「イエスが教えられる神殿」8/8 隅野徹牧師

  8月8説教 ・聖霊降臨節第12主日礼拝
「イエスが教えられる神殿」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書2:13~22

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいました。先週、先々週と持った創立記念礼拝や平和聖日は違う聖書箇所から読みましたが、今週は元に戻りヨハネによる福音書からのメッセージです。これまで2章の12節までを読み進めましたので、今週は2章13節から22節を味わいます。

先程司式者の朗読を聞いて、「最近この箇所は礼拝で取り上げたではないか」と感じられた方もあるかもしれません。確かに、ルカによる福音書を続けて読んでいた昨年11月、「イエスが神殿で商売をしていた人々を追い出される」箇所のメッセージを取り次ぎました。ルカによる福音書だけでなく、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも出てきます。

しかしヨハネによる福音書では「宣教の初期の段階での物語」としてこれが出ますし、この話を通して伝えようとしていることも違っています。ヨハネ福音書は、説教題につけたように「イエス・キリストが本当の神殿とはどんな場所なのか教えられる」ことに重点を置いています。深く味わってまいりましょう。

まず今日の箇所を深く味わう前に、頭に入れた方がよいことをお伝えします。それは先ほども少し話しましたが「マタイ」「マルコ」「ルカ」の共観福音書との違いです。

イエスは宮清めを伝道の初期と十字架にかかる前の2回なさり、その別々の違った宮清めの出来事が書かれていると見ることができます。マタイ・マルコ・ルカは「十字架にかかって死ぬのが目前に迫っていることをすべて分かっておられるイエスが、その死の直前になってもなお、人々を悔い改めに導こうとしておられる」「神を正しく礼拝し、正しく生きるように促しておられる」様子が描かれていました。つまり「イエスの人間を思う愛」が中心に描かれているのです。

それに対しヨハネ福音書の宮清めの話は「イエスが神の独り子であり、メシアとしての権威をお持ちの方である」ことを表すことが中心にあるのです。そのことを頭に入れましょう。

まず13~16節です。ここをご覧ください。

とくに目を引くのが15節ではないでしょうか?イエスが「縄で鞭をつくり、動物を追い出し、台を倒し、お金をまき散らした…」と記されています。一見すると「暴力的で狂気じみている」と感じるこの描写です。これは本当にイエスなのか?逮捕されたときも、不当な裁判のときも、十字架の上で苦しまれている時でも「ご自分を苦しめるものを愛し、苦しみを耐え忍ばれたお方」の姿とちがうではないか?と感じてしまう箇所です。

しかし!ヨハネははっきりとした意図をもって、このイエスの姿をはっきりと描くのです。  

それは何かというと「イエスが神殿の本当の主(あるじ)としての権威を持っておられる生ける神であること」です。そして16節からとくにわかるのですが、「金銭的に貧しい人が、所持金に関係なく神の前に出て礼拝をささげるために、道を開かれるお方だ」ということを描こうとしているのです。

このときのエルサレム神殿は、主にいけにえを買えるお金のある人、そして神殿税を両替手数料込みで払える人が礼拝をささげる場所になっていました。その状態を神の子イエス・キリストは「力づくで変革しようとされた」のです。

このことから私たちが覚えたいこと、それは…教会はすべての人に開かれた場所でなければならないということです。ささげる財力が多い少ないに関わらず、すべての人が神の前に礼拝がささげられるように、イエスが当時の礼拝の場であった神殿を「変えて下さった!」そのことを覚えていましょう。

17節は後に回します。続いて18節です。

ここで「ユダヤ人たち」と書かれていますが、これは当時の宗教指導者たち、つまりエルサレム神殿を仕切っていた人たちなのです。この人たちはイエスを「狂った人、異常な人だ」とみなし、こういったのです。

「あなたはユダヤ人みんなが大事にしてきた神殿をよくもめちゃくちゃにしてくれた!ここまでやるからには、あなたはメシアなのだろう。さあ、あなたがメシアであるしるしを見せてみろ!」このような感じでしょうか。

それに対するイエスの答えが19節です。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

これを聞いた指導者たちはまともに受け止めずにむしろ馬鹿にしたことが続く20節から分かります。この点も共観福音書の記事と異なっている点です。共観福音書の方では、指導者たちがいよいよイエスを殺そうと企んだことが記されていますが、ヨハネの方では指導者たちは「この人はただ気が変になっている」とまともに取り合っていない様子がわかります。ただし、彼らはこのイエスの「神殿を3日で建て直す」という発言を、イエスの裁判のときになって用いようとします。

