「その腹から生ける水の川が流れ出る」2/27 隅野瞳牧師

  

  2月27日 降誕節第10主日礼拝
「その腹から生ける水の川が流れ出る」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書7:37~52


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 本日の箇所では、主イエスの与える生きた水を飲む者が、どのように変えられるかが記されています。3つの点に目を留めて、神の言葉に耳を傾けましょう。 

1.主イエスを信じる者は誰でも罪赦され、聖霊を受ける。(39節)

2.聖霊を受けた者は、その腹から主の命が流れ出る。(38節)

3.直接お会いする時に、初めて主がどのような方か知ることができる。(46,51節)

 

 今日の箇所は、仮庵の祭で起きた出来事の続きです。仮庵の祭は過越祭、五旬祭と並ぶユダヤ三大祝祭の一つです。10月初旬頃に行われる祭の七日間、人々はテントを張ったり、枝や葉で仮の小屋を建ててそこで過ごします。エジプトを出た先祖たちが荒れ野で天幕生活を送り、カナンの地への旅を四十年間続けたこと、その間絶えず神の守りがあったことを思い起こすためです。そしてカナンの地に定住して農耕を始めた時に、この祭は秋の収穫を感謝し雨を求める祭にもなりました。パレスチナは水の乏しい地であり、雨季に十分な雨が降るかどうかは命に直結する問題だったのです。

 

1.主イエスを信じる者は誰でも罪赦され、聖霊を受ける。(39節)

仮庵の祭で人々は日ごとに列を作って、祭司とともにギホンの泉に赴きます。そこで祭司は黄金の水差しに水を満たし、これを神殿に持っていって祭壇に注ぎます。それは「あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む」(イザヤ12:3)という預言に基づく儀式でした。かつてイスラエルの民は、見渡す限り岩と砂、水などどこにもない荒野で渇きを覚えました。モーセが神に命じられた通りに岩を杖で打つと、そこから水が出て、民は十分飲むことが出来ました。それを記念して、仮庵祭には水注ぎの儀式が行われました。そしてこの祭において人々は、救いの水を与えてくれる救い主を待ち望んだのです。

祭の最終日には祭壇の周りを七周し、彼らの熱気はピークに達します。そのような人々に対して、主は大声で語られました。「イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」… イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。(37,39節)  

主が大声で語られるというのは非常に珍しいことで、それだけ重要なことであることを表します。主が言われる「渇き」とは人間のもつ根源的な渇き、神との交わりを求める心です。私たち人間は神にかたどって、つまり神との交わりにおいて生きる者として造られていますから、神のみもとに帰るまでは、決して満ち足りることはありません。神から離れて生きている状態を罪といいます。罪の中にある時に、私たちの魂の渇きは癒されません。私たちは渇きを覚えると、心の隙間を埋めるために様々な楽しみを求め、時間やお金を費やします。しかしそれは一時しのぎであって、醒めてしまえばいよいよ渇きを増すことにしかなりません。主イエスはこの世が与える楽しみとは次元の違う、尽きることのない永遠の命の水をお与えになります。主イエスのこの叫びは、御自分こそ預言された救いの水を与える者であるという宣言なのです。

ここで主が招いておられる人は、「渇いている人はだれでも」です。自分が罪人であると自覚し、罪から救ってくださいと心から求める人のことです。ペンテコステにペトロの説教を聞いた人々は自らの罪が示され、ペトロとほかの使徒たちに言いました。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」(使徒2:37)これが渇いている人のことばです。私たちが救われるために必要なのは渇きを自覚することですが、それは御言葉によって起こされるものです。御言葉は私たちの魂を映し出す鏡となって私たちの罪を示し、主を求めるように導きます。

「イエスが栄光を受ける」というのは、主が十字架にかかり、復活し、昇天されることを意味します。最も低くなられ十字架の死を通して救いを実現してくださった主の愛は、神の真の栄光をなんと現していることでしょうか。私たちに聖霊が与えられるには、まず主イエスによって罪の贖いが成し遂げられ、神と私たちとの間を隔てていた罪が取り除かれねばならないのです。

旧約において聖霊は、預言者など特定の人に一時的にしか与えられませんでしたが、主イエスが約束された聖霊は、主の十字架と復活、昇天を通して、主イエスを信じるすべての人に注がれます。その恵みは私たちにも注がれています。聖霊を受けると、神との関係において死んでいた私たちは生きる者となります。

あなたは心に渇きを覚えて主のみもとに来て、主がお与えくださる水を飲みましたか。もしまだであるなら、誰にでも与えられているこの水をどうぞ飲んでください。主イエスこそ罪を赦し、魂の渇きを完全に癒すことができる方であると信じて、感謝をもって赦しを受け取りましょう。

