「主がともにおられない戦い」6/20隅野徹牧師

  6月20日説教 ・聖霊降臨節第5主日礼拝・教会創立80年までの歴史を振り返る礼拝
「主がともにおられない戦い」

隅野徹牧師
聖書:民数記14:39~45

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 私たち山口信愛教会は今「創立130周年の年」を過ごしています。今年は、教会の「これまでの130年の歩みを」主に在って心に留めることができるような企画を教会としていくつも考えました。

今日は、本来なら10年前、山口信愛教会の代務者を務められた鈴木恭子牧師を福岡からお呼びし、講壇に立っていただく予定でしたが、コロナの影響で延期せざるを得なくなりました。そこで、130周年記念委員会と役員会で協議し、今日は「130周年記念で復刻した、80周年までの歴史を詳しく記した『わたしたちの教会の歴史』」を用いて、皆で教会の歩みを学ぶ日にすることに決めました。

礼拝の後、3人の方に、この教会の歴史の中で印象に残っていることについて、あるいは「記念誌復刻版を読んで感じたことについて」お話しいただきます。

先だって持たれているこの礼拝も、それに合わせて、「記念誌復刻版を読んで私なりに感じたこと」を、聖書に照らし合わせてメッセージさせていただきます。

この後の、発表があるので短めに語りますが、主御自身が皆様に直接お語り下さることを信じます。

記念誌を持参されていない方に配布)

 私が、記念誌復刻版で印象に残った箇所はたくさんあります。その中で一カ所、聖書の教えと併せ、皆様に分かち合いたいと示されたのがP37の「三教合同を歓迎した教会」の部分です。

 ここに書かれているのは明治の終わりから、大正の初め頃のこと、信愛教会は創立20年の頃です。1921年の礼拝出席平均が約30名だったことが書いてあります。次のページをご覧ください。ここには社会全体と、日本のキリスト教会全体の動きが記してあります。

 当時、社会主義者が「爆発物を作った」とか「テロの計画を練っている」という情報をつかんだ政府は、社会主義と名の付く人々を逮捕し、秘密裁判にかけ、死刑に処すなどして「根絶やしにしようとする」ということが起きたことを林牧師は記しています。そして政府が「二度と危険思想が起こらないように」と利用したのが「神道、仏教、キリスト教」だったと書かれています。

 1912年、三教の代表を招いた政府は「国民の風紀改善をするには宗教の力がいる」といって、国家的事業への協力を求めてきたのです 38頁の中頃にありますが、神道、仏教はこの「三教合同」に不満を持っていたそうです。

 しかし、キリスト教界全体は「これで日本古来の宗教に肩が並べられる。社会に定着できる!」と言って喜んだそうです。

 それまでも政府に歩み寄るような態度を取っていたキリスト教界が、より積極的に「政府に協力的な態度」を取り始めたのです。山口信愛教会も、残念ですが「戦争に突き進む政府に協力的」になっていったことが記録から分かります。より顕著になるのは、1930年代に入ってからです。記念誌で言えば63頁あたりからです。詳しくは各自でお読みいただくと感謝です。

130周年前、山口信愛教会が誕生したとき、信徒伝道者だったケイト・ハーラン女史によって伝道が開始された頃、周りから石が投げられる、などの迫害がありました。耶蘇は日本から出ていけ!という感じです。

しかし、日本古来の宗教に肩が並べられる、と多くのキリスト者が感じたこの出来事の後、目に見える攻撃は止んだのかもしれません。「もうこれまでのような苦しみを味わわずに済む」と思ったかもしれない…でもそれが「大きな落とし穴」となったことを私たちは忘れてはならないと感じます。

信仰による戦いは苦しいものです。主が共にいて下さる戦い、それは決して楽なものではありませんが、戦うことそのものから逃げてしまうことが、どんな結果を生むのかは聖書に教えられています。

残りの時間、私に示されている「今のテーマが教えられている聖書箇所」からのメッセージを取り次ぎます。聖書箇所は、数週前のこどもメッセージでお話しした「約束の地カナンの偵察」の箇所です。その最後の結末が書かれている民数記14章39~45節を読みましょう。まず聖書箇所の背景が分かるように聖書の後ろにある地図の2、出エジプトの道と書いてあるところを開きましょう。

民数記の13~14章の場面の舞台はカデシュ・バルネアというところです。イスラエルの民達がここに留まっているとき、モーセは偵察部隊数人を送り出しているのです。どこに送り出したかというと、カデシュ・バルネアの少し北の「カナンの地」です。

このカナンの地は神が、モーセを用いてエジプトから連れ出したイスラエルの民達をこの場所に導くといわれた「約束の地」です。ある意味エジプトから苦しい道のりをたどってきた民達にとって「ゴール地点」といえるものでした。今のように情報網が全くない時代、その「約束の地」が果たしてどんな場所であるのか知るためには、ここにあるように実際に人を遣わせて様子を見てきてもらうことしかありませんでした。

