「すぐそばにいるラザロに気づき、愛し合う」5/24 隅野徹牧師

  5月24説教 ・復活節第7主日礼拝
すぐそばにいるラザロに気づき、愛し合う
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書16:19~26

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 週報でお伝えしているように、山口信愛教会では役員会の協議により、来週から日曜日の礼拝を公に再開することを決定しました。従って、このようなZOOM配信という形での礼拝は今回で一旦終わりになります。

 一同に会して礼拝が出来る喜びを今まで以上に感じて、礼拝に臨みたいと思います。そして、「教会の会堂で礼拝をさせていただく」ということが、当たり前ではなく、神からの特別の赦しと招きのうちにあるということを覚えて礼拝に臨みましょう。このように「今まで以上に感謝をもって礼拝をささげられるようになるなら」礼拝の休止という全く想像もしていなかった今回の試練も、益として用いられると信じています。

 個人的には、このZOOM配信という形で持たせていただいたこの4週の礼拝は生涯忘れることがないだろうなと感じます。それは礼拝の持ち方が特殊で苦しい中だったというのもありますが、この間に示された御言葉があまりにも印象深いものだったからです。私にとって、どちらかというと好きな聖書箇所ではなかったルカ16章ですが、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けている今読むことで「実に味わい深い」と感じたからです。

 具体的には「自分の持っている一切の物を、神から預かったものとして理解し」、それを「自分のために用いるのではなく、困っている隣人を助けるために用いていくことの大切さ」が教えられています。人は独りで生きていくのではない…という大切な教えです。聖書の内容は決して浮世離れしていません!新型コロナウイルス感染拡大の影響下にある私達の現実に即して語られているということを感じます。

 今日の箇所も、同じようなテーマでの教えが読み取れます。私達の今の現実は、いつにもまして「苦しみがいっぱい」です。また世の中にも「毎日生きていくのに必要な物が十分に得られない」人がたくさんおられます。そういう今の時に、神が示された御言葉としてメッセージを味わっていただければ幸いです。

 本日の聖書箇所はイエスがなさった「ある金持ちと、貧しいラザロという人」の譬え話のです。きょうはその前半部分を味わうのですが、この譬え話のあらすじをお話しします。

 19節で分かる通り、イエスが譬えられた金持ちはいつも、高価な服を身にまとい、毎日ぜいたくに遊びくらしていました。一方のラザロは20節、できものだらけの貧しい人で、金持ちの家の門前に横たわっていました。

 そして21節、金持ちの食卓から落ちる残飯で腹を満たしたいものだと思っていました。しかし願いが満たされる様子はなく、犬が彼のできものをなめていたことだけが記されます。

 ラザロの「できもの」について語られているということは、おそらく服がほとんどなく、肌が見える状態だったということでしょう。また栄養状態も悪く、薬や医者に見てもらうお金もなかったのでしょう。貧しく、顧みられることもほとんどない人だということがわかります。

 この二人が地上の生涯を終えた後、それぞれどうなったかがこの物語の中心です。それが22節以下です。22節から23節までを読みます。

 ラザロは天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた、そのようにイエスは語られます。アブラハムは、よくご存じでしょうが、神の民イスラエルの最初の先祖であり、信仰の父であります。アブラハムはしばしば「悔い改める者を天に喜び迎える者」として理解されていました。そのアブラハムのすぐそばにラザリは連れて行かれた…そのようにイエスは言われるのです。ラザロは神の救いにあずかる人々の喜びの宴席のよい席を与えられたということです。

 これに対して金持ちはどうなったかというと、イエスは23節で「死者が行く場所である陰府において、もだえ苦しむようになった」と話されるのです。

 さて、この譬えを理解するうえで注意したいことですが、ラザロが良い行いをしたから天国へ行ったとは言われていないことです。しかし25節のアブラハムの言葉にあるように、生きている間に良いものをもらっていた者と悪いものをもらっていた者との立場が、死において逆転したとイエスは教えられているのです。

 私たちはここに、「天の国に行く」ことが「隣人の貧しさと非常に関係のあること」を学ばねばなりません。だれにも迷惑をかけず、ルールを破らないならそれでよいのではありません。隣人を愛すること、そして隣人を傷つけるその罪を悔い改めなければ天国に行くことはできないのです。

