「人に見せるための信仰ではなく」2/17説教 隅野瞳牧師

 

2月17日説教
「人に見せるための信仰ではなく」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書  ルカによる福音書11:37~44

 主イエスはあるファリサイ派の人の家へ食事に招かれましたが、言い伝えに従って清めをされませんでした。そして、あなたたちは杯や皿の外側はきれいにしても、自分の内側は強欲と悪意に満ちていると言われたのです。彼らは収入の十分の一をわずかな野菜に至るまでささげていましたが、レビ人に代表される弱い立場にある人を守るという、この戒めの本質(正義の実行と神への愛)を見失っていました。私たちが行う信仰の業も、プログラムを消化することではなく命が第一です。献げ物は感謝をもって分に応じて献げ、全てを献げることもできるのです。
主は言われます。「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」自らの内には誰かにさしあげられる良いものなどなく、罪の汚さしかありません。しかしこんな自分のために主が十字架にかかられたことを知る時、主の愛と赦しが私たちのうちに満たされます。私たちが人に与えることができるのは、主の愛、福音です。神を知らない時、私たちはファリサイ派の人のように自分を人よりもよく見せて満足しようとしますが、神の愛に満たされる時に、神に栄光を帰し、僕となって従うことが喜びとなります。私自身ではなく、私という器に神の救いと愛を盛りつけて、隣の人に差しだす者となるのです。
また律法の専門家たちは律法の膨大な細則を教えましたが、民衆にとってそれは実行不可能の重荷でした。しかし主は重荷を負う者を休ませる方(マタイ11:28)として来られました。御言葉は主の十字架を通して聞くならば、真の安らぎを与えます。聖書を読むことも礼拝を守ることも「ねばならない」ではなく、まず恵みがあって、応答として御言葉に従います。人をさばくために聖書を適用するのではなく、自分への御言葉として受け止め、人が御言葉に従えるよう支えることが大切です。
 神の国の奥義に与った私たちもまた、この福音に生きる者として、主の御言葉に吟味され練り清められます。隣人の魂をゆだねられる者は労も多いですが、神と自分との間だけで完結していた信仰生活とは段違いの神の御業を拝し、祝福を受けます。私たちには日々多くのなすべきことがありますが、主の呼びかけを心の底で受け止め、神と人への愛という、最も大切な一つのことに心を向けてまいりましょう。