13~14章の流れを簡単にお話しします。

13章は約束の地への偵察の様子と、その報告の様子が記されています。約束の地は27節にあるとおり「土壌がとても魅力的で、多くの収穫がもたらされている」という報告がなされました。

一方、28節以下では「自分たちがとても歯が立たないような強い住民たちが住んでいる」との報告がなされました。30節では、偵察に行った一人であるカレブが「攻め上っていくべきだ」と進言しています。しかし31節では一緒に行った者達は敵の方が強いから…といって反対し、意見が一致しない様子が記されています。

14章に入るとイスラエルの民達は不平不満を言い出した様子を見ることができます。その不平不満はどんどん強くなり、挙句の果てには「こんなところで戦って死ぬのは御免だ!そうなるぐらいならエジプトに帰ったほうがましだ!」という声があがりました。その声はどんどんと大きくなり、ついには「誰かリーダーをたててエジプトに帰ろう!」と具体的に動き出しそうになりました。5節からの箇所では、その声に対し、カレブと同じく偵察のメンバーだったヨシュアが反対しますが、民達はこの二人を石で打ち殺そうと考えるまでになりました。

そんな様子を見ておられた神は大変お怒りになりました。モーセの必死の執り成しの祈りによって民たちは赦されますが、神は厳しい言葉をモーセに語ります。神を試み、神に従わなかったものは約束の地に入れないこと。また、約束の地に導き入れられる人も、荒野の中を40年間旅しなければならないことが語られました。そのことをモーセが民達に語る場面からが今朝の礼拝の聖書箇所です。

 短い時間ですが、聖書箇所を詳しく見てまいりましょう。

39節、40節をご覧ください。 民たちはモーセを通して「神からの厳しい言葉」を聞くと一転態度を変えます。そして攻め上っていこうとしました。

続く41~43節は大切ですので、私が読んでみます。

モーセは攻め上ってはいけない、と忠告します。その理由は「神が40年遠回りしなければならない」と言われた、その言葉に背くことだからといいます。そうして主の御心と違うことに突き進んでも「主はともにいて下さらない」という強烈な言葉を述べています。

つづく44節と45節に結末が書かれています。民はモーセの忠告を無視してホルマという所まで行きますが、ここで戦いに敗れ後戻りせざるをえなくなったのです。

これまでも荒れ野の旅で苦労してきた民達はカナンの地に行きさえすれば、神からの約束の地としてその土地が手に入ると考えていました。

しかし、「更なる戦い」が伴うことが分かると、苦労から逃げ出したくなっているのです。

私達の教会も、創設期には今の私達には想像できないような迫害がありました。その苦しみから「三教合同によって」やっと逃れられる…そのように思えたのでしょう。しかし、それは本当に主の御心だったのでしょうか?厳しいですが、世の迫害が無くなることが主の望んでおられることとは限らないということを心に留めましょう。私たちは平穏無事を願う前に、まず主の御心を正しく求めることをしてまいりたいと願います。

 さて…「ゴールをわざわざ見せておきながら回り道をさせるなんて神はひどいことをされるのか!」と思えるような今回の箇所を締めくくるにあたりみなさんに考えてほしいことがあります。

Qもし偵察隊が帰ってきた後、民達全員が一致していれば、カナンの地を勝ち取ることができ、40年も無駄な時間を過ごさなくてよかった…のでしょうか?私はそうではないと考えます。

約束の地に入るにはなお時間が必要で、その間に試練を通って鍛えられなければならない…そのように神は考えられた。そして試練の中で「御心を祈り求める」ことができるようになることを期待しておられたのではないでしょうか。この遠回りと、苦労がなければ、いかにも「自分たちの実力で約束の地を手に入れた!」という驕った心が生まれる危険性があったと考えます。

 14:8節でヨシュアとカレブは「もし、我々が主の御心に適うなら、主は我々をあの土地に導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう。」「もし主の御心に適うなら…」とは、もし御心でないなら引き返す、そして「今はその時ではないと思うなら、ときが来るまで、じっと我慢する」ことを福音でいるのです。主の御心を十分祈り求めたなら、それは「自分の考えで選んだ道」、ではなく「神とともに選んだ道」となります。

今朝は、聖書の御言葉とともに、「復刻版記念誌」から、敢えて「負の歴史」とも言えることがらを共に見てまいりました。この負の歴史を通して、神が教えようとされていることがあるように思えます。それは!私たち教会につながる者は「人間的に、楽で近道」に見える道を簡単に選んでしまうのではなく、よく祈って進むべき道を願い求めるということです。

人間の目から見て「なお回り道を行かなくてはならない」ように思えたとしても、それを主が敢えて望まれることはあるのです。主の御心は何か、教会全体で祈り求めつつこの先も歩んでまいりましょう。(祈り・黙想) 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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