「十字架によって敵意は滅ぼされた」4/5 隅野徹牧師

  4月5説教 ・受難節第6主日礼拝
「十字架によって敵意は滅ぼされた」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:エフェソの信徒への手紙2:11~22

 

 今日は受難週最後の「棕櫚の主日」です。

 教会の暦で受難節に入ってから、私は示されて「エフェソの信徒への手紙2章から」語らせていただき、「イエス・キリストの十字架の死を通して私たちに何が与えられたのか」、そのことを御言葉から聞いてきました。

 一つ目はエフェソ2章1~5節です。ここではキリストの十字架の死によって「命が与えられた」ことが教えられます。過ちと罪のために霊的に死んでいた私達が、キリストの贖いのゆえに「生かしてくださった」のです。

 二つ目は6~7節です。ここではキリストの十字架の死によって「この世を去った後もつことができる、永遠の希望が与えられた」ことが教えられます。罪が赦されるだけでもすごいことですが、私達はこの世での命を終えた後も「キリスト共に復活し、天の王座に着かせていただける」のです。

 三つ目は先週読んだ8~10節です。ここではキリストの十字架の死によって「私達を善い業を行う者にして下さった」ことが教えられました。最終回の今回は11~18節から御言葉に聴きます。ここでは「キリストの十字架の死によって、私達は、心の壁がある人に対しての平和が与えられる」ことが教えられます。

 私は個人的に「今年、2020年の受難週にあたり神が特別に与えて下さった聖書の言葉」だと感じています。ご一緒に深く、御言葉を味わいましょう。

 今回の箇所には、キリストの十字架の死、犠牲を思い起こさせる2つの言葉が出ます。13節に「キリストの血によって」という言葉が出ます。そして14節に「ご自分の肉によって」という言葉が出ます。聖餐式でいただくパンとぶどう液は、式文にもあるとおり「キリストの血と肉」を象徴するものです。

 ではこのキリストの犠牲によって私達に何がもたらされるのかというと、敵対しているもの同士の「平和」だと教えられます。

 この箇所では、敵対している者として「イスラエルの民、つまりユダヤ人」と「異邦人」のことが語られます。

 よくご存知の方も多いでしょうがユダヤ人とは、創世記で登場するアブラハムの子孫を中心とする共同体です。出エジプト記では、このユダヤ人たちモーセを通して神から「律法を授かった」のです。しかし時が経過し、律法は形骸化してしまいました。

 そして15節にあるように、「規則と戒律でがんじがらめ」にしてしまったのです。実際には「律法」を守れなかったにもかかわらず、「規則を守らない人々を」「神のみこころを行えない罪人」として断罪しました。つまりユダヤ人は他の民族を「汚れた人たち」として蔑む一方で、自分たちは神の民だとして優越感に浸っていたのです。

 一方の異邦人とは、ユダヤ人以外の人たちのことを指します。つまり律法を知らず、割礼も受けていない「神を知らない人達」です。12節にあるように、神の掟を知ることもないですし、神をと共に歩み、永遠の命を得るという希望も知らないわけです。

 ユダヤ人と異邦人。それは「あることがなければ」永遠に交わることがなかったでしょう。生き方も価値観も全く違うのです。ただ、共通していることは両方に「罪があったこと」「創造主である神の前に赦していただく必要があったということ」です。

 交わることなく、敵対し合う罪人同士…。その姿は当時のユダヤ人と異邦人の関係だけでなく、現在私達の身の回りにもある…そのように私は感じました。

 新型コロナウイルス感染の影響で、私達のまわりにあった「敵意」「差別」「心の隔て」といったものが露わになったのではないでしょうか?

 たとえば「あの人たちとは考え方が違う」と思うことは増えているのではないでしょうか?もっとはっきり言葉に表しますが…「誰々が悪い!」とか、「何処どこの人は私の周りに近寄るな!」とか思うこと、最近増えてはないでしょうか?

 私も最近の祈りで気づかされることがあります。 それまで祈っていた「諸外国など離れた友、兄弟姉妹」のために祈れていないのです。気づけば身近な人のことばかりを祈っています。非常事態の今「仕方ないこと」として割り切らなければならないところもありますが、でも「心の中に隔ての壁がある」ことを痛感します。

 すべての人が神の作品であり、神が愛された大切な命である…そのことを理解していても、心の中で壁を作ってしまう人がいる…。隣人を愛することのできない、弱い私達の姿に気づかされることが多くないでしょうか?

