「わたしの羊を飼いなさい」4/24隅野瞳牧師

  月24日 復活節第2主日礼拝
「わたしの羊を飼いなさい

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書21:15~22


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 本日の箇所では、主の教会の牧者として召されたペトロについて記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。 

1.自分の愛の限界を知らされて、神の愛に立つ者とされる(17節)。

2.主の羊を飼う務めは、神の御心が成るようにという願いと共にある(17~18節)。

3.ただ主に従い、自分の与えられた道を歩む(22節)。

 本日の箇所は21章の初めから続く内容です。復活の主にお会いした弟子たちは、主に命じられたようにガリラヤに行きました(マタイ28:10)。主に従う前は漁師であった者たちが何人もいましたが、夜通し漁をしても魚は一匹もとれませんでした。しかし失意と疲れの中にある彼らに何者かが舟の右に網を打つように声をかけ、その通りにすると大漁が与えられました。その時弟子の一人は主イエスに出会った時にも同じ出来事があったことを思い出しました(ルカ5:1~11)。あの時から自分たちの新しい人生は始まったのだ…あれは主だ!主だと聞いたペトロは一瞬でも早くお会いしたいと、上着をまとって湖に飛び込みました。他の弟子たちも船で網を引きながら岸につき、主が準備してくださった朝食を共にいただきました。

 

1.自分の愛の限界を知らされて、神の愛に立つ者とされる(17節)。

喜びの食事の後で、主イエスはペトロに尋ねられました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」(15節)ペトロはもちろん、弟子たち全員の間に緊張が走ったことでしょう。自分も問われている、と他の弟子たちも感じたに違いありません。かつてのペトロは、主を愛することにおいて誰よりも自信がありました。主を裏切るとか見捨てるなどということは考えられないことでした。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:33)と、他の人との比較で自分の覚悟を示していたペトロでしたが、主は「あなたは今も人と比べる愛で、私に従おうとしているのかい?」とお尋ねになったのです。

こんな自分にご自身を顕し、御前にいることを許してくださった主に、心からの感謝と愛をささげたいとペトロは思ったはずです。けれども彼は、主の弟子であることを打ち消してしまう弱さをもっていました。自分には、主を愛していると言う資格がない。その気持ちを主が分かってくださる以外にないと、彼は「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。

主は再びペトロに同じ事を聞かれ、ペトロも同じように答えます。主が「わたしを愛しているか」と言われた時の言葉は、神の愛(アガペー)です。神に由来する無条件の愛を意味します。神の愛は価値を見出す愛、惜しみなく与え、敵をさえ愛する愛。神の御子イエスが人となられ、十字架にかかりよみがえられたことに神の愛が現わされています。それに対しペトロが答えた愛は人間の愛(フィリア)を表す言葉です。言うことを聞いてくれるから、身内だから愛している。でもその条件が満たされなくなると愛さなくなります。限界ある、自己中心の愛です。「私があなたを愛したように、あなたも私を愛するか」という主のお言葉に、ペトロは「あなたが愛してくださるようには愛せません」と答えるしかありませんでした。

しかし自分に見返りを求めるような愛し方であったとしても、神はどんな時も私たちを愛し抜かれます。その命をもって、わたしは主、あなたと愛の関係の中で一緒に生きたいと宣言してくださるのです。それが主イエス・キリストと結ばれる救いです。

そして主は三度目に「わたしを愛しているか」と問われました。「ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(17節) 三度の問いかけは、主が十字架に架かられる前の晩、お前もイエスの仲間だろうと言われた時に、あんな人は知らないと、三度主との関係を否定したことにつながっています。ペトロは三度主イエスの愛を拒み逃げ出した自分の汚さ、弱さに打ちのめされていました。私は自分を愛して、あなたを見捨てました。主よ、あなたは何もかもご存じです…。

