「一粒の麦としての栄光」10/30 隅野瞳牧師

  10月30日 聖霊降臨節第22主日礼拝
「一粒の麦としての栄光

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書 12:20~36a

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 本日の箇所では、私たちはキリストの十字架の死によって結ばれた多くの実であると記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。 

 

1. 十字架は、すべての人に救いの道をひらく栄光の時である。(21,23,32節)

十字架につく週の初めの日、この方こそ待ち望んでいた救い主だと歓喜する人々に迎えられて、主イエスはろばの子に乗りエルサレムに入られました。イスラエルの三大巡礼祭の一つ、過越祭の時のことでした。そこに何人かのギリシア人たちが、礼拝をささげるためにやってきました。彼らはユダヤ教に改宗したギリシア人と考えられます。彼らの来訪は、救いがすべての民に開かれるしるしでした。彼らは主イエスに会いたいと、弟子のフィリポに頼みました。彼らの願いを聞いたフィリポはアンデレに話し、二人で主イエスにこのことを伝えました。

1章でアンデレは兄弟のシモン・ペトロ、フィリポはナタナエルを主のもとに連れて来ました。彼らを通して私たちは、主イエスの弟子は伝道する者であり、伝道は主のもとに人々を連れて来ることだとわかります。この役割は私たちにも与えられています。伝道は、聖書をしっかり学んだ勇気ある人だけがするものではありません。教会にお誘いする、御言葉を部屋に飾る、心に示された方を訪問してお祈りする。祈ってできることをいたしましょう。あとは主におまかせすればよいのです。

さて、主イエスはギリシア人たちの申し出には答えておられないように見えますが、より深く彼らの願いに答えています。「人の子が栄光を受ける時が来た。」(23節)群衆が主イエスを王として歓迎した時ではなく、ギリシア人たちが会いに来たことが、人の子が栄光を受ける時が来たしるしでした。一般的に栄光という時、それは力や美しさ、権威のイメージがあります。しかし主イエスの栄光とは、復活、昇天まで含めた十字架、一粒の麦として地に落ちて死ぬことを指します。「人の子」とは弱さや限界をもって生きる人間という意味とともに、神から全権を受けてすべての者を永遠に治める救い主のことです(ダニエル7:13~14)。主はこのように言われることで、御自身を人となられた神の子として現わしておられるのです。

 

2. 救われた者は、主のごとく自らをささげて永遠の命に生きる。(24~26,28節)

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(24~25節)

 「はっきり言っておく」とは、主が大変重要なことを言われる時にお使いになる言葉です。まかれた一粒の麦の種が死ななければ、つまり一粒の麦としての今の姿、あり方を保ち続けるなら、それは一粒のままであって収穫はありません。しかし麦粒としての姿を失うなら、芽を出し穂が出て、やがて多くの実を結ぶことができるのです。主イエスはご自身を通してもたらされる救いがこのように、十字架の死を通してこそ実現すると示されます。

一粒の麦は主イエスを指していますが、御言葉によって復活の主イエスに出会い、その御手の釘跡、わき腹の傷が私の罪のためだったと知らされた者は、主イエスと同じく自らを献げて歩むようになります。私たちは命の霊を吹き込まれ、主が尊いと思うこと、お喜びになることが、自分にとっても同じく感じられるようになります(フィリピ3:7~8)。主の十字架は私たちを罪から救うだけにとどまらず、献身という全く新しい生き方を与えます。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:20)主の救いは私たちが、「誰のために何のために生きるのか」を根本的に変えるものです。

「自分の命を愛する」「憎む」という表現は、ユダヤ的には優先順位を表します。自分の満足と幸福のみを求めて生きるのか、神を愛し隣人を愛して共に生きるのかが問われています。神と隣人を愛して生きるとは具体的には、人のために自分の時間や心、与えられたものを用いることです。祈ることです。

多くの時間や富をもっていても、自分のためにしか使うことができない。自分の命を愛する者の生き方は、貧しいのです。自分で自分の命を守ろうとしている間は、生きることは苦しく、大切なものを守ろうとすればするほど、失うのではないかという恐れがつきまといます。

しかし神の愛を受け入れた時に、私たちの主導権は主になります。肩の荷がすっと下りる。生きるにしてもこの体の命を終えて天に召されるとしても、平安です。私の家族や日々降りかかってくる生活の課題も、主が導いてくださるから大丈夫だと知るのです。自らをささげて神と隣人を愛することを優先させる者は、おささげした自分の人生も祝福され、永遠の命に至ります。これはこの世的に見た繁栄や健康といった祝福ではなく、造られた本来の自分として喜びのうちに生きるということです。こんなによいものを与えられたのだから…気がつくといつも与えることを考えている。それが愛に満ちあふれている人です。