 人間は一人の力だけでは生きていけません。他者との関わりがあって初めて生きていくことができます。私たちの信仰が具体的にされるのは、隣人の存在なのです。隣人によって私たちは愛せない自分を知らされます。他者との関係の中で傷つき、傷つけられるということが全くないという人はいません。他者との関係で、愛することとはどんなことなのかを知る一方で、やはり他者との関係の中で自分の罪深さを知りながら生きていくのが人間です。

 イエスが譬えられたこの金持ちには悔い改めなければならない罪がはっきり見て取れます。それは、自分の目の前に「食べる物がない、生きていくのに苦しんでいる」人がいるのに、それを無視したことです。高級や着物をきて、高級なものを食べることが罪なのかどうかは私には分かりません。しかし!目の前に苦しんでいる、そしてすぐに助けられる人がいながら、贅沢三昧をするということは、「神と隣人を愛せよ」という律法の根本を破っていることは間違いありません。明らかに「自己中心」であり、罪を犯しています。

 富は魔物です。人の良心を麻痺させてしまい、隣人との関係をおかしくしてしまう危険性があります。自分だけで満ち足りていると他者と交わりをしないでよい、と勘違いしてしまうこともあるでしょう。

 ここ数年、国際社会でも日本社会でも「分断化」が大きくなり問題になっています。「自分と、自分の仲間だけが良ければそれでよいのだ」という考え方も一つの考え方として認められつつありました。しかし、今回の聖書箇所のイエスの言葉によって、そのような考えは早急に悔い改める必要があることが示されたと感じます。

 世界のすべては神によって造られた作品です。そしてすべての人は「神が独り子を犠牲にしてでも救い出したい」と願っておられる尊い存在なのです。目の前にもラザロがいる…そう考えることが大切なのではないでしょうか。

 私たちはあまりに近くにいる方については、逆に気づくことができません。無関心で過ごしてしまいがちです。経済的な困窮だけではなく、見えない部分で苦しんでいる人、慰めや力を求めておられる人はきっといます。その方々と共に歩むことの幸いを忘れずに歩みましょう。

 続いて残りの24~26節を読みます。

 金持ちは陰府に行ってもまだ自分中心でした。天国にいるラザロを奴隷のように使おうとします。本当に自分のことしか頭にないのです。

 注目すべきは26節です。金持ちとアブラハム、ラザロのいる神の国とは非常な隔たりがあって、越えることはできないということです。たとえアブラハムが金持ちの願いを断り、たとえそうしてやろうと思ったとしても無理なのだということです。

 これは神御自身がはっきりと、救いと滅びの境界線をお定めになっておられるということの表れです。イスラエルの父祖であり、信仰者の父であるアブラハムといえどもそれを越えることはゆるされていないのです。

 この世にいる間に悔い改めるか、神によって自分を変えていただくことが「いかに大切か」が分かります。このことは、続きの部分とともに2週後、6月7日の礼拝でほり下げさせていただきます。

 さて今日私が最も示されたことをお伝えしてメッセージを閉じます。それは「自分自身も弱さを持ち、隣人によって助けられなければ生きていくことのできないラザロなのだと気づく」ことです。誰が助けなければいけない人で、誰が助けられる人ということはありません。私達も自立して生きていくことを大切にしつつ一方で、愛を受けることも大切にしましょう。

 私達を通して、「隣人を愛する」と恵みに与ることのできる人がいる…そのように考え、積極的に「隣人愛を引き出す」ということは大切です。与えることだけでなく感謝して受けることも、私たちにとって必要なことです。人はだれかの役に立てた、自分が生きている意味があると思えることが、どの人にとっても大事だからです。受けることも、謙遜にならなければできないことです。一人で生きていけると思うことも「大きな高慢」だということを覚えましょう。

 すべての人間が神の恵みによって養われ、生かされているということを心に留め続ける。そうすれば私達は「同じように神の恵みによって生かされている他の人の存在に気づき、共に生きる者となることができる」そのように信じます。

 いよいよ来週から再び顔と顔を合わせて礼拝が持てるようになりますが、それぞれ自分に与えられているものを分かち合い、「共に生きる、共に愛し合う」教会として歩んでまいりましょう。  (祈り・沈黙)

 

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