「僕のなすべき務め」6/21 隅野瞳牧師

  6月21説教 ・聖霊降臨節第4主日礼拝
「僕のなすべき務め」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書17:1~10

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 本日の箇所では、教会を建てあげる主の僕のあり方について記されています。3つの点に目を留めて御言葉にあずかりましょう。

  1.小さな者の信仰を支え、悔い改める者を何度でも赦す。(4節)

  2.神は私たちの小さな信仰を通して、大きなみ業をなしてくださる。(6節)
  3.赦された僕として、恵みの内に主に仕える。(10節) 

 今日の御言葉は弟子たちに対して語られていますが、5節には「使徒たち」という言葉が出てきます。使徒とは「遣わされた者」という意味で、復活の主イエスに遣わされて福音を宣べ伝え初代教会の基礎とされた弟子たちに対して用いられる言葉です。ルカは「わたしどもの信仰を増してください」という弟子たちの願いに、後の教会の使徒たち、また彼らの指導の下に主を信じて世に遣わされた代々の教会を重ね合わせています。私たち教会に語られた主の御言葉に聴きましょう。

1.小さな者の信仰を支え、悔い改める者を何度でも赦す。(4節) 

 最初の問題はつまずきについてです。「○○さんにつまずいた」と言ったり言われたりしたことがありますか。「○○さん」に原因がないとはいえませんが、自分の価値基準で「クリスチャンは、教会はこうあるべきだ」と人を見て判断する人自身にも、つまずきの大きな原因があります。しかしここでの「つまずき」とはもっと深刻で、ある人を罪に誘い信仰を捨てさせる原因となるもののことです。神を信じ、喜んで神に仕えて生きる、それができないようにしてしまう働きです。

 私たちには弱さがあり、罪の力が働くこの世で生きている以上、信仰の歩みが妨げられることは必ず起こります。しかし主は、小さい者の一人をつまずかせる者は不幸であると警告されます。そのような者はひき臼を首にかけられて海に投げ込まれるほうがましである、それほどに主は小さい者たちの信仰を重いものと考えておられます。「小さい者」とはまだ信仰に入ったばかりで、堅い信仰に立っていない人のことです。よちよち歩きの赤ちゃんのような、希望にあふれながらも危うい歩みの人々をつまずかせてしまうのは、成熟したクリスチャンであると自負している人ではないでしょうか。信仰者たるものこうでなければならないと言って、過去の習慣が抜けなかったり、自分と違う角度で主に従っている人を批判し、傷つけてしまうことがあるのです(ローマ14章)。しかし一人ひとりが主につながるあり方は違っていいのです。本当に成熟したクリスチャンとは、後で語られますが、自分が僕(しもべ)であることをわきまえ、また兄弟姉妹の一人一人が自分と同じ主の僕であることを尊び、共に歩む者です。

 次に赦しについて語られています。信仰の兄弟姉妹の間で起こる罪を戒め、悔い改めを求めるよう主はお命じになっています。見て見ぬふりをして表面的に仲良しに見える交わりを築いても、それは教会として愛し合うことにはならないのです。しかし兄弟の罪を戒める時に忘れてはならないのは、「悔い改めれば、赦してやりなさい」ということです。戒めるのは赦すため、本当の交わりを回復するためです。この目的を見失って、ただ罪を責め、断罪することだけになってしまってはなりません。

 主はさらに、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言われました。これはマタイ18:21以下で「七の七十倍までも赦しなさい」と語られたことと同じで、兄弟の罪をどこまでも赦しなさいということです。そのような赦しの思いの中でこそ、本当に相手の罪を戒めることができるのです。戒めることと赦すことの両方がしっかりとなされるような関係を、信仰に生きる兄弟姉妹の間で築くことを主は求めておられます。それがどちらかだけになってしまうならば、兄弟姉妹をつまずかせることになります。自分を傷つけたり迷惑をかけたり、損害を与えたりする人がいても、その人が自分の罪に気づいて悔い改めるなら、何度でも赦しなさい。赦すという心を失わずにいなさい。それが、教会における信仰の兄弟姉妹の関係なのです。

 

2.神は私たちの小さな信仰を通して、大きなみ業をなしてくださる。(6節)