 

2.聖霊を受けた者は、その腹から主の命が流れ出る。(38節)

4章でも、主イエスは生きた水について語られました。人目を避けて井戸の水を汲みにきたサマリアの女性に向かって主は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われました。彼女は主イエスとの対話の中で、この方こそ救い主であるとの信仰を与えられ、サマリアの人々に主に出会った喜びを伝えます。永遠の命に至る水は彼女の中で湧き出て、さらに外に向かって流れ出たのです。

主は御自分を信じる人々が聖霊を受けるだけでなく、その恵みが溢れ流れていくことを約束されました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(38節)「その人の内から」は、もともとの言葉を見ますと「腹から」という言葉で、そのように訳されている聖書もあります。私たちの最も深い部分、という意味です。腹からという言葉には、手で触れられるような現実味や力強さが感じられます。腹から生きた水が流れ出るのですから、単に水道管に水が流れるというものではないでしょう。聖霊を受けキリストのものとして造り変えられる中で(ガラテヤ5:22~25)、弱さや葛藤をひっくるめた私たちの存在すべてを通してでしか流れない、聖霊の流れがあるのです。霊感を受けた聖書執筆者や証し人たちは、自らと一体となった福音を、身を削って伝えたはずです。「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とある「その人」とは主イエスご自身であると同時に、主イエスを信じて一つとされた私たちでもあります。聖霊は私たちの渇きを癒すだけでなく、私たちを通して誰かの救いのために生きて働かれます。

それだけでなく神は弟子たちの上に聖霊を送り、教会を誕生させてくださいました。主を信じる者とされた者の群れである教会はキリストの体であり、特に私たちが愛し合い、主を礼拝する姿を通して、生きた水は流れ出ていくのです。

聖霊を受けるとはどれほど大きな恵みであるかを、預言者エゼキエルはこう預言しました。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入っていく。すると、その水はきれいになる。…この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」(エゼキエル47:8~9)エゼキエルの時代、神に背いたイスラエルの民はバビロンに捕囚として連れて行かれ、神殿も町も廃墟となります。しかし神はエゼキエルを通して希望の幻をお与えになります。神殿の中心である聖所、神ご自身から水が流れ出て、その川は遠くへ行けば行くほど水かさが増して大河になり、海に流れていきます。

ここで「海」とは死海を指しています。死海の水は海水の10倍も塩分の濃度があるので、海に住んでいる魚でさえも生きることができません。しかし神殿から流れ出た水が注ぎ込むとすべてのものが生き返り、多くの魚がいるようになるのです。死海は流れ出す川がないために生物が住めない濃度になっていますが、私たちも求めることばかりで、与えられた良きものをため込んでいるなら、私たちのところに来る方の命や喜びを奪ってしまうのです。けれども失望することはありません。私たちは主によって愛を、救いの恵みを、主から与えられたすべてのよきものを分かつように、変えていただくことができます。与えるほどに私たちは喜びにあふれ、いよいよ豊かに必要が満たされます。エゼキエルの預言の完成がヨハネの黙示録22:1~2ですが、それは主イエスによって実現するのです。

主を信じる私たちの上に聖霊が注がれ、この礼拝から私たちはそれぞれの場に遣わされていきます。主イエスを信じたのに、腹から生きた水が流れ出している実感がないならば、神の恵みを妨げる罪があるのかもしれません。真摯に悔い改め、渇いた心をもって主のもとに進みゆき、御言葉に従って歩み始めましょう。

さて、主イエスに対しての人々の反応は皆違いました。この人はモーセのような預言者だ、神が遣わしてくださる救い主(メシア)だという声もありましたが、「救い主はダビデの子孫でベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」という人もいました。主イエスはガリラヤ地方のナザレで育ったことが知られていました。エルサレムの人々から見てガリラヤは異邦人の影響もある辺境の地であり、そのような所から救い主が出るはずはないと言うのです。私たちは主イエスがベツレヘムでお生まれになったことを知っていますが、ヨハネによる福音書は主イエスがベツレヘムでお生まれになったことを語らず、人々にも知られていなかったことを示すのです。

さて、ファリサイ派の人々が主イエスを捕らえるために遣わした下役たちも帰って来て、主イエスについてこのように伝えました。

 

3.直接お会いする時に、初めて主がどのような方か知ることができる。(46,51節)