 隣人愛がなく、多くの人に対して心の壁を築いている私達…本当に罪の深さを感じますが、一体どうすれば「本当の意味で隣人を愛せる人になれる」のでしょうか?

 それは…「救い主」の力を借りる以外にないのです。 14節前半に「キリストは私達の平和です」とある通りです。 

 罪深く、隣人を愛せない私達に平和をもたらすのは「わたしたちも、あの人たちも、全ての人々を愛し、身代わりとなって死なれたキリスト」の罪の赦しの業である。そのことを深く心に留めましょう。

 残りの時間、14節~18節から、「キリストの死が私達に平和をもたらす」ことについて詳しく掘り下げます。 14節二つ目の文から18節までをゆっくりお読みします。

 大切なポイントを3つお分かちします。

 一つ目は14節の二つ目の文から、15節の一つ目の部分。キリストの死は、対立する人の「隔ての壁」を打ち壊すのだということです。

 15節の最初の言葉は、新共同訳の訳し方では誤解を生む可能性があると思います。今水曜日の聖研祈祷会でよく確認しているのですが、律法はイエス・キリストが十字架で死なれ、復活したことで「無くなった」のではありません。むしろキリストによって「律法は完成され、意味が捉えなおされた」のです。ある先生は「廃棄される」ではなく「無効にされる」と訳されていますが、そちらの方が意味が通じると思います。

 律法の細かい規定にしばられていたユダヤ人は、規定のない異邦人と交わることを極端に嫌いました。それは自分たちが「神の前で汚れる」と思ったからです。神を礼拝する場である神殿でも、中心部分には「外国人は入ってはいけない」という規定があり、壁が築かれたのです。

 信仰をもって神の前に出ようとしても「律法を知らないから」という理由で近づけなかった外国人・異邦人。しかしユダヤ人との間にあった「その隔ての壁」は、キリストによって打ち壊されたのです。

 そして2つ目の大事なことは、15節の2つ目の文から16節までで示されていることです。(※ゆっくり)「キリストの十字架の死によって、敵対していた人の双方が神と和解させてもらえる。そして新しい人とされ、二つのものが一つの体とされる」ということです。

 隔ての壁が取り除かれただけで終わらず、「双方がキリストと和解に導かれ、そして共に新しく生きることができる」というのです。

 開かれなくて結構ですがガラテヤ書3章27節28節に次のような言葉がありますのでお聞きください。

 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」

 このように洗礼を受け、キリストによって新しく生きること。それは「キリストによって罪赦され、神と和解させてもらった」「キリストという礼服を特別に着せてもらった」ということなのです。それは国籍や思想を超えるものなのであります。

 最後に3つ目の大切なことをお分かちしてメッセージを閉じます。それは17節から18節です。ここでは「キリストの死によって、すべての人が一つの霊に導かれ、天の父なる神のもとへ行くことができる」ということが示されます。

 18節の最後の「近づく」という言葉ですが、もともとの言葉は「ある人の仲介によって、偉い人に会うことができる」という意味のものが使われているそうです。筆者であるパウロは、「イエス・キリスト」と、キリストの復活後まもなくしてすべてのクリスチャンに豊かに与えられるようになった「聖霊」の仲立ちによって、全ての人間が天におられる御神のもとにいくことが可能になったという希望を伝えようとしているのです。

 もともと罪深い私達ですが、特別に罪赦され、神と和解させていただき、聖霊の働きによって「世界中の人々と一つになって、天の神の御許にいくことが許される」のです。なんという恵みでしょうか?

 このように今年の棕櫚の主日では、特に「主が十字架で苦しまれたのは、私達が隣人を愛するためだ。敵意を抱く人々に対しての隔ての壁を壊し、主にあって共に生きるためだ」という大切なメッセージを聞きました。

 なかなか隣人を愛せない、罪深い私達ですが、そんな私達が共に生きるために主イエスは苦しまれたのです。その「苦しみと犠牲」を心に留め、祈りつつ「隣人を愛する私達」に変えていただきましょう。