「その日には、たとえによらず神を知る」3/26 隅野瞳牧師

  3月26日 受難節第5主日礼拝
「その日には、たとえによらず神を知る

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書16:25~33


 本日は主イエスが約束してくださった神に近づく恵みについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.主イエスの御名によって御父に願うことができる。(26節)

2.はっきりと神について知ることができる。(25,29,30節) 

3.世に勝たれた主がおられるから、勇気をもって歩むことができる。(33節)

 

1.主イエスの御名によって御父に願うことができる。(26節)

本日の箇所は、十字架の直前に弟子たちに語られたメッセージの最後の部分です。

「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」(26~27節)

「その日」とは主の十字架と復活の後、弟子たちに聖霊が注がれるペンテコステの日のことです。弟子たちは主イエスの名によって、父なる神に祈り願うようになるのです。聖書において特に名は、存在そのものとその力を表します。主の御名によって祈るとは、私たちが主イエスの代理人として、御子の思いや計画に沿って祈ることです。私たちの祈りが主イエスと一つにされた者の祈りとして、神のもとに届きます。

私たちは聖霊によってイエスは主であると告白し、信じ、洗礼を受けます。主の名によって罪の力から解放され、義とされます。教会は主の名によって福音を語り、結び合わされます。たとえ御名のゆえに苦しまねばならぬことがあっても、この名を告白することをやめません。教会はすべて主の御名のもとにあり、生かされているのです。

今までは主イエスが地上におられて、弟子たちに代わって彼らの必要のために御父に祈ってくださっていましたが、それは間もなく終わります。聖霊が降る時、彼らは天に帰られた主イエスの御名によって直接、御父に求めるようになります。主イエスを救い主と信じる時、私たちは御父と深い愛の交わりに入れられます。自分が神の子とされていることを知り、神を父とお呼びすることができるのです(ローマ8:15~16)。わたしが神のもとから出て来たとは、主イエスが初めに神と共にあった、御子なる神であるということです(ヨハネ1:1~2)。御父が独り子を与えて下さったほどに自分たちを愛して下さっていることが彼らに示されている。だからその神の愛に信頼して祈り願うことができるのです。

直接御父に祈ることができるのは、御子によって神との関係が回復されたからです。私たちが誰かに自分の思いを伝えたい時、間に他の人を立てることがあります。たとえば一度もお話ししたことがない人なら、誰かがつないでくれると助かりますね。またよく知った人でもおだやかな関係をもてない時には、やはり取りもつ人が必要です。神と私たちの関係もそうでありました。私たちは神の御前に出ることのできない罪人でしたが、神であり人となってくださったイエス・キリストによって、私たちは神に愛されていることを知り、罪赦されて、主と共に生きる恵みに入れられたのです。

神は私たちが祈る前からすべてを知っておられます。しかし親が子の必要を知っていても、子どもとの会話を喜ぶように、御父も私たちと祈りにおいて交わりを持つことを喜ばれます。私たちが祈るのは、神を自分の望むように動かすためではありません。祈りによって私たちが変えられるためです。祈りによって私たちは悔い改め、へりくだりを与えられ、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、広さを理解し(エフェソ3:18)、御心に従う者とされるのです。神は、あなたの祈りを聞いて下さいます。あなたの祈りを待っておられます。そしてあなたの祈りを必要としている人、状況があります。ご自分の言葉で今日から、祈り始めましょう。

 

2.はっきりと神について知ることができる。(25,29,30節) 

「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。」(25節)

 主は今までたとえを用いて語られましたが、弟子たちが聖霊を受ける日には、はっきり御父について知らせると約束してくださいました。福音書にはたとえ話というものがあります。これは種蒔きや放蕩息子の話など、日常生活で起こる事例を用いて、霊的な真理を伝えるものです。ヨハネによる福音書ではたとえ話という形とは少し違いますが、主が御自身について、「わたしは良い羊飼い」「わたしはまことのぶどうの木」であると示してこられました。

主はたとえを、聴く耳を持たない者や敵対者に対して霊的真理を隠すために語られ、弟子たちには密かに霊的真理を説き明かされました。神とその真理をこの世のものでたとえるには限界があり、人にあらわされるのは真理の一部分でありました。しかし今から主は十字架、復活、昇天を通して御父の御心、つまりご自分が何をするために世に来られたかを、はっきり示されるのです。

私たちは聖霊によって神の愛を知り、多くのことを示され続けています。世にある限り、私たちが神についてすべてを知ることはできませんが、主に再びお会いする時にすべてのことが明らかにされて、私たちは主をほめたたえるでしょう。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」(Ⅰコリント13:12)

その時まで私たちは御言葉と、この世にあるものを通して神を知ります。神がお造りになったこの世は、永遠を映し出しています。ですから主イエスはたとえで神の国のことを語られたのです。そして私たち自身も、神の国のたとえとされているのではないでしょうか。つまり私たちが神の愛を、主イエスを部分的にでも映す鏡とされるということです。人は私たちを通して神を見ます。欠けたる私たちではありますが、幾分かでも主のお姿を映し指し示すために用いられたいと思います。そして導かれた方々がいつか直接主にお会いして、はっきり御父の愛を知ることを信じて祈ります。