「今まで、あの人のように話した人はいません。」(46節)ユダヤ教指導者層の人々の命令は絶対であるにも関わらず、主イエスを捕らえに行った下役たちは捕らえることができずに帰ってきました。心の底から主イエスに驚いたこと、この方の言葉をじかに聞けば、誰もがこの方に手を出すことなど考えられなくなると告白しているのです。下役たちのほうが、指導者たちとは全く違う、神からの権威ある主イエスの言葉にとらえられてしまったのです。

しかしユダヤの指導者たちはすでに、固定化された救い主の思想を持っていました。ダビデの王位を継ぐ政治的解放者、イスラエル民族を中心に世界を統一する救い主を待望していたのです。ですから指導者たちは命令に従わなかった下役に対して、「お前たちまでも惑わされたのか」と怒ります。そして学問があり、律法をわきまえている自分たちは惑わされないが、主イエスに対してある種の共感をもっている群集は、律法を知らない呪われた民であるとののしりました。彼らは自分の知識を絶対的なものと考えていますが、むしろ彼らはその知識とプライドのゆえに、真の主イエスに出会い、本当の意味で理解することができませんでした。彼らに軽蔑されている人々の方が、主イエスとの体験を通して自分なりに考えて語っています。受け身で御言葉を聞くだけではなく、聖書を自分で読むことが大切です。

ここでユダヤ人指導者の中の一人、ニコデモという人が彼らに提言しました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(51節) 議員の立場にありましたが、彼もまた直接主イエスにお会いしたことがあったのです(3章)。彼は律法の知識も信仰も持ち冷静に判断できる人でしたから、ファリサイ派の人々がののしったような、意味も分からず洗脳される人ではありません。この時ニコデモは主イエスへの信仰が芽生え、あるいはすでに信じていたのではないかと思われます。

ファリサイ派が自分たちの正当性の根拠にしている律法によれば、当事者の言葉も聞かずに一方的に「彼は人を惑わしている」と断罪することは許されません。律法は、裁判が神に属するものであって、公正に行われなければならないと繰り返し語っています(出エジプト20:16,23:1,レビ19:16,申1:16~17)。ニコデモは主イエスとその御言葉を思い返しながら、「あなたたちも直接イエスの話を聴くべきだ。そうすれば、下役たちが手ぶらで帰ってきた理由が分かるはずだ。」と伝えたかったのでしょう。しかし同僚たちは「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」と一蹴しました。イザヤ8:23に「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とあり、9:5には「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」という、救い主誕生の預言が語られていることには、目が開かれていなかったのです。

ニコデモはかつて人目を忍んで、夜主イエスのもとにやってきました。目に見えるところは満たされていても、何か違う。神との生きた交わり、救いの確信が必要だと感じていたのです。主イエスはニコデモの渇きをご存じであり、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と語られました。ニコデモはそのお言葉を理解できず、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と指摘されましたが、それによって彼は真理へと近づいていました。きっとその時ニコデモは、心が燃やされていたはずです。律法を学ぶこととは次元の違う、生ける神との出会いと交わりに。私たちもまた、聖書を学びに教会に来ているのではありません。イエス・キリストにお会いするために来ているのです。

彼はこの後19章で、やはり議員で密かに信仰をもっていたアリマタヤのヨセフと協力して、十字架で死なれた主イエスのご遺体を丁重に葬り、自分が主イエスの弟子であることをはっきりと示すことになります。今日の箇所は、彼が自らの信仰を公に表すまでの過程を語っているといえます。

私たちは神を知らない世に遣わされ、主に従いきれなかった悔いを心に抱いて、礼拝に帰ってくることの多い者です。単純に白か黒かを選択できない日々の中で、そこに生きる信仰者の戦いと苦悩があります。しかしそのような闘いをしている人は、必ず前進します。さまざまな圧力や制限のある中で主を求め、信仰の成長を与えられたニコデモの姿、そして背後にあってあたたかく見守っていてくださる主のまなざしを覚える時に、私たちは力を得て、再び遣わされていくことができます。

 主イエスが与える命の水は、すべての人にとって必要な永遠の命でした。これをいただかなければ、神と共に愛し合って喜びのうちに生きることはできません。しかし祭司長たちやファリサイ派の人々は、そうは思っていませんでした。世の中のすべての人が神に裁かれ滅んでも、自分だけは決して滅びることはないと思っていたのです。救いから最も遠い人、それは自分が良い人間だと思っている人です。しかし神の御前に出る時、一点の責められるところもない人は一人もいません。聖霊の助けを祈りながら、御言葉を通して主にお会いしてください。皆さんがご自分の霊の目と耳で主がどのような方かを確かめ、信じて、永遠の命をあふれ流れるほどに受けることができますよう祈ります。

 

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