「主よ、それはだれのことですか」1/29 隅野瞳牧師

  1月29日 降誕節第6主日礼拝
「主よ、それはだれのことですか

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書 13:21~30


 本日はイスカリオテのユダと愛されている弟子を通して、主から離れる者とそば近くにいる者について、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.誰もが、主を裏切る弱さを持っている。(21,25節)

2.愛されている者は、主イエスの胸もとに寄りかかる。(23,25節)

3.夜に出て行ってしまっても、何度でも光なる主に立ち帰る。(27,30節)

 

前回は十字架の前夜、最後の晩餐といわれる過越の食事の際に、主イエスが僕として弟子たちの足を洗われた箇所でした。主はこれによって、御自身の十字架を通して罪がきよめられることを示し、弟子たちも互いに赦し仕え合うよう、模範を示してくださいました。

本日与えられている御言葉は、イスカリオテのユダが主イエスを裏切った場面です。イスカリオテのユダは十二弟子の一人であり、他の弟子と同様に主の徹夜の祈りによって選ばれました(ルカ6:12)。彼は他の弟子たちと共に約3年間主に従いましたが、主イエスを裏切り、ユダヤ人指導者たちに引き渡すことになります。  

主がラザロの姉妹マリアから高価な香油を足に注がれた時、なぜこれを高く売って貧しい人に施さなかったのかとユダは彼女を責めましたが、それは彼が主イエス一行の会計係でありながら中身をごまかしていたからでした。信仰深そうなユダの主張に対して主は、マリアは葬りの準備をしてくれたのだと、その愛のささげものをお受け取りになりました。この後主イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡して彼が手にするのは銀貨30枚、ひと月分の給料程度ですが、主イエス一行の伝道は収入や収穫のない貧しいものでしたから、富の誘惑に陥ったのかもしれません。

またこの時点で弟子たちはこの世の力や富、武力によって神の国を実現するこの世の救い主を期待していました。主イエスは病人を癒したり、パンを増やしたりなど、はじめは民衆から絶大な支持を受けていましたが、いつしかユダヤ人指導者から指名手配され、ローマの支配から解放しようとする気配もありません。主は十字架と復活によって罪人を救い、神の愛のご支配に生きる者とする、その救いを実現するために来られました。その主と弟子たちの思いに大きなずれがあった、とも考えられます。しかし本日の箇所では「サタンが彼の中に入った」としか告げていません。聖書に記されていることだけを心に留め、主がここで何をなされ語られたのかに思いを向けたいと思います。

 

1.誰もが、主を裏切る弱さを持っている。(21,25節)

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」(21節) 「主よ、それはだれのことですか」(25節)

食事の席で主イエスは心を騒がせ、驚くべきことをお告げになりました。主がユダを名指しせずこのように言われた意図は何だったのでしょうか。一つには、誰もが主を裏切る可能性を持っていることを示すためだったと考えられます。十二弟子の誰もが、それぞれ自分に思い当たるものを心に秘めていた。ですから不安を抱いて顔を見合わせたのです。

けれども同時に「主よ、それはだれのことですか」という言葉もそれぞれの心にあったのです。つまり、まさか自分が裏切り者ではないだろうという思いです。私たちは御言葉をどこか、自分とは関係ない人に起こった出来事のように読んでしまいがちですが、聖書はまさにこの私に向けて主がお語りになったメッセージです。「ユダという特別に悪い弟子、裏切り者がいました」ではなく、私たちは主のお言葉を通して、自分を含むすべての人の中に、主を裏切る可能性があることを覚えましょう。事実、この後主イエスが捕らえられた時には弟子たちは皆、主を見捨てて逃げてしまいます。

 そしてまた主イエスがこのように言われたのは、ユダが悔い改め方向転換する余地を残されたということだと思います。主イエスはユダをも含めたすべての弟子たちをこの上なく愛し抜かれ(13:1)足を洗ってくださいました。洗足は罪からのきよめを象徴する行為ですから、主はユダが心の足を差し出し、罪あるそのままの姿で御前に出ることを願っておられたのです。主が心を騒がせられたのは、愛するユダがサタンの手に陥ろうとしているからでした。裏切りを実行することによって、彼が耐え難い苦しみに至ると知っておられたからです。

