「主がお入り用なのです」9/27 隅野瞳牧師

  9月27説教 ・聖霊降臨節第18主日礼拝
「主がお入り用なのです」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書19:28~40

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 本日の箇所では、平和の主が私たちを必要としてくださることについて記されています。3つの点に目を留めて御言葉にあずかりましょう。

1.先立ってすべてを備えてくださる主に従う。(28、31節)

2.真の主に出会ったなら、招きに応えて踏み出す。(34節)

3.私たちの賛美を、主はお受けくださる。(40節)

 

 主イエスが十字架にかかる日が近づきました。ルカによる福音書は24章ありますが、19章からはすべてこの最後の一週間に関する記述となっています。それは福音書が最も伝えたかったのが、主イエスの十字架と復活だからです。主イエスはこれまで人々の前に、ご自身を神の国の王として顕されることはありませんでした。そのようなことをすれば、当時ローマ帝国の支配下にいたイスラエルを解放する指導者と誤解され担ぎ出されて、十字架による救いをもたらすことはできなかったでしょう。しかしついに主イエスが王であることを公に示し、十字架によって神の栄光を現す時が来たのです。

1.先立ってすべてを備えてくださる主に従う。(28、31節)

 主イエスはエリコの町でザアカイの家に泊まられた後、エルサレムに向かって真っすぐに旅を続けてベトファゲとべタニアという村にさしかかりました。主イエスはそこで弟子たちに一頭の子ろばを用意させ、ろばにまたがってエルサレムへの道を進み行かれました。主イエスに従っていた弟子の群れは自分の服を脱いで道に敷き、主を賛美しエルサレムまで練り歩いたのです。

 主イエスの時代から500年前、ゼカリヤという預言者はこう預言していました。「娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。」(ゼカリヤ9:9~10)500年の間イスラエルの人々は、主の御名によって来る真の王を信じて待ち続けていたのです。主イエスはこの預言に示された王として子ろばに乗ってエルサレムに向かわれ、従っていた者たちは、ついに預言されたこの世の王としての救い主がおいでになったと歓声をあげたのでした。通常この世の王は騎兵隊に囲まれ、威厳や権力を誇示しながら、馬にまたがって凱旋入城します。ところが平和の王イエスは荷物を運ぶろばの子に乗って入城されました。これは主イエスが軍事的勝利者ではなく、平和、愛、憐み、柔和、謙遜な王であることを強調しています。

 さて、主イエスはエルサレムに上る一行の先頭に立って進んでおられました。先に立ってということは、その後に弟子たちが従っているということです。弟子たちは主イエスが何のためにエルサレムへ向かっておられるのか、理解してはいませんでした。私たちもまた聖書の意味や神の御心についてすべてわかったうえで、主に従っているのではありません。しかしそれでも、先に立って進む主に従うことが大切です。そこに、周りで見ているだけの群衆と弟子たち、信じる人とそうでない人の決定的違いがあるのです。キリストは十字架への道、平和の道を、私たちの先頭に立って進まれました。たとえ誰一人後に従う者がなかったとしても、進んで行かれたに違いありません。後にご自分に向かって、十字架につけろと叫ぶ人々であったとしても、この人々に出会うためにこそ進まれるのです。

 主イエスは二人の弟子を使いに出すに際して、向こうの村に入るとまだ誰も乗ったことのない子ろばがつないであるのが見つかるから、それをほどいて引いて来なさいと命じられ、さらに、もし誰かが「なぜほどくのか」と尋ねるなら「主がお入り用なのです」と言いなさいとおっしゃいました。誰も乗ったことのない子ろばが本当にいるだろうか。いたとして、勝手に解いて引いて行ったら泥棒呼ばわりされるんじゃないか。「主がお入り用なのです」と言うだけで貸してくれるんだろうか…。そんな不安があったと思います。それでも主のお言葉を信じて向こうの村に行くと、主イエスが教えてくださった通りになりました。ここから弟子の奉仕とは、主イエスが命じられた通りにすればよいと示されます。見通しが立ってから動くのではなく、主のお言葉に従って動くのです。なぜならお命じになった主ご自身が、備えていてくださるからです。

 誰も乗ったことがない子ろばを主は愛し、神のために取り分けられた聖なるものとしてお選びになりました。「自分がクリスチャンだと人に言ったことはない」「教会に誰かを誘ったことはない」「こんな奉仕はしたことがない」そんなあなただからこそ必要とされます。今大きく用いられている人であっても、初めは皆、やったことがありませんでした。また長年信仰生活をされている方は、主のご用をさせていただくたびに、初心に立ち返りたいと思います。経験や能力によらずに主に仕えることができますように。神が用いやすい器として砕いてください。自分の思いと違う用いられ方となったとしてもおゆだねし、私を通して主のご栄光が現れますようにと祈りましょう。