今、指導者たちが「イエスという男は一体何を考えているかわからない」と思っただろうという話をしましたが…それは弟子たちもおなじだったことでしょう。

何人かの注解者が「弟子たちは目の前で繰り広げられる出来事に弟子たちはただただ唖然としていただろう」と言っていますが私もそう思います。「先生は神殿をめちゃくちゃにしておいて、3日で建て直すなんて言ってしまった。本当にどうしてしまったのだろうか…」そんな感じでしょうか。

 弟子たちはイエスの言動が全く理解できませんでした。しかし!時がたったとき、つまり「十字架と復活の後、聖霊が与えられ、その力に満たされたことで」今回の場面でのイエスの言動が「本当はこんな意味だったのか」ということを悟るようになったのです。

それが分かるのが17節です。

「あなたの家を思う熱意が私を食い尽くす」 これは詩編69編10節のことばですが、弟子たちは主の復活後、聖霊の力によって、この時のイエスの言動の預言が旧約聖書でなされていたことを悟るのです。

また21節と22節、イエスが「三日で建て直す」と言われた神殿がご自身のことだったのだということを、かなり後に同じく「聖霊の力によって」悟ることができたのです。 

私たちにも目の前で起こる出来事に「唖然、呆然」とすることはあります。神がどうしてこんなことをなさるのか全く理解できない」ことも多々あります。でもこの箇所はそんな私たちにとって慰めではないでしょうか?

 いつかかなり経った後で「聖霊の力」によって「あれにはこんな意味がったのだ」と悟ることができるということは多くあるように思います。今はわからなくても、この時の弟子たちのように、神はいつか明らかにして下さることに希望をもってまいりましょう。

最後に「イエスは神殿をどのような場所として教えておられるのか」そのことを考えて終わりましょう。

もう一度19節に注目します。ここにイエスが「神殿がどのような所と考えておられるか」がよく表れています。

ここで注意したいのは、「イエスご自身が自分の手で神殿を破壊して、それを建て直す」とは仰っていないことです。むしろ、目の前にそびえたっていたエルサレム神殿が崩壊する…それは実際に紀元70年に起きたのですが、そのことを予めご存知だということです。

しかし、それまでユダヤの民たちにとって「神の前に出る場、礼拝する場であった実際の神殿が消え失せてもそれで終わりではないのだ」ということを教えておられるのです。

同じようなことが教えられる言葉が少し先の4章に出ます。皆様169頁をお開き戴けますでしょうか? サマリアの女の箇所のうち20節と21節です。ここを読んでみます。

当時、サマリア人は「ゲリジム山」という所が本当の礼拝の場だと教えられ、一方のユダヤ人は「エルサレム神殿が真の礼拝の場だ」と教えていたことが分かりますが、イエスは教えられるのです!「ゲリジム山でも、エルサレム神殿でもない。そのような決まった場所ではないところで、民族に関係なく、すべての人が礼拝をささげられるような時が来るのだ」

すべての人が神の前に出られる、礼拝をささげられる「特定の場所でないところ」である神殿とは何かというと、それは「死にて葬られた後、3日目に復活された神の独り子イエス・キリストのお体」以外にありません。私達が守っている、この礼拝がまさにそうですが、「目には見えないけれども、復活された主が確かに臨在してくださっている神殿」なのです!

目に見える建物そのものが神殿ではありません。この立派な会堂もいつかは古くなったりして無くなる時が来るでしょう。しかし、復活の主がご臨在くださるので、建物はどうあれ、そしてささげものはどうあれ、私たちは「神の前に出て、礼拝をささげることが許されている」のです。そのように神の独り子イエス・キリストが変えて下さったことを、今回の箇所から覚えていましょう。

世の中には人間の都合で作られた「作り物の神様」や「パワースポットのような神殿」が溢れかえっています。しかし、私たちは覚えていましょう。神は唯一であること。その神を礼拝したり、神の前に出たりできるのは「復活の主イエス・キリストが臨在くださる全ての場所だ」ということを!

「復活の主に会うために」「復活の主を通して礼拝をささげるために」そういう思いをより一層強く持って、毎日曜の礼拝に臨んでいただければと思います。

(祈り・沈黙)

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