ユダの裏切りとは具体的には、主イエスを捕らえようとするユダヤ人指導者やローマ兵たちに「引き渡す」ことでした。ユダ自身が主イエスを捕らえたり傷つけたり刑の執行をするのではなく、主イエスがおられるところに人々を連れて来て、この人がイエスだと示したのです。まさか自分の行為がきっかけとなって十字架刑にまで至るとは、このときユダは考えていなかったとも言われます。

主イエスに最も近い弟子、自分たちの仲間が主を裏切ったと書き記すことは、新しく生まれた教会の評判を落とすことにもなりかねません。しかし四福音書すべてがユダの裏切りを包み隠さず、教会に語らねばならないこととして記しています。それはこれを聞いた私たちが聖霊によって「主よ、それは私のことなのですね。」と悟らされ、主に立ち帰って生きるためなのです。

 

2.愛されている者は、主イエスの胸もとに寄りかかる。(23,25節)

「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席についていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。」(23~24節)

この時「弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者」が、主イエスのすぐ隣の席に着いていました。伝統的にこの弟子はヨハネによる福音書の著者、ゼベダイの子ヨハネであるとされています。「愛されている弟子」はこの後大切な場面で何度も登場します。十字架の時、彼は母マリアと共に主イエスのもとにおり(19:25)、復活の時もペトロと一緒に墓に走って行きました(20:4)。ティベリアス湖で「舟の右側に網を打ちなさい。」と命じられた方を「主だ」と告白し、ペトロの後から復活の主に従っていきました(21章)。

主は弟子たちすべてに愛を注ぎ尽くされましたから、ヨハネだけが主イエスに愛されていたということではありません。ヨハネはふりかえって自らの罪が主に赦された恵みを心から感謝し、主の愛をことさらに感じていたのでしょう。

「イエスのすぐ隣」は直訳で「イエスの胸の中に」となります。これはヨハネ1:18の「ふところ」と同じ言葉です。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」御子イエス・キリストを仰ぐ時に神がどのような方であるかが現されます。それは御父と御子が最も親密な深い愛の内にあり、一体であるからです。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります。」(ヨハネ17:21)御子は十字架を通して私たちの罪を赦し、神と共に生きる命、御父と御子の愛の交わりに入れてくださいました。すべての人がこの愛のうちに一つとされることが御子の祈りです。愛し合う私たちの姿を通して、主が証されていくのです。

 私たちは主の胸もとに寄りかかってよいのです。寄りかかって初めて、その愛の内に憩い喜ぶことができるでしょう。主のみそばにいることをいつも願うこと。自分の力により頼むのではなく主の愛を常に受ける、それが信仰であると、この弟子は示しているように思います。

「その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、」(25節)

 過越祭はイスラエルの食事のとり方となります。客は卓を囲んで左を下にして横たわり、右手で食事を食べます。一般的には家長が真ん中に座り、端に座っている子供たちが食事の意味を尋ねると、出エジプトの際に主が小羊の血を見てイスラエルの家を過ぎ越してくださったことを語ります。ヨハネの顔が主イエスの胸のあたりに来たというのは、彼が主の右隣、最も身近な者が着く席にいたということです。ペトロはヨハネに合図をしたのですから、中心からは少し離れておりました。

 「イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。」(26節) 

横になってパン切れを浸して与えたのですから、主の左隣にいたのはイスカリオテのユダと考えられます。主はユダを大切な者として最も近くに置き、パン切れを浸して与えました。このパンのように私はこれから十字架であなたのために身を裂き、与えます。悔い改めて命を受けなさいと。

主の祈りの中で、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え。」とあります。主を裏切り主から離れることがありませんように、そのような厳しい状況に追い込まれませんように、という祈りです。私たちがユダにならないですむとすれば、この祈りの中で私たちが守られていく以外にありません。私たちの信仰は初めから終わりまで、主なる神の守りと導きによるのです。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。…」(エフェソ6:10~17)

