「共に、神の時に備えていこう」7/12 隅野徹牧師

  7月12説教 ・聖霊降臨節第7主日礼拝
「共に、神の時に備えていこう」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書17:20~37

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今回の聖書箇所は、ファリサイ派の人々がした「神の国はいつ来るのか?」という問いにイエスがお答えになり、それに引き続いて「弟子たちに」大切なことを教えられる箇所です。

 この頃、イスラエルの人々の間で「世の終わりに神の国が来ること」そして「悪人が懲らしめられ、善人に至福が与えられる」と信じられていたのです。その「神の国が来る世の終わりは何時なのか」ということも積極的に議論されていたのでした。

 また、この頃はたくさんの災害や、疫病の流行、そして新しい政治的指導者の台頭などが起きたため、「世の終わりの兆候ではないか…」と騒がれることも多かったようです。

 それでファリサイ派の人々は、イエスに対し「何時なのか?」と質問をしたのです。

 私たちが生きるこの世も、疫病が大流行し、つい先日も自然災害が起きて多くの方が亡くなりました。世界情勢も不安定なこの時、「世界の終わりがもうすぐ来る」と騒ぐ人たちが出始めました。

 私たちは今の世にあって何を大切に生きて行けばよいのか…その教えが今日の箇所にあります。御言葉を味わいましょう。

 先程今日の聖書箇所の場面背景をお話ししました。イエスのファリサイ派の人々への答えが20節と21節、そして一歩踏み込んだ大切な教えを弟子になさった場面が22節から37節です。まず22節から37節の部分から学んでまいりましょう。

 ここで教えられているのは「終わりの時」についての教えです。22節に「人の子の日」と表され、節、30節では「人の子が現れるとき、日」と表されていることから分かるように「イエス・キリストの再臨の日、審判の行われる日」についての大切な教えがなされているのです。

 教えの結論を先にいうと、「再臨の日、審判の日がいつであるとか、騒ぐのではなく、正しく備えるように」ということです。

 再臨、審判と言われてもピンとこない。なんだかおどろおどろしくて嫌だという方もおられるでしょう。しかし、私たちのこの地上の命には必ず「終わりの時」が来ることは確かなことです。再臨の時、すでにこの世の命を終えていても、反対に生きたまま再臨の時を迎えるにしても、「神、キリストに会いまみえる時」という意味では同じなのです。そして「神の審判を受ける時が来る」ということは、どの時代に生きていようと、どの人にも訪れるのです。 ですので…個人的な終末である「この世での死に備える教え」としても大切に聞いていただきたいと願います。

 22節から37節でイエスが教えられた「終わりの時に対しての正しい備え方」には、大きく分けて5つの教えがあると私は理解しています。

 一つ目は22~25節です。(ここを簡単に目で追って見て下さい)

 ここでは、周りに「世の終わりがくる、キリストが再臨する」と騒ぎ立てる人がいても、あたふたしないようにとの教えがなされています。

 終わりの時も、そしてキリストの再臨も「まるで夜空が稲光に照らされ て、突然明るくなるように」瞬間的に、明白に訪れるということが教えられるのです。

 その「時」がいつなのか、人間はだれも知ることはできません。しかし、人間という生き物はどうしても「神様の領域」に踏み込もうとし、何時だかわかるはずもないことを「いつだ」と確定したがるものです。少し前に「ノストラダムスの大予言」が騒がれ、たくさんの関連本が売れたのも、そうした人間の本質が現れていると考えられます。

 そして、イエスが「神の子として数々の奇跡や癒しをなさったこと」も、当時の人々に「世の終わりの兆候」だと騒がれたようです。それで25節の言葉を言われたのです。

 イエス・キリストが再臨され、審判がなされる「その終末の時」は、ご自身がまず十字架の苦しみを負われた後だということをはっきりと伝えられているのです。まず慌てずに「私たちを救うために、愛の故に十字架に架かってくださった主イエスを覚え、賛美し続ける」ことを大切にしましょう。

 二つ目は26~30節です。 

 ここでは、先ほどとは反対に、終わりの時に対してあまりにも無頓着な生き方に対してイエスは注意を与えておられるのです。(26~30節を簡単に目で追って見て下さい)

 ここでは旧約聖書創世記に出る二つの出来事が例に話されます。それが「ノアの箱舟の物語」と「ソドムの滅亡」の話です。いずれも、度を越すほどに満ち溢れた悪に対する神の裁きとして語られた物語です。

 しかし注目すべきことがあります。それは今回の箇所でイエスが「具体的な悪行に触れておられないこと」です。「食べたり飲んだり」とか「めとったり嫁いだり」とか「買ったり売ったり」とか「植えたり建てたり」とか…それ自体は悪くない行いをイエスは挙げておられます。

