「光である神を証しする」5/9隅野徹牧師

  5月9日説教 ・復活節第6主日礼拝・母の日
「光である神を証しする」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:4~9、15

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 先週の礼拝から、ヨハネによる福音書を主日礼拝で続けて読みます。先週はお話しできなかった、「ヨハネによる福音書」が書かれることになった背景について、簡単にお話しすることにします。

ヨハネによる福音書は、他の3つの福音書が書かれた後に書かれたものです。ペテロやパウロなどの活躍により、教会が成長し、キリストの教えも文書化されて広まりました。3つの共観福音書によって「イエス・キリストに関する証言」も文書になって、読み広げられていました。

しかし、この当時、ギリシャ哲学が隆盛を誇っていました。ギリシャ哲学では「人間の肉体」を汚れたものとして考え、逆に「知恵」を尊いものとして考えていました。だから、「神が肉体をもった姿で、この世に来られた」というキリスト教の考え方を軽蔑し、最初から拒絶する、ということが多かったのです。

そのような状況で、ヨハネによる福音書の著者「ヨハネ」は、「神は本当に、その独り子を、肉体をもった人間としてこの世に送られたのだ」ということを証しすることを神から示されたのです。そして書かれたのが、このヨハネによる福音書なのです。

今「神の子がどういう方なのか証しする」ために、この書は書かれたということをお伝えしましたが、「神の子キリストの証し」ということは今日の箇所に何回か出てきます。説教題にも着けさせていただきました。

聖書は、イエス・キリストをどんな方として証ししているのか、つまり「証言しているのか」ぜひ私達も、深く味わいましょう。

初めに先週とりあげたヨハネによる福音書の最初の「書き出し」の部分1:1~4節の一つ目の文までをおさらいしましょう。簡単に追ってみてください。

この部分では「キリスト」を「ことば」、もとのギリシャ語で「ロゴス」と表し、「初めにあった言は、神と共にあり、それ自身が神であった」ということを教えていました。そして3節「言」であるイエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたと教えられています。             

これは「イエス・キリストがまことの神であられることを示している」だけに止まりません。

神が「この世界と私たち人間をどのような心によって造って下さったのか」それが「言による創造」という表現を通して豊かに表されているのです。

神は私たちに「言」を通して語りかけ、私たちとの交わりを持とうとして「世界と私たちを創造して下さった」のです。無意味に造られたのではないし、この世界と私たちを心から愛して下さっているということです。この世界と私たち一人ひとりは、まさに「神の愛によって形づくられている」のです。

「この世のものは全て神の愛によって造られている。神の愛を受けて存在していないものは何一つない」こと、そして「言であるイエス・キリストこそが、私たちの人生を根底において支えている存在なのだ」ということ。それをヨハネ福音書は冒頭で私達に語りかけられている、ということを先週お話ししました。

今週はその続きです。4節の二つ目の文からです。共に御言葉に聴いてまいりましょう。

それでは4節の2つ目の文と5節を読んでみます。

はじめからおられた創造主である「言」キリストが「暗闇を照らす光である」ということが語られます。

光は、神が天地創造のみ業において最初にお造りになったものであり、この世界が存在し、人間が生きるために神が与えて下さった第一のものであります。言であるキリストの創造は、まさに「光が輝くこと」からはじまっているのです。

この光が「人間を照らす光」だと言われていることは大事です。つまり、光はただ単に「明るさをもたらすもの」として描かれているのではなく、「暗闇にいる私たち人間に対する神の愛の表れ」として描かれていることがポイントです。

そしてもう一つ大事なのは「光は暗闇の中で輝いていた」ではなく「輝いている」と現在進行形で書かれていることです。言である光は、天地創造の時に輝いて終わったのではありません。光は「今、現在も!」暗闇の中で輝いているのです。神の愛が今、私たちに注がれ、私たちを生かしている!そのことを教え示しているのです。

一方でこれらは「私たちの人生に今、現実として、暗闇がある」ということを逆説的に表すものでもあるのです。その暗闇をもたらしているのは何かというと、それは私たちの罪です。