私たちが神の愛を受け自らをささげていく時に、自分が自分でなくなってしまうのではありません。硬く冷たい自分が、人を愛し包み込むことができる柔らかな人間として造り変えられます。神に似た者として造られ、「極めて良かった」と言われた存在へと回復されるのです。主につながる私たちには伝道の実(隣人への救いの恵み)、人格の実(自らの霊的成熟)が結ばれていきます。私たちは、主イエスの十字架によってもたらされた多くの実りの一粒一粒です。どうか一粒のままで終わることなく、それぞれの遣わされている場で隣人を愛し、福音を伝えましょう。

「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(26節) 

主にお従いする時に、自分の思いとの違いに闘いを覚えることは多いでしょう。それでも先立ってご自身をささげられる主イエスに、ひたすらついていくのです。必ずその歩みには、多くの実りがあります。どんな実が結ばれるのでしょう、それはずっと先のお楽しみです。神は私たちが自らをささげたことを、深く心にかけていてくださいます。勘違いされやすいのですが、主に自らをささげて生きることは、自分の心身や家族、生活を省みないことではありません。すでに主にささげて歩んでおられる皆様、しっかり休んでおられますか。あなたの心は平安ですか。神が御子をお遣わしになったのは、私たちが本当の意味で自分を愛し幸いに生きるためです。「わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」のですから、そのように自分を大切になさってください。それが、継続して主と隣人を愛することです。

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(27~28節)

主は御自身が十字架に死ぬために世に来られ、三日目に復活されること、その時こそ神の救いが実現する時であると知っておられました。しかしすべてをご存じであったからといって、主が平然と十字架に向かわれたのではありません。この主イエスの祈りは、ヨハネによる福音書におけるゲツセマネの祈りだと言われます。主イエスが心騒がせられたのは、肉体の死への恐れ以上に、十字架とは私たちに代わって神から見捨てられるという裁きを受けることだからです。天地が造られる前から父なる神と一つであられた御子が、罪人として神と断絶されるのです。その真の絶望を、主イエスだけがごぞんじでした。

 「わたしをこの時から救ってください」で始まった祈りは、私たち人間が本来祈るべきものだったでしょう。おそらく主は何度も何度もこの祈りをなさってきたと思いますし、この箇所の祈りも次の節に至るまで、長い闘いがあったでしょう。主は真の人として苦しみ、恐れ、もがきながら、しかし来るべき苦難を、御父から与えられている時として受け止められました。主は十字架に進むことによって、神の栄光が現れることを求めたのです。自らをささげる道は簡単ではありません。主イエスがご自身のお心を見せてくださったことは、私たちにとって大きな励ましです。そして献身は強いられてするものではありません。父なる神の呼びかけがあり、何度も祈りのやりとりをし、逃げ出すこともあるでしょう。けれども主のご愛に力を得、励ましを得て、自発的に私たちがその道を選んでゆくものなのです。

御子の祈りには、信頼と愛に満ちた御父との不断の交わりがあります。この麗しい交わりに招き入れるために、主は十字架に上げられてくださいました。苦しみの中にある時私たちを本当に支えてくださるのは、御父との交わりです。なんという恵みでしょう。なお祈りによって主との交わりを深められたいと願います。

最後に御父の栄光が現わされるようにご自身をゆだねられた主イエスに、御父はお応えになりました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(28節)主イエスの地上のご生涯において、神の栄光は現れました。飼い葉桶にお生まれになったこと、小さき者と常に共に歩み、み言葉とみ業をもって、御父がどんなに私たちを愛しておられるかを現してこられました。そして十字架と復活、昇天を通して、さらに大いなる栄光が現れるのです。しかしこの天からの声を理解した者はほとんどいませんでした。