 このことを通してイエスが教えておられること、それは「特別な悪業をしなくても、日常生活に没頭し、神を忘れて生きてはいけないということです。  

 終わりに備えて生きていくために、絶対に抜かしてはいけないのは「神を覚え続ける」ということなのです。私たちが今持っている「礼拝」を通して神を覚え続けましょう。

 つづいて三つ目の教えです。これは31~33節、(ここを簡単に目で追って見て下さい)

 ここでは貪欲をさけて生きることの大切が教えられています。創世記19章の内容が例に出されます。それはロトの妻が命の救いよりも財産に目を向けたために命を落としたという話です。

 私たちも天での永遠の命を祈り求めるよりも、この世での財産に目を奪われることは多いです。しかし、この世での財産は永遠に所有することはできません。今は預けられているに過ぎないのですから、永遠に変わることのないものを追い求める生活を日ごろからするようにとの教えです。厳しいですが、このイエスの教えを心に刻みましょう。

 四つ目の教えが34~35節です。(ここも目で追って見て下さい)

 ここで何が教えられているのかというと、一緒の寝室に寝たり、一緒に力を合わせて粉を挽くような友人であっても、また家族であっても、一人ひとりが個人として審判を受けることになる、ということです。

 自分が信仰者で立派にやっているから、家族や友人は神の審判のときに甘く見てもらえるだろう…という考え方は通用しない、という非常に厳しい教えです。自分も身の回りの一人ひとりも、神の前にどう生きたかが問われます。悔い改めと、救い主イエス・キリストを信じて新たに生きることの必要性を証しし続けたいと願います。

 最後の五つ目の教えは37節です。

「死体にハゲタカ」という不気味なことが言われています。ここで教えられることは「悪、罪に対する神の審判の確かさ」です。

 死体にはハゲタカが必ず近づくように、私たちの犯した罪がそのまま放置されることは絶対にないということです。先ほどと繰り返しになりますが、罪の悔い改めと、救い主イエス・キリストを信じて新たに生きることの必要性を自分自身でもう一度心に留め、そして周囲に証しし続けたいと願います。

 以上、22~37節の「イエスの教えのほぼそのままを」お伝えしました。終わりの時が「この先」いつ来ても良い様に神にあって備えることが教えられました。

 しかし、終わりの時に向けてよい人間でいなければいけない…と必要以上に恐れたり、肩に力を入れる必要はないのです。なぜなら、「終わりの時に完成される神の国、神の支配」はもう来ているからです。

 そのことが書かれている20節と21節を味わってメッセージを閉じます。

 (※2つの節をよみます)

 この部分のイエスの言葉で分かること、それは「神の国、神のご支配は肉眼に見える形ででは来ない」ということです。しかし、一方目に見えない形では「すでに来ている」ということです。どこに来ているかというと「私たちの間、つまり心の中」に来ている、というのです。

 完成はしていない。でもイエス・キリストによる神の愛のご支配はすでに始まっている…そうおっしゃっています。同じような教えは新約聖書の至る所にあります。

 すでに神はその独り子、イエス・キリストをこの世に送り愛を示して下さいました。そして御子を十字架にかけて殺し、私たちの罪を清算してくださっただけでなく、復活させて「天国への道」を開いて下さったのです。

 その神のご支配を受け入れ、神を礼拝する場が教会なのです。

 教会には欠けがあります。弱さもあります。しかしここは神の愛の支配が満ちている場所なのです。キリストの体であるこの教会につながり続け、個人的な面においても社会的な面においても「すべてのことを神がご支配しておられる」ことを確認しつつ歩むなら、終わりの時は恐ろしいものではなくなります。ただ素直に自分の罪、弱さを神の前に認め、救い主であるキリストのご支配に自分自身を平安に委ねる、それを共に確かめ合う場所が教会なのです。

 終末や再臨を過度に強調する人たちは、新型コロナウイルス感染拡大や、自然災害の多発を「神の国が到来する前の、悪いことが起きる兆候」のように教え、恐怖心をあおっています。しかし私はその考えに同意しません。

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、不自由な思いをしながら、マスクを着用しながらも御前に集い共に礼拝を守ろうとされる「皆さんの心の中に、神の国は来ている。神の愛のご支配はすでに始まっている」と思うのです。

 そして、自然災害が起きる度に、祈って支えよう、何か助けようと模索する、その人々の心の中にキリストのご支配があると確信いたします。

 どうぞこの先も、教会全体で「神・キリストの愛のご支配」に身を委ねてまいりましょう。そのことで「来るべき時」にも平安のうちに備えることができると信じています。(祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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