「世界に広がり、永遠に続くキリストの救い」12/1 隅野徹牧師

  12月1日説教 「世界に広がり、永遠に続くキリストの救い」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:イザヤ書51:4~8

 今日はアドベント礼拝としてこの礼拝を持ちます。アドベントとはラテン語で「来る」という意味です。

 アドベントはキリストがお生まれになったことを祝う「クリスマス」という大切な日が「来る」のを「待つ」ためだけにあるのではありません。 私たちのこの先の時、未来において「神のみこころが成る」ことを待ち望むための日として、キリスト教会ではアドベントを大切にしてきました。

 そしてもう一つ…旧約の時代に「神の助けがあることを待ち望んだ」その人たちと同じ思いになるためにも、この日は大切なのです。

 私たちは既にキリストが世に来られた「新約」の時代に生きています。しかし、キリストのなしてくださった業を「当たり前のこと」のように感じているところはないでしょうか? 神の独り子、イエス・キリストによる「人間を罪から救う業」は、旧約時代の人たちが切なる思いで待ち望んでいたことです。その「待ち望んだ恵み」を私たち自身、「改めて!」待ち望む、切望できたらと願います。

 今朝示されています聖書箇所は旧約聖書イザヤ書の51章の最初の部分です。1節~3節は、新年最初の「元旦礼拝」で取り上げます。今日は「イエス・キリストは何をしにこの世にこられたのか」よく表れている4~8節からメッセージを取り次ぎます。

 預言者イザヤをとおして神が「神の民に語られた約束」が、今日の聖書の箇所です。 何が一番語られているかというと…「イエス・キリストの救いとは、一体どんな救いなのか」ということです。

 4~8節で「救い」という言葉が3回も出てきます。

 クリスマスになると、人間としてこの世に来てくださった神の子イエス・キリストのことを「救い主」とよび「救い主の誕生」という言い方をよくします。このように聖書は「神が独り子イエス・キリストを通して、人は罪の滅びから救われる」ことを教えます。イエス・キリストが「私たちに対し、どんな救いを成してくださったのか、味わってまいりましょう。

 まず4節と5節の一つ目の文です。

 4節の最初に「わたしの民よ」とか「わたしの国よ」とありますが、これは「神の民として特別に選ばれたイスラエル」を指しています。そして「教えはわたしのもとから出る」とは、「ダビデのすえとして、イスラエル人として降誕されたイエス・キリストの誕生」が暗示されているのであります。 

 この部分では「わたしの救いは現れ」という今回の主題というべき言葉が出る一方で「わたしの正義、つまり神の正義」とか「裁き」という言葉が出るのです。

 この「神の正義」「裁き」はもともと同じ言葉です。神は正しい方だからこそ、悪いことをそのままに放置されず、審判される、裁かれる」のです。聖書では「救い」と「裁き」がセットで語られるのです。「なんだかよくわからないけど、うやむやのうちに救われた」ということは絶対にないのです。神は私たち人間に「このまま罪を放置してはいけない」と罪を示されるからこそ、「そこから明確に救いだそうと」されるのです。 罪を裁くという「神の義、神の正義」があってこその救いなのです。

 皆さんは「神の裁き」という言葉…好きですか?「私は聖書の中で神の裁きという言葉が出るのが嫌です!」との声が何度か聞いたことがあります。

 日本人の多くは「神の裁き」ときくと「神の鉄槌が下る」というような「予想外の嫌なことが起こる」を想像しがちです。しかし、聖書の教える裁きとは「そのようなものではありません。 

 もちろん私たちがこの世を去る時、この世が終わる時、「神の裁きがある」と聖書にははっきりと示されています。しかし、考えてみてください神は「愛のお方」です。 もしも神がいたずらに「悪い者にばちを当てる」怖いだけのお方なら、どうして愛する独り子をこの世にわざわざ送られるでしょうか?

 私の少年時代の話をします。 キリスト教にゆかりのない家で育ちましたから「罰が当たる」ことを本気に恐れていた時期がありました。 何か嫌な出来事が起こったとき、「なにか罰当たりなことをしたのだろうか…」とやたら原因探求をしようとした少年時代でした。

 しかし、その後キリストを知ったとき、「本当の神様は、愛のお方だ。だって独り子をわざわざクリスマスにこの世に送ることまでされたのだから。私を大切にしてくださっている」だから「神がきまぐれに罰を当てる」という日本の考え方が間違っているのだ、と理解できました。

 それから聖書に出る「裁き」という言葉も恐ろしいものとは捉えませんでした。

 「神様の裁きとは…人間の悪を正される、そして何が正しいか、ということを示されることなんじゃないか」と、前向きにとらえることができましたが、皆さんはいかがでしょうか

 もちろん「罪のある汚れた私」は、神の前で普通に裁かれたら「ただ罪人と」見なされることは間違いありません。 しかし、罰が当たることが怖かった私もイエスキリストが、「自分の罪の身代わりとして死んでくださったので、悪いものは全部イエス様が引き受けてくださったんだ!だからイエス様を信じれば、怖くないんだ」と理解したことを思い出します。

 今日皆さんには覚えてほしいことがあります。それは「イエス・キリストをご自分を罪から救って下さる方だと信じることができるならば、神の審判、裁きを恐れる必要はないのだ!」ということです。

 聖書に戻ります。5節の後半を読みます。

 ダビデの末としてお生まれになったけれども、ただの人間ではない「神の子イエス・キリスト」を諸外国の人々が待ち望み、希望にするということが預言されています。まさにイスラエルだけの救い主なのではなく、世界の救い主なのです。

 先ほど少年時代の私は「日本古来の神の捉え方、神観に苦しんだ」と言いましたが、イエス・キリストに出会ってから自分の抱いていた疑問がすっと解決しました。 外国の宗教だとか、そういうことは思いませんでした。

 よくぞこんな日本に、「キリストのことを伝えてくれる人がいたなあ」と宣教師の働きに感謝したものです。

 みなさんはいかがでしょうか?日本古来の宗教がある中で、どうしてキリストと出会われたのでしょうか? 

 「なんだかよくわからない宗教」ではなく「悪は悪」「罪は罪」だと明確に聖書が示してあるから信じたのではないですか? そして「聖書が示す罪が自分にもある。そこから救われるには、人間としてこの世に来られ十字架に架かって身代わりとなってくださったイエス・キリストを信じるしかない」と信じられたからではないでしょうか?  イザヤ書51章の4、5節を通して、ご自分の「キリストとの出会い」の原点を思い返しましょう。

 最後に6~8節を簡単に見て、メッセージを閉じます。

 ここではキリストの救いが永遠に続くことが示されます。この世の「目に見えるもの」はいつか無くなります。はかないものです。 でも!天地万物を創造なさった神ご自身がなさる「救いの業」は違うのです。 時代を超えて待ち望まれた神の救いの業は、「神の独り子が人間の姿となってこの世に送られる」というものでした。しかも、「その神の独り子自らが、すべての人間の罪の身代わりとなるために死なれる」という「だれも想像だにできなかったであろう」奇しい業によって成し遂げられたのです。

 だからこそ、時を超越して「永遠の救い」となるのです。

 私たちもこの恵みにあずかっていることを今一度、心に刻みましょう。