しかしそれはペトロにとって大切な悲しみでした。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ…」(Ⅱコリ7:10)主が三度尋ねられたのは彼を責めるためではなく、ペトロが主の愛に支えられて三度「愛しています」と口にすることができるためでした。そして、それで十分なのだとペトロ自身が知るためでした。主はペトロを赦し過去を問うことなく、彼に新しい使命を与えてくださいました。彼を立ち上がらせるに必要なのは、ペトロが自分の意志で主の愛と赦しを受け、それに応えることでした。

ペトロがもし、今度こそはと自分の古い愛でやり直そうとするなら、同じことの繰り返しでしょう。だから自分の愛に立つのでなく、神の愛によって立つようにと主は三度招き、愛を差し出してくださったのです。ペトロを通して、主は私たちにも語っておられます。あなたもこの愛に立ちなさいと。悔い改めは、後悔や謝罪とは違います。「自分にはやり直す力などみじんもない」と認めて神に立ち帰る時に、神の愛を受け取り、生きることができるのです。

神への信仰とは、私たちが自分の力や行いで自信を持って、「わたしはあなたを愛しています」と告白することではありません。疑い迷い、欠けの多い私たちが、それでも神に愛されていることを知り、せいいっぱいその愛にお応えしていることを主はご存じです。それを信仰として受け止め、喜んでくださいます。私たちのすべてをご存じである方に、おゆだねしていくところに信仰があります。

 

2.主の羊を飼う務めは、神の御心が成るようにという願いと共にある(17~18節)。

主イエスはペトロに「わたしの羊を飼いなさい。」(17節) との使命をお与えになりました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:11)主は信じ従う者のために、ご自分の命さえもささげてくださる方です。その羊飼いに、今度はあなたがなってほしいと主はペトロに言われるのです。これから聖霊によって「イエスは主である」との信仰を与えられ、建て上げられる神の教会を霊的に養い、守り導くという務めです。ペトロや弟子たち、代々の牧者たちは、信徒が御言葉の糧を受けて信仰にしっかり留まり、キリストに似た者として成長し、サタンの攻撃から守られるように導いてきました。私たちも主の羊であり、さらにここには囲いに入っていないほかの羊、つまりこれから導かれる方々も含まれています。

ペトロへの召命は、主を信じる教会、私たち一人ひとりにも与えられているものです。教会に託された務めは、湖に網を打つ伝道だけではありません。主の御声をともに聞き、主に従う羊の群れを牧会することも大事なことです。牧師はその務めに専心しますが、それは皆さんがそれぞれの形で周りにいる方を主にお導きできるように、みことばを分ち合うためです。打ち砕かれ悔い改めた者こそ本当の意味で主に出会い、そのご委託に応えることができます。主に養われる必要のない人は誰もいません。パウロは教会に向けて、私のために祈ってくださいと願っています。弱き羊である牧師のためにも、皆様のお祈りが必要です。

愛することには痛みが伴います。しかしそこには必ず、主よりの恵みと喜びがあります。神がこの人を無条件に愛しておられます。わたしの羊だから、ただそれだけの理由で命をお与えになるほどに愛しておられるのです。だから、私たちも愛するのです。もちろん、愛せませんと何度もあきらめたくなります。しかしそのたびに私たちは、自分の愛によるのではなく主の愛を受けましょう。私が主を愛しているか、主の羊たちを愛しているかどうかは、主がご存じです。自分が羊であるからこそわかる、愛に迷いやすい悲しみを忘れずに、その悲しみも弱さも主の前に持ち出し、主の愛に養っていただきましょう。

 そして主はペトロがこれからたどる道を予告されます。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(18節)。「手を伸ばす」というのは、当時「はりつけにされる」ことを意味しました。ペトロはそれから約30年後の紀元63年、ローマ皇帝ネロのキリスト教徒迫害時に捕らえられ、十字架で殉教したと伝えられています。

最後の晩餐の時、主は御自分が十字架にかけられることをご存じの上で弟子たちに「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」(ヨハネ13:33)と言われました。ペトロは「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」とペトロは答えました。しかしどこにでも行けて何でもできたはずの若いペトロは、主の行く所…十字架について行くことが出来ませんでした。