 小さく弱い者をつまずかせてはならない、罪を犯した兄弟をどこまでも赦す思いをもって戒めなさい…。主のお言葉を聞いた弟子たちは、「わたしどもの信仰を増してください」と主イエスに願いました。教会の始まりにおいて使徒たちは、多くの「福音の新生児たち」を育てていくことになります。律法が自分の一部となっているユダヤ人クリスチャンも、まったく聖書のベースがなく異教の風習の中で生きている異邦人クリスチャンも、どちらも「小さい者」です。まったく違うそれらの人々が同じ主を礼拝していく中で、つまずきは避けられなかったことでしょう。また人を一回赦すことも難しいのに、一日に七回も赦せるはずがありません。それでも主がそうせよとおっしゃるならば、信仰を増していただく以外にない。弟子たちはそう考えたのだと思います。弟子たちの願いに主イエスはこうお答えになりました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても言うことを聞くであろう」(6節)。

 ここで言う桑の木とはパレスチナ地方でよく見かけるイチジク桑のことで、樹齢は数百年と言われ、根が広く深く張ることで知られています。そんな木でさえも、からし種一粒ほどの信仰があれば動かせると主イエスは言うのです。「抜け出して」「根を下ろせ」は両方とも受け身形です。つまり私たちの信仰のすばらしさによって桑の木の根が抜けて海に根を下ろすのではなく、神が桑の木を動かすのです

 「からし種」は粉のように小さな粒です。少し種類が違うようですが、粒マスタードをイメージしてみてください。ここで主が言おうとしておられるのは、信仰は強いか弱いかとか、その量がどれだけ増し加えられるかというものではない、ということです。信仰は「ある」か「ない」かのどちらかなのです。

 信仰は限られた人だけの性質ではなく、神の賜物としてすべての人に与えられます。信仰にはいくつかの側面があります。神のみわざをもたらす管、実現するまで祈り続ける力。今はまだ見えない神の未来の約束を、すでに得たと確認すること。そして十字架で死なれ復活された主イエスを救い主と信じ、永遠の命にあずかる信仰です。そして真の信仰は、ひとりよがりで終わりません。

 クリスチャンになるというのは僕になるということです。主イエスを信じてはいるけれども僕になってはいないということはあり得ません。信仰が「ある」とは、自分は主の僕、主に仕える者であるとわきまえて生きることです。それは必然的に、キリストの命に結ばれた兄弟姉妹と共に歩む信仰でもあります。主が私たちを用いて、神の国全体のため隣人のために御業を行ってくださるように。私たちは教会全体で、小さくても生きた信仰を持つように主に求めましょう。一日に七回赦すことは、桑の木を動かすよりも難しいことです。赦し続けることは、人間には不可能です。しかし小さくても本物の信仰があれば神の命がその信仰を通して働き、かたくなで人を赦せない私たちの心を動かすのです。

 

3.赦された僕として、恵みの内に主に仕える。(10節)

 からし種一粒ほどの信仰、生きた信仰者とは何でしょうか?それが7節以下に語られます。ここでは、当時の主人と僕の関係が語られています。畑仕事から帰って来た僕は、休む間もなく主人の食事の世話を命じられますが、主人は感謝するわけではありません。僕も主人の感謝や報いを求めるようなことはしません。それと同じようにあなたがたも、神に命じられたことを果たしたら、「わたしどもは取りに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言いなさいと、主は教えられます。聖書の至るところに「僕」の語を用いた比喩があるということは、それだけ当時の社会に身近な存在だったということです。

 この僕はきちんとやるべきことをしています。主人にとって役に立つ僕で、決して無益ではありません。しかし僕とは奴隷、主人に買われて財産とされたものです。主人のものである、主人が命じたという理由だけで働くのであって、これだけ働いたらこれだけ報酬をもらうということを約束はされません。

 主が命じられたしなければならないこととは何でしょうか。僕の責任範囲、ゆだねられた業とはどこまででしょうか。造られたすべての者に福音を伝え弟子とすることを始めとして、神は聖書を通してクリスチャンの使命を定めてくださっています。また一人ひとりに違った召命が与えられています。今与えられている仕事を大切になし、ゆだねられている家族や友人を愛すること。世界で一人しかいない私として与えられたこの世の命を生ききることは、大切な使命です。聖書には私たちが生きる意味、その使命が多く記されていますが、根本は神と自分を含めた人を、どこまでも無限に愛するために生きるということです(ルカ10:25~37)。「この人だけ」「ここまで」と愛する範囲を設けるのではないのです。

 こんなに傷つけられても赦すのは大変なことだから、神に少しは喜んで、ほめていただきたい。そんな気持になるかも知れません。しかし10節の「しなければならいないことをしただけです」という言葉は、「行う義務があることを行った・負っている負債を返しただけです」と訳すことができます。それは先ほど引用しましたマタイ18章21節以下のたとえと関連があるのです。