主は人々に語られます。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。」(31節)はじめに人が罪を犯して以来、人間は神と共に生きることができなくなり、悪魔の支配下に置かれました。神なしで自己中心に生きる闇の中に捕らわれてしまったのです。しかし主の十字架によって、断絶していた神との関係がうめられ、その悪魔の業は完全に打ち破られました。それはキリストが十字架において世、罪人に対する神の怒りを一身に引き受け、私たちが神の目に罪のない者とされたからです。私たちは神のものとなり、自由にされました。悪魔はこの世の大多数の人々の願いや思想に大きな影響力をもっています。戦争や犯罪においてだけでなく、特定の行為や行動によって神の好意を得、救いに至るという教えもそうです。それは神が人間のように、見返りがなければ何もしてくれない存在だとする偽りです。けれども真の神の救いはただ愛ゆえに、御子の十字架によって与えられた無償の賜物です。悪魔はこの世を完全に支配しているのではなく、主権は神にあります。私たちが罪に陥るのは、悪魔に同意してしまっているからです。しかし御言葉によって聖霊の導きを聞き、主により頼む時に、悪魔は私たちに何の力も及ぼすことができません。

1.(21,23,32節)の続き  「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」(32節) 「地上から上げられるとき」とは十字架にかけられる時です。しかし主は十字架に上げられて終わるのではなく、父なる神によって復活させられ、そのみもとに上げられるのです。そしてすべての人が主イエスのもとに引き寄せられます。これはすべての民族に救いの道が開かれるという意味で、ギリシア人たちに対しての主のお答えです。

ギリシア人たちは自分から主のもとに行かなかったのはなぜでしょうか。おそらく行けなかったのです。神殿でギリシア人が入れるのは、異邦人の庭までで、その先の庭の間には隔ての壁が置かれ、そこを越えていくことは死罪に当たりました。もし主が別の場所におられたとしても、異邦人のほうからユダヤ人を訪ねるのには、見えない大きな壁がありました。しかし十字架によって隔ての壁は打ち壊され(エフェソ2:14~16)ユダヤ人と異邦人は主にあって「一人の新しい人」となったのです。

さて群衆は「地上から上げられる」という主イエスのお言葉に、自分たちが教えられていた救い主との違和感を感じました(イザヤ9:5~6)。彼らが思い描いていた救い主は、自分たちのもとにいつもいてくれて、ローマから解放し、永遠に続くイスラエルの王国を再建してくれる王でした。ですからイエスが救い主ならなぜ死ぬと言われるのか、彼らにはわかりませんでした。しかし預言は間違っていたのではありません。彼らが聞いていたのは、世の終わりに再び来られる救い主だったのです。救いが成し遂げられるためには、その前に死と復活、昇天を経なければなりません。主は聖霊によって共にいて下さるためにこそ、地上から上げられるのです。

 

3. 光なるキリストを信じ、そこに歩み、その光を輝かせる光の子となる。(36節)

キリストが私たちをみもとに引き寄せてくださいます。その一方で、私たちがなすべきことがあります。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(35‐36節)。

光とは天地を造られた神、またその独り子主イエス・キリストのことです(ヨハネ1章)。人は生まれながらにして光の子ではありません。光の子となるために、光なる主イエスを私の主として、私の心の中心にお迎えする必要があるのです。光の子は主の御言葉に照らされて歩む者。主の愛と救いの光を受けて、反映させるようになった者です。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。…すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。」(エフェソ5:8,13,14)

私たちは自分の内に弱さ、愛のなさ、私たちを覆う罪の暗闇があることを知っています。それらはすべて神の光によって明らかにされますが、罰を受けるのではありません。「光あれ」神の言葉は、私たちの混沌の闇を照らし、新しく造り変えて光としてくださるのです。私たちはただ御前にそのままの姿で出るだけです。私たちが自分の力で輝こうとしても、自分の内側とのギャップを隠して人口の光を照らすだけです。それはつらいものです。主が私たちを造り変えてくださることによってのみ、私たちは光の子となり、喜びもって光の中を歩み続けることができるのです。

主は言われます。光は「いましばらく」あなたがたの間にある、「光のあるうちに」歩き、光を信じなさいと。「光のあるうちに」とは、キリストが共におられ、御言葉を語ってくださっている間に、ということです。直接的には、キリストが十字架で死なれるまでのことを指していますが、復活、昇天ののち主イエスは聖霊によって私たちといつまでも共にいてくださるようになりました。ですので私たちにとってそれは体の命の終わりの時か、あるいは主が再び来られる時までの期間を指します。

 私たちが御言葉を聞き、主を信じて歩み出すことができる機会は、永遠に続くわけではないのです。主の招きを受けたその時に、主を信じ従いましょう。日暮れ前ぎりぎりに救われるのももちろん恵みですが、一日でも早く救いの恵みを受け、主とともなる人生がどんなに祝福に満ちたものかを感じていただけますよう、祈っています。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(Ⅱコリント6:1~2)