神はこの世を創造された時からずっと私たちに語りかけておられ、御心を示して下さっています。しかし、私たちはその「神の語りかけ・神の御心」をきちんと受け止めてこなかった…そのように聖書は教えます。

昼の祈祷会でよく使われる表現ですが「神なしに生きようとする」そして「神なしに生きることができると思いこむ」それが私たちの根本的な罪なのです。そして私たちは「暗闇」の中をさまようことが多いのです。  

私たちの人生の様々な問題、その多くは「互いに愛し合うことができずに、傷つけ合ってしまう私たちの罪や弱さ」によって生じていることです。それらの具体的問題の根源にあるのは、私たちが「神との交わりに生きていない、神と共に生きようとしていない」ということです。神の言葉を聞くことを失ってしまったことによって、私たちは暗闇に陥っているのです。

罪によって私たちは神の光を見失い、暗闇に陥ってその中を生きているのです。しかし!私たちが自ら作り出した暗闇の中に、神がご自身の愛の光を輝かせて下さっているのです。

5節の後半には、「暗闇は光を理解しなかった」とあります。ここは以前の口語訳聖書では、「やみはこれに勝たなかった」となっていました。理解する、悟る、とも訳せるし、打ち勝つ、勝利する、とも訳せる言葉が用いられているのです。理解するとは、「あることを自分のものにする」という意味で取れますので、その点では「理解する」と「勝つ」はつながるのです。

いずれにしてもここには、光と暗闇との戦いが描かれているのです。今、この世界と私たちの人生に暗闇の現実がある。しかしそこに神の愛による光が輝いて、暗闇を打ち払い、私たちに命を与えて下さるのです。

光が輝く時、闇はもはやその光を消すことはできません。光が輝けば闇はもはや闇ではなくなるのです。光は闇に勝つけれども、闇は光に勝つことはできないのです。

「人間を照らす光が、暗闇の中に輝いている…」、それは神の独り子イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、この地上を生きて下さったことの証し・証言なのです。

神に逆らい、神の言葉を受け入れない私達人間と「共に生きて下さり」、その後、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。父なる神はキリストを復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。

このようにして、神の愛が、人間の罪と死とに勝利したのです。

ヨハネによる福音書は、冒頭からこのように語ることで「この書を読む者たちに」神の言にして「人間を罪から救う光」であるイエス・キリストについて証ししています。

最後に「神の独り子イエス・キリストがどんなお方なのか」、命を懸けて証しした「洗礼者ヨハネ」またの名で「バプテスマのヨハネ」について書かれた言葉に注目して、メッセージを閉じることにします。

6~9節、そして飛びますが15節を読みます。

ここには洗礼者ヨハネが、神から遣わされたこと、そしてその遣わされた目的は「光であるイエス・キリストを証しするため」そして「すべての人が光であるイエス・キリストを信じて闇から救われるためだ」と教えられます。

洗礼者ヨハネは、旧約時代の「最後の預言者だ」と言われ、旧約と新約の橋渡しをした人です。言葉と業に力をもち、多くの人から尊敬された洗礼者ヨハネ。しかし!多くの人の心を打ったその言葉や業も、すべては「神の子、キリストを証しするものだった」ことが教えられます。

声を張り上げてまで証ししたのは、多くの人が暗闇から光に移されて、罪から救われる!ただそのためだったのです。

私達も今一度「神の子キリストがどんなお方としてこの世に来られたのか」、聖書の証し・証言に耳を傾けましょう。ギリシャ哲学が隆盛を誇った時代、キリストの受肉という考えが「馬鹿にされた」そんな時代にあって、「神の独り子が、私達と同じ人間となってこの世に来てくださり、私達と共にいてくださった。そして私達を罪から救い出して下さったのだ」ということを「熱く!」証しした、その言葉を今一度深く味わいましょう。

そして、私達も「キリストがどんなお方なのかを証し」してまいりましょう。

科学やデータがもてはやされる現代ではありますが、私達一人ひとりを通して「神の独り子イエス・キリスト」による目には見えない「救いの業」が証しされることを心から願っています。  (祈り・黙想)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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