「すべての民の間にあって」6/4 隅野徹牧師

  6月4日 聖霊降臨節第2主日礼拝・聖餐式
「すべての民の間にあって」隅野徹牧師
聖書:出エジプト記19:1~9

 今朝は、「聖書日課」のうち、出エジプト記19章の最初の部分、シナイ山で「十戒」を授けられる直前の箇所を選びメッセージを語ることにしました。

 早速ですが19章の1節、2節をご覧ください。

ここには、イスラエルの民がシナイの荒れ野に到着し、シナイ山の麓に宿営したことが語られています。出エジプト記の18章までは、エジプトからの脱出の物語が記されています。特に神が「海の水を二つに分けて向こう岸に渡る道を造って下さり、エジプト軍が迫る絶体絶命の危機から救って下さった場面」などは、映画「十戒」で描かれたこともあり、多くの方にとって印象的な場面だと思います。しかし出エジプト記は40章までありますが、この19章から後、最後の40章、つまり半分以上が「シナイ山における場面」が語られているのです。

 エジプトを出たイスラエルの民たちはシナイ山で何をしていたのかというと、それは、神がイスラエルの民と契約を結ぶ、ということをしていたのです。今朝の聖書箇所である19章はまだその契約そのもののことではなくて、それが結ばれるための備えについて語られています。3節から9節をじっくりと読んでまいりましょう。

 まず3節から9節のあらすじを簡単にみましょう。

3節では、モーセが「神の臨在される山」とされた「シナイ山」に登ったこと。そして3節では、モーセが民を代表して、神の山といわれた「シナイ山」に登っていったこと。神から「これから告げる言葉を民たちに伝えなさい」と命じられたことが記されています。

4節から6節では「イスラエルの民と契約を結ぼうとしておられる神のみ心」と、「契約を結ばれる、その目的」が記されています。

そして7節、モーセはシナイ山を下り、民たちのもとに行き、神から語られた言葉を告げます。すると8節、民たちは皆、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と一斉に答えたというのです。

これは、イスラエルの人々が、契約を結んで下さる神のみ心を受け入れ、自分たちも神の民として歩みます!と約束をしたということです。民の側もこのように約束をすることによって、いよいよ契約は成り立とうとしているのです。

8節の最後から9節では、モーセがまた山に登り、この民の言葉を神に伝えたことが記されています。モーセは何度も何度も「神と民たちの間を往復して大変だな」と感じますが、双方の仲立ちとして本当に大切な役目を果たしているのです。

このモーセの働きがあって、いよいよ「契約の締結の具体的準備」が始まる、そのいうことが描かれているのが今朝の聖書箇所なのです。

9節の神からモーセへの言葉には、「シナイ山の濃い雲の中に神ご自身が臨在して、直接あなたに語り掛ける」と言われています。 このあとの章で、十戒など大切な掟が出てきますが、これらも「人間が勝手に考えたもの」ではなく「神が直接、モーセに語られた、大切な掟である」ことを民たちが受け入れ、その教えを守るようにと、神が考えられたことが、この9節の言葉から読み取れます。  以上、簡単にあらすじをみました。

 いまから残りの時間、とくに4節から6節に絞って私に示されている「大切なメッセージ」をお語りします。 何について語るかというと「神がイスラエルを選び、契約を結ばれた、その理由」についてです。そこから「新約時代におけるイスラエルである、教会」につながる私たちに与えられている使命を覚えていただければ幸いです。

 まず4節を読みます。

神は「あなたたちは、わたしがエジプト人にしたことを見た」そして「あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを見た」と仰るのです。

神は「十戒などの掟を与えて、イスラエルの民との間に特別な関係を結ぶために契約を結ばれる」のですが、それは、まったくゼロの状態で結ばれたのではありません。

アブラハムの時代から、神はすでにイスラエルを特別に選び、まるで「鷲の翼に載せるようにして」導いてこられたのです。とくに、モーセの時代、イスラエルの民をなかなか解放しようとしなかったエジプトの王ファラオとエジプト人たちから神は救いの業をなされたのです。今回の箇所で神が結ぼうとされている契約は「既に行なわれて、イスラエルの民が体験した神の救いの業を土台としている」のです。

アブラハムの時代から、神はイスラエルを特別に導いてこられましたが、今回の箇所の場面にあるように「エジプトを出て、約束の地に向かう道中」に「契約」を結ぶことによって、これまでの「神とイスラエルの関係」はより深められるのです。

 次の5、6節には、神様がイスラエルの民と契約を結んで下さることの目的が示されています。5節6節を読んでみます。

「契約」という言葉がここで出てきます。イスラエルの民が神の声に聞き従い、神が与え、結んで下さる契約を守るならば、「あなたたちはわたしの宝である」と呼ばれる民となる、と言われているのです。

