「人に従うより、神に従う」2/9 隅野徹牧師

  2月9日説教 「人に従うより、神に従う」(降誕節第7主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:使徒言行録5:17~32

 

 今朝示されている聖書箇所は使徒言行録5章17節から32節を皆様と読みます。いつもより短く語りますが、皆様に大切な御言葉が届くことを願います。

 17節、18節をご覧ください。ここでは大祭司とサドカイ派の人々が、ねたみに燃えて使徒たちを捕え、牢に入れたことが分かります。なぜ「ねたみに燃えたのか」というと、それは直前の12節からのところで分かります。(1頁前をめくってください)

 使徒たちはキリストの昇天後、神の霊である「聖霊」を豊かに受けました。その聖霊の業によって「多くの病んだ人を癒した」ことから、民衆は使徒たちを称賛したのです。それで大祭司やサドカイ派の人々は妬んだのです。そして自分たちが持っていた権力を使い、使徒たちを不当に逮捕し、投獄したのです。これは現代でもよくありそうな話です。

 次に19節から21節の一つ目の文までを読みます。

 神は天使を遣わして、牢から彼らを外に連れ出します。それは神殿の境内で、「命の言葉」を残らず民衆に告げるという使命のためでした。

 「いのちの言葉」とは、イエス・キリストの福音のことです。すなわち、神がその独り子イエス・キリストをこの世におくり、人間を罪から救い出し、永遠の命を与える…という福音は、私たちを本当の意味で「生かすもの」なのです。だから、「多くの人々に命を与えるために、ここから出て、福音を宣べ伝えなさい」と命じられ、さらに奇跡的な力をも与えておられるのです。

 私たちにも「福音を宣べ伝える」のに様々な困難があります。しかし!苦難が増す時、神は人間の計算に入らない助け手を用意されるのです。神によって平安のうちに守られ、どんな時でも福音を証しすることができることを覚えていましょう。

 続いて21節の2つ目の文から26節の一つ目の文までです。

 大祭司とその仲間は最高法院を招集し、使徒たちを牢から引き出そうとしましたが、下役たちは牢が「からっぽ」であることを発見します。しかし使徒たちは逃げ出すのではなく、主に従って境内で民衆に教えていたのです。そこで再び逮捕されます。

 皆さんは、ご自分が使徒の立場だったらどうするか…思い浮かべていただけないでしょうか?  私なら「もう逮捕されたくない。投獄されたくない。」そのような思いから、牢屋の外に出たら、一目散に遠くに逃げる…そのような気がします。いくら主の天使が「神殿に行きなさい」と命じたからといっても、それは聞けない。なぜなら迫害が怖いから…そんな風に思うのですが、皆さんはいかがでしょうか?

 それではなぜ、使徒たちは逃げず、しかも「夜明けから」「人の多く集まる神殿で」語ったのでしょうか?

 それは主イエスの十字架と復活の福音を宣べ伝えることは何よりも大切だと分かっていたからでしょう。 福音は受け入れるすべての人に命を与える「いのちのことばである!だから伝えるのだ!」…そのような揺るがぬ思いが見て取れます。

 つづいて26節の二つ目の文です。

 ここでは「恐れ」に注目しましょう。まず26節ですが、恐れていたのは「使徒たち」ではなく、使徒たちを逮捕する権力をもっていた「守衛長」なのです。彼が使徒たちに手荒なことをしなかったのは民衆への恐れがあったからだと教えられます。最初にお話しした通り、民衆は使徒たち、キリスト者たちを支持しはじめていたのです。そのことをユダヤ人指導者たちは妬んでいましたが、一方で「保身の思いから」民衆に恐れを感じていたのです。

 逆に使徒たちは「また逮捕されてしまう」などと恐れている様子は全くありません。堂々と「いのちのことば」を語る使徒たちと、「恐れている指導者たち」そのコントラストは、続く箇所でより明確に表されるのです。

 それでは残りの27~32節、議会での審問と使徒たちの答弁が記された箇所をみます。

 議長である大祭司は使徒たちに、「あの名」によって教えてはならないという禁令を破ったことで尋問します。大祭司は主イエスの名をさげすんでいますが、一方で「口に出す」ことを避けています。私は、大祭司が「人間の力を超える名を口にすることを恐れている」と理解します。

 これに対しペトロと他の使徒たちは「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と答えます。大祭司など、ペトロを取り調べているのは「宗教的指導者」の立場の人たちで、本当は誰よりも「神に従って」国を統治しなければいけない人たちのはずです。しかし彼らが神に従わず、彼が訴えている「使徒たち」の方が神に従っている…まさにあべこべの状態だったのです。

 28節の最後をご覧ください。「イエスの十字架について責任がない」などと言い分けしていますが…実際十字架の場面ではあれだけ群衆を扇動して「十字架にかけろ」と言わせておきながら、無責任極まりない態度なのです。

 「人に従わず神に従うこと」それを、信教の自由を覚える今朝の礼拝でとくに心に留めましょう。

 今回の聖書箇所の「イスラエルの宗教指導者たち」のように、権威を与えられた人が「神の御心にかなわないことを命じる」ことがあります。そんな時、私たちは真の権威者である神に従うために、あやまった権威者に従わないことが必要です。

 さらに、その続きでペトロや使徒たちが答えたことを意識して覚えておくことが大切だと考えます。それは「私たちすべての人間は同じ神のもとで生かされている!その神がすべての人が罪を悔い改め、救われることを望んでおられる」という意識です。

 人間が作り出した宗教は「ある民族は特別、ある血筋の人たちは特別」と教えることがあります。その結果人を階級付けし、ある人々を差別したり排除したりすることが起こります。しかし、キリスト者、クリスチャンはここでペトロたちが語っているように「全ての人が神の御子イエス・キリストによって罪から救われる必要がある。そして、すべての人間が神の前に平等だ」ということを信じます。だからこそ、そう考えられると困ると考える人々から「迫害される」ことが多いです。これは歴史上ずっと繰り返されてきたことですが、それでも私たちは屈してはならないのです。

 ペトロたちは言います。「神の御子イエスを十字架につけたにもかかわらず、あなたがた悔い改めと罪の赦しに導くために、御子を復活させられたのだ」と。神は天地創造から一貫した救いの歴史の中に、イエスの十字架を計画された。それは「すべての人間が罪から救われるためだ」 このように、裁判の場においても聖霊に導かれて堂々と「いのちのことば」を宣べ伝えたのです。

 今日の箇所の後を見ると、使徒たちは鞭で打たれ、宣教を禁じられたにもかかわらず福音を告げ知らせた様子が分かります。彼らは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜びつつ福音を伝えたのです。私たちはどうでしょうか?本当に神に従っているでしょうか?権力者など「人に従っている」ところはないでしょうか? 自分を顧みつつ、今回の箇所の使徒たちの言動を思い返しましょう。