2.真の主に出会ったなら、招きに応えて踏み出す。(34節)

 子ろばをほどいていると案の定、なぜほどくのかと持ち主たちに尋ねられました。そこで弟子たちは教えられた通り、「主がお入り用なのです」と答えました。これはもともとの言葉では、「それ(子ろば)の主人がこのろばを必要としておられるのです」という表現です。この子ろばの持ち主たちは驚いたでしょう。「このろばの子の主人は私たちではないか。」

 持ち主がもちろんろばの主人なのですが、ろばの本当の主はキリストであり、そのお方がろばを必要とされているということです。私たちはもともと、自分の人生の本当の主人、王を知らずに生きています。自分の人生の主人は自分だ、思うままに生きるのが幸せだと言いながら、実はほかの人や罪のもとに支配されています。しかし主の招きを自分のものとして受け止め踏み出していく時に、新しい命が始まります。世界のすべてをお造りになり、維持し御手のうちに治めておられるのは主です。イエスを信じるとは、イエスが私の主であることを知り、主に従って生きるということです。誰よりも私たちをご存じで活かしてくださる主が御心を教え、そこに歩むすべての力も必要も満たしてくださいます。そこに隣人を生かし共に生きる道も開かれます。

 ろばの子は本当の主人である主イエスに召し出されました。弟子たちはそのことを告げる役割を与えられ、子ろばの持ち主たちは、弟子たちを通して語られた主のお言葉を受け入れました。これが神の言葉の力です。子ろば自身の一歩も大切ですが、子ろばが用いられるためには、神の招きの言葉を伝える弟子、そして子ろばを送り出すという形での持ち主たちの献身が必要です。主はそれぞれの形で共に宣教のわざを担う人を求めておられます(ローマ10:14~15)。

 主はどうして子ろばをお選びになったのでしょうか。本当の答えは主のみがご存じですが、いくつか推測できることがあります。第一に子ろばは背が低いからです(体高90~150cm程度)。馬に乗った王は、高い所から人々を見下ろします。しかし主の名によって来られる王は背の低い子ろばに乗り、私たちと同じ目線に立って共に生きてくださる方です。ろばはウマ科の中では一番体格が小柄で餌が乏しくても大丈夫なので、庶民の家畜として用いられたのです。第二にろばは馬よりゆっくり進みます。馬が走ると時速60km、ろばは時速40kmだそうです。中でも王が乗る馬は最も速い馬でしょうし、その王に従う部下は、やはり足の速い馬にのっていなければなりません。しかし子ろばに乗った王は、力の弱い者とゆっくり歩みを合わせることができる方です。ろばは遅いですが体力を温存する走り方で、持久力では馬に勝り、悪路を歩くことができます。荒野やがけのような日々を歩む私たちと共に、主がおられるのです。第三にろばは日常的な荷物を運んだり人を乗せたりと、平和な目的のために用いられます。ろばに乗った王は戦争ではなく、荷を負うろばのように人の重荷を負うのです。人間にとって最も大きい重荷、それは人間の心の中に巣くう罪です。神を無視し自分中心に生きる罪のゆえに、私たちの間に真の愛がなく満ち足りることができません。自分を満たすために私たちは多く持とうとし、奪い傷つけ争います。そこに平和をもたらすことができるのは、自分を犠牲にし、罪の重荷をすべてその身に負って神と和解させてくださるキリストお一人です。

 私たちは平和を与える主イエスをお乗せしています。私たちは神と人との真の平和、救いを与えるために十字架に向かわれる王のメッセージを運ぶ者です。ろばは一度通った道順を忘れず、乗り手が居眠りをしていても目的地に運んでくれ、ろばだけで崖を登り降りして荷物を運搬することもできます。主イエスの愛、救いを受け入れ、示された道をゆっくりでも着実に歩き続けるろばのような人を、主は必要としておられます。

3.私たちの賛美を、主はお受けくださる。(40節)

 37節には「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことを喜び、声高らかに神を賛美し始めた」とあります。過越の祭を祝うために各地から集まって来た大勢の人々がそこにいたのですが、ルカは群衆ではなく弟子たちの賛美にフォーカスしています。36節「人々は自分の服を道に敷いた」も原文では「彼ら」つまり弟子たちが服を道に敷いて救い主を歓迎したと表されています。ルカは主に従う弟子たち、私たち信仰者のあり方を語ろうとしているのです。