彼は自分の力や思いのままに、それが正しいと思って生きてきましたが、彼の熱心さは、いざと言う時には崩れ去りました。しかし今や彼は、弱い罪人である自分を愛し、造り変え、用いて下さる主のみ心によって生かされています。そのことによってこそ彼は主のみ跡に従い、教会の指導者としての務めを果たすことができるのです。

主イエスの羊を飼う、つまり、神から与えられた使命に生きることは、自己実現を目指す生き方とは違います。ある面で、行きたくないところに連れていかれることです。しかし自分に与えられた救いが周りの人にもたらされ、その信仰の実りを見ることのできる人生を、主イエスを愛する者は生きていくのです。それは主と共に労した者だからこその喜びです。

主の道を進もうとする時、ためらったり逃げ出してしまいそうなこともあるでしょう。そのような私たちの心を、主はご存じです。ゲツセマネで主イエスは、十字架を去らせてくださいと祈られました。すべての人の罪を担い御父と断絶されることは、いつも御父と一つであった御子にとって、どれほどの御苦しみであったでしょうか。しかし主は「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)と祈り切られ、すべての人の救いが実現したのです。

 主を証することのゆえにペトロは命をささげなくてはなりませんが、その様を通しても神の栄光が現れることを主は見ておられました。それは単に「行きたくないところへ連れて行かれる」のではなく、この道は主イエスに従っていく道なのだと彼が知り、そこに生き抜いたからだと思います。羊が主のもとに生きるために私の生涯をささげさせてくださり、感謝します。今や復活の主が私を迎えてくださいますと、ペトロは喜びのうちに天に帰って行ったことでしょう。

 

3.ただ主に従い、自分の与えられた道を歩む(22節)。

主によって使命を与えられたペトロでしたが、主イエスに従い始めたとたん、「振り向」きます。すると、主イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」(21節)他の弟子のことが気になってきたのです。ペトロは実に愛すべき人というか、自分も含めて、信仰の現実はまさにこうだと思わされます。この弟子はヨハネによる福音書の執筆者ヨハネであると言われています。最後の晩餐の時には主の最も近くにおり、十字架の後には母マリアを自分の家に引き取りました。

復活の墓にペトロと一緒に行き、いつも共に主に従ってきたこの弟子は、どのように主に従うのか、どんな生涯を送るのか。しかし主はペトロに言われました。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(22節)この言葉の背後には、ヨハネが迫害下で生き延びて、天寿を全うした事実があるようです。彼は教会に仕えるとともに、主の御言葉を書き記す使命が与えられました。そういう人もまた必要です。

ここで「あなたは」という言葉が強調されています。他の人については、また別のご計画があるのですから、ペトロはペトロとして主に従えばよいのです。「従う」ことにおいては同じでも、その形は違います。ただ主イエスだけを見つめて従う。そこに信仰者の自立があり、比較によらず兄弟姉妹を愛することができるようになります。

「わたしに従いなさい」とのお言葉は、これからも私とずっと一緒にいなさいという愛の招きです。ペトロもヨハネも、そして私たちも、皆主イエスに従っていきます。そのことによって教会は一つであるのです。本日は礼拝後に教会総会があり、役員・監事が選ばれますが、それらの方は牧師の助け手となって羊を養う大切な務めを担われます。それらの方々を愛し、祈り、支えていく思いを新たにされたいと思います。

ペトロの手紙を読みますと、彼が主の羊を飼う者として変えられ、次の働き人を育てるために心を注いでいた様子がわかります。彼は教会の長老たちに語りました。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。そうすれば、大牧者がお見えになるとき、あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。」(Ⅰペトロ5:2~4)教会の本当の牧者はどなたか、その信仰は生涯かけて彼の心にはっきり刻まれたのです。

数えきれないペトロたちによって教会は養われ、福音が伝えられて、今私たちが御もとに生かされています。そして、他の人もなんとかこの主のもとに生きてほしいと願い、用いられているのです。私たちのすべてをご存じのうえで、「わたしの羊を飼いなさい」とお言葉をかけてくださる主を信じ、従ってまいりましょう。

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Download [206.46 KB]