 

3.夜に出て行ってしまっても、何度でも光なる主に立ち帰る。(27,30)

「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。」(27節) 

私たちを神とその命から引き離そうとする霊的な存在があることを、聖書は教えています。サタンとか悪魔と呼ばれる存在です。悪魔はユダの心に主イエスを裏切る思いを抱かせました(13:2)。そして彼は誘惑から離れ、助けを求めることをしませんでした。そしてついに「サタンが彼の中に入った」。ユダはサタンの支配を心に受け入れ、主を裏切る方へ足を踏み入れてしまったのです。

サタンに誘惑されたからといって、ユダに責任がないということではありません。彼は自ら選び実行したことについての結果を負わなければなりません。しかしユダもまた主の憐れみの中にあります。彼の救いについては神の領域にあることとしてゆだね、私たちは自らに目を向けたいと思います。

神は人間を、自由意志を持つものとしてお造りになりました。ある物に対しての関わり方を決め、神に従うか従わないか、その関係のあり方を自分自身で決めることができます。しかし神は人間が好き勝手に生きるためにではなく、自ら進んで神と共に歩み救いを受け取るようにと願われました。主がユダに差し出されたように、御子の十字架による罪の贖いと永遠の命は、私たちにすでに差し出されています。それを取って食べるかどうかは私たちに委ねられています。

後に初代教会の長老として立てられたペトロは、十字架の前に三度主との関係を否定してしまいました。頭でわかっていても、どんなに自分の決意が固くても、人はサタンに勝つことはできない。それを思い知らされ主のもとに立ち帰った時に、主は彼を赦し、新しい使命を委ねてくださいました。「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。…しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(Ⅰペトロ5:8~10)主に赦され、より頼んでサタンに抵抗する。その原点があってこそ、彼は霊的人格的に豊かな指導者、牧会者となったのです。

「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(30節)

ユダは一見して悪者ではなく、むしろ信頼されていたと考えられますから、彼が飛び出して行っても他の弟子たちは、祭の準備か施しをしに行ったのだと思っていました。ヨハネによる福音書には、光と闇というテーマがあります。夜は光なる神から離れて歩むことの象徴です。私たちは主イエスを信じ光の中を歩むか、サタンに支配され闇の中を歩むかの分岐点にいつも立たされています。

ユダ以外の弟子たちは主の復活の後聖霊を受けて、全世界に福音を宣べ伝える働きのために用いられていきます。他の弟子たちとユダは何が違ったのでしょうか?主イエスが逮捕されて一時離れましたが、他の弟子たちは復活の主のもとに戻り、赦しを受け取ったという点です。他の弟子たちに人間的に優れた点があったわけではありません。しかしただこの一点が、必要だったのです。

主はすべてご存じのうえで、私たちを愛しお選びくださいました。ですからたとえ主を裏切ってしまったとしても、暗闇に一人、罪や弱さを隠さなくてよいのです。そのような自分を追い詰め、価値のない者と見なすのではなく、あなたを待っていてくださる主のもとに帰りましょう。私たちを裁くことができるのは主だけですが、主は御言葉を聞いて信じる者を裁くことなく、死から命に移してくださいます(5:25)。主の赦しにあずかるならば、何度でも立ち上がることができます。私たちは間違えも失敗もする人間です。けれどもだからこそ主が模範を示されたように足を洗い合う。フォローし、赦し合って、私たちは主の愛を知るのです。そこにこそ真の満たしがあります。

御父と御子の愛の交わりの中に、私たちは招かれています。そこに生かされることが光であり永遠の命です。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。…あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。…その果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる。」(詩編139:11,17,18)「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)

聖書はこの私に向けて主がお語りになったメッセージであり、私たちにも主を裏切る罪があります。けれども同時に覚えていただきたいことは、聖書に約束された主の恵み、救いの御業もまた、まさにこの私に注がれるということです。私たちはユダにもヨハネにもなりえます。主によりかかり、そのふところに安らいで、愛と赦しを受ける者でありましょう。