「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」(28節)

「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」(30節)

 前回の箇所で弟子たちは、主イエスが言われることを理解できていませんでした。「何を話しておられるか分からない」と互いに言い合い、主に尋ねたがっていたのです。しかし主が御父のもとからこの世に来られ、これからこの世を去って御父のもとに行くと言われた時、それがどういうことなのかが分かりました。これは主が何度も語られてきたことですが、ここに至って彼らに真理が示されたのです。主がすべてを知っておられるから、もう主にお尋ねする必要はない。このことを通して、あなたが神のもとから来られた御子であると信じますと、彼らは告白しました。

弟子たちが救いについてすべて理解したとは思えません。けれどもこのような告白ができたのは、「主がすべてを、私たちの一切をご存じである」とわかったからです。実際に弟子たちからの質問がなくても、主は彼らの悲しみも恐れもすべてをご存じで、お答えくださいました。彼らは「神に知られている」ことを、知りました。知識として納得できるようにすべて知ることができなくても、尋ねる必要がない。現時点では私が知る必要のないこと、私という小さな器では受け止められないことがあるけれども、それでいい。神が知っていて下さるのだから。それこそが神について、また私たちの世界で起こることについて、彼らが最も知るべき答えだったのです。

 

3.世に勝たれた主がおられるから、勇気をもって歩むことができる。(33節)

「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(31~33節)

 これまでのことは(14~16章)、弟子たちが主にあって平和を得るために語られたことでした。十字架によって弟子たちが主から離れ、散らされていくことが、彼らをどんなに揺さぶり壊滅的な状況にするのか、主はご存じでした。ここには執筆者ヨハネの時代に迫害によって教会を離れ、信仰を失う人がいたという現実も見つめられています。しかし主イエスは「あなたたちは今信じている」(原文訳)と、弟子たちの信仰の芽吹きをご覧になり、苦難の中にある信仰者を励ましてくださるのです。 

絶望と不安に引きずり込まれようとしていた弟子たちに対して、主は御自分を指し示して、「勇気を出しなさい」と語られました。主は弟子たち以上に深い孤独の中に置かれていましたが、決して孤独ではありませんでした。父なる神が自分と共におられる。この確信こそが主イエスを支えた力であり、主のお与えになる平和でした。聖書において平和とは神が臨在され、自らの魂に揺るがないもの、調和、満たしがあることで、周りにあふれていくものです。

「勇気を出しなさい」は「安心しなさい」とも訳すことができます。この言葉はマルコ6:50に出てきます。ここで弟子たちは主イエスを陸に残し、自分たちだけで舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出しましたが、逆風のため夜の闇の中で何時間も漕ぎ悩んでいました。すると疲れ果てていた彼らのところへ主イエスが湖の上を歩いて近づき、おののく彼らに言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」主が舟に乗りこまれると、風は静まりました。

主のお与えになる平和は、荒れ狂う湖、暗闇の中でもなお持ちうる平和です。私たちの内に、私たちを取り巻く状況のうちに主イエスをお迎えする時に、魂の深いところが凪(なぎ)になっていることに気づくでしょう。

「わたしは既に世に勝っている」と主は言われます。「世」とは主イエスを十字架にかけようとする世界です。神に敵対する悪魔に支配され、神を知らずに自分中心に生きる人間のことです。しかし神はこの世を力によって滅ぼすのではなく、世を愛し救うために、御子を人としてこの世に遣わし、十字架によって世の罪をすべて担い、命をささげてくださいました。それが主のもたらされる真の勝利です。

まだ十字架にもかかっていないのに「既に世に勝っている」と言われたのは、主のご復活が必ず起こるということ、神にとってはもう既に起きてしまったことと同じように確実だ、ということです。主イエスの勝利は、主を信じて永遠の命に生かされるすべての者が共に与る勝利です。神と引き離される「死」は滅ぼされ、私たちは罪の支配と裁きから解放されました。

主が宣言しておられるのは、神の愛の勝利です。何者も神の愛を妨げることはできません。すべての道が閉ざされていくように思う時でも、この世のどんな憎しみも死も、神の愛はそれらをはるかに超えて勝利するのです(ローマ8:37~39)。

この主が私たちと共におられ、私たちに代わって戦ってくださいます。ですから私たちは、見えるところは苦難の中にあって傷だらけであっても、主によって強められて歩むことができます。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(Ⅱコリント4:8~10)

 主は御自身の十字架と復活を、女性が子を産む時にたとえて語られました。痛み、うめきを伴うのが生きるということなのかもしれません。特に、主に従う者として歩む道は苦難を伴います。けれども決してそれだけで終わらないことを、主ははっきりと示してくださいました。

これまでよけよう、ごまかそうとしてきた課題に向き合うように、み声があるかもしれません。一人ではできないけれども、必ず通るべき道であるならば、どうぞ最後まで私を離れずお守りくださいと主に願いましょう。「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」(詩編23:4)

この苦しみが必ず復活につながっていることを信じ、一歩一歩を主にゆだねて生きる時、先立って私たちのために戦い、勝利してくださった主に出会います。主の約束に強められて、ここから遣わされてまいりましょう。