 ある王の家来(私たち)は王(神)に対して、一生かけても返済できない莫大な借金(罪)がありました。しかしどうか返済を待ってくださいと哀願する(悔い改める)姿を見て、神はすべての借金を帳消しにしてくださいました。さて赦された家来が外に出ると自分に借金をしている仲間に出会ったので、すぐ借金の返済を迫ります。待ってくれと頼む仲間の言葉を受け入れず、彼は借金を返すまで仲間を牢に投げ込みました。王が帳消しにしてくれた借金に比べればほんのわずかの借金でしたが、家来は自分への借金を赦すことができませんでした。

 これは神に赦された恵みをすぐに忘れ、自分への罪はいつまでも許さない私たちの姿そのものです。人を赦し続けること。それは、自分が神さまから莫大な罪の負債を赦されて、愛されて、生かされて、今こうして生きているということを知る者が持つことのできる心です。だから人を赦すことは、「しなければならないことをしただけ」であり、誇るべきことではないのです。

 私たちが何気なく口にする「主」という言葉は、私が「僕」であるということをも告白する深い意味を持っています。イエスを主とするということは、私たちは主イエスの所有であるということです。主イエスの言われる通りに生き仕えるということです。救いのことを「贖(あがな)い」とも表しますが、それは買い戻されたということです。私たちはかつて罪の支配下にありましたが、御子が十字架にささげてくださったその命によって神のもとに買い戻され、真の自由に生きる者とされました。 

 主イエスを信じて主の僕とされる、神の命じられることに従っていくということに、抵抗がある方もおられるかもしれません。しかしそれは、欠けを持ちつつ上に立つ者、親や教師、上司や為政者などと神を混同しています。私たちを救うために御子の命までお与えになる神が、人としての喜びを奪うような形で、私たちを僕にされるはずがありません。自然を見れば、神の御言葉とその法則に従ってその造られた目的を果たしています。それは決して一律に生きるように自由を奪われているのではなく、限りなく自由にその命を輝かせ、すべてのものが調和し、神の栄光を現しています。ひたすらに御心に従って生きる姿に、私たちは希望や癒しをいただき、ある時には神の大きさと自らの小ささをを知らされます。誰と比較することもなく、それぞれが自分の与えられた命、その使命を生きています。

 人間以外の被造物は自由意志がないから、簡単に主に従えるのでしょうと思われるかもしれません。そこで私たちは、神でありながら人となられた主イエスがどうであったかを思い出しましょう。救い主イエスはイザヤ書では受難を通して救いを実現する主の僕として預言されています。主イエスはただ御父から聞いたことを語り、行われ、十字架の死に至るまで徹底的に御父に従われました。そのお姿は、有無を言わさず神の命令に従わされているというものとは真逆で、主イエスほど御父と祈りによって語り合う方はおられませんでした。何をなさるにもとにかく祈り、御心を問い、力を受けて進んで行かれました。十字架の直前には全人格をかけて祈り、最終的に御心のままになることをお選びになりました。主の僕のあり方を、主イエスは指し示してくださいました。御子が御父に従い抜かれたことによってすべての人のための救いが実現し、私たちは永遠の命に生きることを許されました。それを御子は心から満足されました。私たちが僕として主に従っていく時、私たちの歩みもどなたかを生かすために用いられるのです。

 私たちは搾取され隷属する僕とされたのではありません。むしろ主人である神のほうが、すべてをくださったのです。少し前にルカ15章で放蕩息子のたとえを聞きましたが、兄弟二人ともが、神の恵みの中で生かされながらも気づかない私たちを現しています。これは自分の権利として与えられるべきだ。なんでこんなことをしなければならないのか。こんなにしても報いられない。不自由だ…。自らを省みます時に、主の命じられたことをすべて行ったとは到底言えませんし、表面上はこなすことができたとしても、不平不満ばかりであったことを悔い改めるものです。

 「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。…すべての人に対してすべての者になりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(Ⅰコリント9:19,22~23)

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13) 

 私たちの命も、仕事も、愛する人たちも。生きていくのに必要なすべてのものも。そして信仰も、救いも、賜物も愛も。私たちはすべてのものを、すでに与えられ満たされています。日に7度をはるかに超える罪を犯す私たちを、神は赦し続けてくださっているのです。この恵みに感謝し、神と人に喜んで仕えることを選び取る僕の群でありますよう祈ってまいりましょう。

 

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