いです。しかし神からの愛を受けるならば、私たちの内から神への感謝、救いの喜びがわきあがり、その愛を与えることで喜びに満たされるようになります。

 救い主に出会った後も、彼らは依然としてローマの支配と日々の労働という現実の中にあります。しかし彼ら自身が変えられました。彼らの賛美は、神の救いの内をすでに生き始めている証拠です。そして、同じことがここにいる私たちにおいても始まります。

私たちも今日心を新たにして、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と、主イエスのもとに馳せ参じる信仰を持ちたいと思います。御言葉は決して私たちを裏切りません。御言葉に従うならば私たちは必ずや「何もかも本当であった」と神をあがめ、賛美する者に変えられます。どうぞ今日、神がお一人おひとりに語ってくださった御言葉が、私たちの心から溢れてくるまことの喜び、賛美に変えられますように。お祈りいたしましょう。

 ハレルヤ、こんなに小さく、罪の中にある私たちに目を留め、まさにそのような者を救うために人となってくださった主をほめたたえます。この救いから漏れる人は、一人もおりません。あなたの十字架の赦しを感謝し信じます。御言葉に応え、飼い葉桶におられるあなたの御もとに進みゆきます。すべての人にこの知らせを伝えるために、どうぞ私たちを用いてください。すべての人の救い主、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 

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