誰かがやってくれる。目に見える何かが満たされれば状況はよくなる、と考えがちな私たちです。しかしそれでは、主イエスが力によってローマの支配から解放してくれる王だと、間違った期待をしていた人々と同じです。今の生活に不満と不安を抱えた人々が力強い王や指導者を求め、この人がいなくなったら平和になると言っては血を流す。歴史はこれを繰り返してきました。しかし主イエスは弟子たちを用い、子ろばを用いて救いの御業を進めていかれます。それが王なる主のなさり方です。私たちを通して、私たち自身が変えられて主体的に関わっていくのでなければ、本当の平和、救いはこないのです。私たちの小ささや欠けを、存在を通して福音が実現していくのです。小さき者であるからこそ、弱さを覚える方に届くことができます。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)

弟子たちは、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び主を賛美しました。主イエスがガリラヤにおられた時から従ってきていた弟子たちだからこそできることです。弟子たちは、神の国を実現するまことの王として来られた主イエスを喜び迎えています。「天には平和。いと高きところには栄光。」ルカ2:14ではキリスト降誕の際、天の大群が賛美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。主イエスがどのような方として来られたかを告げ知らせた天使たちの役割を、今度は弟子たちが果たしているのです。

天使の賛美は御心を反映していますから、「地には平和あれ」こそ神が心から願われたことでしょう。神が完全に治めておられる天は、すでに平和なのですから。弟子たちの賛美は、気分が高揚して地上に目を向けることをしていないように思われるのです。弟子たちや群衆の期待と主イエスの思いには、大きな隔たりがありました。しかし主は彼らがどのような意味で歓迎しているのかをご承知の上で、ご自身が御国の王であることを教えるため、あえて彼らの賛美をお受けになりました。

 天使の大軍は、神のみもとにいた御子キリストが地に降られる様を見て、「地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。しかし、今弟子たちは、エルサレムを通して昇天する王として、主イエスはエルサレムを目指しておられることを、思わず賛美しているのではないでしょうか。彼らが、この時十字架を経て昇天する王のすべてを分かっている訳ではなかったでしょう。しかし彼らは彼らなりに賛美したのです。真理を悟りえない私たちであっても、主はその賛美をお受けくださり用いてくださいます。主の祈りを唱える子どもの姿を通して主が働かれるように。

 ろばは新しいことになかなか慣れず、背中の荷物がずれているなど歩くのに問題があると動かなくなります。しかし問題を除いてやると再び従順になる、安全に対する感度が鋭い動物だそうです。まだ誰も乗ったことがないろばであればなおさら、わずかな仕事しかできないでしょう。しかし「この子をこそわたしは望む」と主は求められます。そして子ろばは主に用いられる喜びの中で、多くの人に囲まれる慣れない環境でしたが、初めて人を乗せました。それも、主をお乗せしたのです。神の前に自分が小さき者、罪深い者と自覚させられたあなたこそ、必要なのだと主は言われます。

さて、成り行きを見ていたファリサイ派の人々が「先生、お弟子たちを叱ってください」と詰め寄りました。ファリサイ派とは神の戒めである律法を厳格に守り、人にも守るように教えていた人々で、律法を本来の意味で生きた主イエスに対立し、殺意を抱くほどになっていました。あなたの弟子たちはあなたを王、救い主だと勘違いしているようだが、そんなはずはないだろう。だから弟子たちに間違っていると叱りなさい。彼らを止めないならば、あなたは自分自身を救い主と認め、神を冒涜する大罪を犯すことになるのだ、と彼らは迫ったのです。

 それに対し主イエスは、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」でもね、彼らが口を閉ざした途端に周りの石が一斉に叫び出しますよ、と言われたのです。周りの人々もそれを聞いて、一層喜んで主をたたえたのではないかと思います。賛美というのは、私たちの力によって外から付け足してできるものではありません。私たちの内にあるキリストの命、キリストに赦され愛されている喜びが湧き出てくる、泉のようなものです。一部を抑えても、他のところからピューっと湧き出てくるのです。主イエスが救い主であることを証する。それは禁じることのできないものであると、主が保証しておられるのです。

 ロバの子に運ばれて訪れてくださった平和の主は、十字架の上でご自分が身代りに裁かれることで、罪は罪として完全に裁かれました。だからあなたは赦されたのだと、罪の赦しの平和の主として、私たちを訪れてくださいました。自分自分では平和になれない私たちに、神はキリストによって天の平和をくださいました。キリストに従う愛の道、赦しの道を歩むことによって、私たちは神と人と平和に生きることができます。キリストの救い、平和の福音を運ぶ者として「主よ、どうぞお用いください。」と御前に進みゆきましょう(Ⅱコリント5:18~19、エフェソ2:14~16 )。

 

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