イスラエルの民が神にとって「宝物のように尊い、大事な民となる」ことがこの契約の目的です。

しかし誤解してはならないことがあります。それは「わたしの声に聞き従うならば契約を結び、あなたがたを宝の民としてあげる」と言われているのではないことです。

ここでの契約は、神の側から、一方的に「恵みによって」与えて下さるものです。5月の主日礼拝で「申命記7章」から語ったときもお話ししましたが、「イスラエルの民に神の民となるに相応しい資格があった」のではないということが聖書にはっきりと記されています。神はただ恵みのみ心によって「エジプトから脱出させて」ここまで導いて来て下さり、契約を結んで下さるのです。

ですので、イスラエルの民に求められているのは、神が恵みによって与えて下さっている契約の言葉、約束の言葉をしっかりと聞き、神との約束を守ろうとすることです。そうすることによって、イスラエルは神様の宝の民となることができるのです。

 神の宝の民となるとはどういうことか…それが6節で語られています。

「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」という言葉がでます。5節で「神の宝である民」といわれていたのが、6節では「祭司の王国、聖なる国民」と言われています。

祭司は、神と人々との間に立ってとりなしをし、人々が神とよい交わりを持って生きることができるように働く人です。その祭司は聖なる者です。「聖なる者」とは、神によって選ばれ、召され、神のものとされている人ということです。

聖なる神ご自身が選んだ者が「人々と神様の間のとりなしをする祭司」となります。

これを聞いて「イスラエルの民だけ、神にえこひいきされているではないか?」と感じられた方もあるかもしれません。 無理もないことだと思います。人間の常識では「何かに秀でた人や、特別な何かを持つ」など、「何かしらの理由をもつ人」が選ばれるものです。ところが、イスラエルは申命記7章8節にあるように「どの民よりも貧弱だった」のに、それで選ばれるのはおかしいじゃないか!「えこひいきで、不平等ではないか!」と思えるのは無理もないことです。

でも、神はイスラエルの民だけを愛し、他の民たちを愛されないのかというと、全くそうではないのです。他の民たちも同じように愛しておられるのですが、それが6節に表れているのです。

イスラエルが、神と契約を結んで「神の民として生きる」というのは、他の全ての人々、民族のためにとりなしをするために他なりません。世界のすべての民たちが「神とよい関係を保って生きることができるために」「世界の民の中の祭司として」務めを果すためなのです。

神に選ばれる者は、「自分たちだけが救われるために選ばれる」のではなく、「他の人々が神の救いにあずかるための礎となるために選ばれる」のです。このことは、創世記12章でイスラエル民族の父祖とされるアブラハムを選ばれる場面でも明らかです。

その箇所を皆様とともに読みたいと願います。

恐れ入りますが旧約聖書のP15をお開き下さい。 創世記12章1~4節をお読みします。

2節で神はアブラハムが、「祝福の源」となると告げられます。これは「神が特別にアブラハムを選ばれた」ということですが、その目的が3節の後半に出ています。

「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という神のお言葉がそうです。

アブラハムとその子孫によって、神の祝福が「地上の全ての民に及んでいく」のです。

そのためにアブラハムは選ばれたのです。

 今朝の聖書箇所の出エジプト記19章の5節から6節にかけての「あなたたちは、すべての民の間にあってわたしの宝となる…あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」の言葉と、このアブラハムの「選び」の目的がまさに「重なる」のであります。

そして、これは、新約時代の「新しいイスラエルである」と教えられる「教会」にも当てはまります。

教会は神様の新しい契約によって今や「新しい神の民」とされていますが、それは教会に連なる者が救われるためというだけでなく、教会を通して、主イエス・キリストによる救いが多くの人々に宣べ伝えられ、一人でも多くの人がそれにあずかっていくためなのです。教会はそういう使命を与えられているのです。

 神とすべての人々との間にあって、「救いを神に執り成す」のは、教会や牧師ではありません。ヘブライ書などが教える通り、神と人との間の執り成し手は、神の独り子イエス・キリストたったお一人です。罪深い私たち人間は、たとえどんな「立場・役職」についていたとしても、本当なら神に近づくことさえできない者です。

しかし、私たちすべての人間の罪の身代わりとなってくださったイエス・キリストにより、クリスチャンは今や皆「祭司として神に近づける」、そう新約聖書は教えています。

 取るに足らない私たち一人ひとりが「ただ一方的に恵みを受け救われた理由」それは今日の聖書箇所や、先ほど読んだ「創世記のアブラハムの選び」がはっきりと教えてくれています。「イエス・キリストによる救いをまだ知らない世界中の人々のために執り成すためだ」ということです。

いまキリスト教会全体で教勢の落ち込みが言われています。先日、私と松尾兄弟が出席した教区総会でも、それは顕著に出ていました。そんな状況の中で、私たちが「特別に恵みを受け、キリストによって罪赦され、救われている」それは何のためであるかを覚えていただいたら幸いです。

この世界に、日本に、そして山口に「神の愛、キリストの愛」によって癒されるべき方は沢山おられます。どうか皆さんが、そういう方々と神との執り成しをなさることができるように、互いに祈り、励まし合いましょう。   (祈り・沈黙)