「同じものを委ねられる私達」9/20 隅野徹牧師

  9月20日説教 ・聖霊降臨節第17主日礼拝
「同じものを委ねられる私達」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書19:11~27

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今朝の説教題は「同じものを委ねられる私たち」という題にしています。これには深い意味を込めています。ですが、「同じものが何なのか」また「何のために委ねられるのか」すぐには分からないと思います。今からお語りするメッセージの中で、少しづつ理解していただいたら嬉しいです。

 さて長すぎて週報に載せられませんでしたが、今からのメッセージに「サブタイトル」を付けました。それは「さあ行こう!何も恐れずに!いつも○○が共にいるから!」という題です。

 これはサッカーJリーグのあるチームの応援歌から取らせていただきました。今年は新型コロナウイルス対策で、声を出すことが禁じられていて、これらがスタジアムで聞かれないのが大変残念ですが、サッカースタジアムで皆が合唱する歌には、「チームを後押しする、ものすごく勇気づけられる深い歌詞」がつけられたものが多くあるのです。

 ここまで言わなくても、私がサッカー好きなのは既に多くの方がご存知だと思います。Jリーグのチームも地元、近隣の複数のチームを応援しています。 少し離れていますが、佐賀県鳥栖市がホームタウンの「サガン鳥栖」というチームも応援しているチームの一つです。 話がそれますが、サガン鳥栖について少し紹介させてください。

 この教会にも佐賀県や、このチームのホームタウンである築後地方出身の方々もおられますが、サガン鳥栖の副キャプテン原川力選手は山口市の鴻南中学の卒業生です。何か身近さを感じてしまいます。

 そして私がこのチームを応援しようと思う最大の理由。それは「何度もチーム存続の危機がありながら、その度に何度も乗り切り、選手もサポーターも必死に戦っている姿」です。

 1994年に誕生したこのチームは一度経営破綻で解散に追い込まれました。誕生した新チームも資金難から長く低迷し、やっとJ1に上がれたのは2012年です。その後も何とか1部に残留し続けていますが、この春には巨額の累積赤字が明らかになり、主力選手を何人も放出しました。それでも選手やサポーターは前を向いて走り続けています。 そんな彼らを一つにしているのが「応援歌」なのです。

 「走り続ける 俺たちのサガン鳥栖、信じて歌う」 とか 「オーレサガン鳥栖  さあいこうぜ何も恐れずに!共に戦おうぜサガン鳥栖  いつも俺たちが共にいるから、何も恐れることはないさ!」

 「俺たちが共にいるから、何も恐れないで走り続けて!」これは何度も存続の危機に見舞われたチームだからこそのメッセ―ジだと感じます。

 長い前振りでしたが、今日の説教箇所からのメッセージと、この応援歌が重なるところが多いと感じています。コロナ感染への不安や、伝道が困難な状況、教会員の高齢化など、課題がたくさんある中ですが「いつも共にある助けを信じて、恐れることなく、心を一つに走りつづけよう!」というメッセージを共に味わいましょう。

 まずたとえ話が始まる前の11節に注目しましょう。(読んでみます)

 当時の人々は、イエスがイスラエルの都であるエルサレムに入られることによってイスラエルのリーダーとなって「神の国」が実現することを期待していたのです。このときのイスラエルはローマ帝国に支配されていました。しかし、救い主が現れてローマの支配を打ち破り、神の王国であるイスラエルを回復して下さることを多くの人は期待していました。11節の「人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていた」というのは、イエスがローマ帝国の支配を開放してくれる、その日が近いと思っていた、という意味なのです。

 こうした人々の期待が間違っていることをイエスが教えられたのが、12節以下の「ムナのたとえ」なのです。イエスはこのたとえを通して「自分は確かに王になるのだが、あなたたちが期待しているような形で王となるのだ」ということをお話しになるのです。そのために、「ムナのたとえ」をされたのです。   

 この譬えですが、マタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」と同じだ!とお感じになる方もあるでしょう。確かによく似てはいますが、別の話として捉えるほうがよいように思います。

 今回の箇所で、イエスがたとえに用いておられるのは「ある国で新たな王が誕生する際、承認を得るためにローマ皇帝のもとへ行く、という」ことです。実際に何度かあった出来事をイエスはモチーフにしていますが、これはマタイ25章の方では全く語られていないことです。

 この譬えを通しイエスは「ご自分はどんな王なのだ」と教えておられるのでしょうか?そして「王の国民」として譬えられた私たち一人ひとりに「何が大切だ」と教えられたのでしょうか?見てまいりましょう。

 まず先に14節、27節を見ることにします。

 この部分だけは、イエスの教えというより「当時のイスラエルに実際に起こった出来事の投影」です。イスラエルの人々はイエスを「力強い政治的指導者、ローマの支配を打ち破ってくださる新しいリーダー」として熱狂的に迎えました。しかし、イエスがそういうお方ではないと分かったとたん「十字架にかけて殺してしまえ」と叫び、実際に殺してしまいました。

 14節に書かれている「国民は彼を憎んでいた」だから使者を送って「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせたとあるのは、このあとに起こる出来事を指しています。また27節の厳しい言葉も、せっかく送られた救い主を拒み、十字架にかけて殺してしまった結果、イスラエルに実際に起こった出来事が前もって予告されているのです。

 イエス・キリストは自分たちの生活を豊かにしてくれる方だ、という勘違いが結果的に何を生むか、深く心に留めたいと願います。

 では、この先「ムナの譬えの核心部分」を見ます。ここからサブタイトルにつけた「いつも共にある助けを信じて、恐れることなく、心を一つに走りつづける」ということを覚えてまいりましょう。 

 まず13節を読んでみます。

 この後王の位を受けるこの人は、僕に対し「商売をするように」命じます。これは「神の国の福音を多くの人に宣べ伝える」ことが神の御心なのだ、ということを示すものです。この「福音宣教のために」神は、それぞれに「1ムナ」をお預けになったことも13節で示されます。

 さて「全員一律に1ムナずつ」というところが今回の聖書箇所の大切なポイントです。マタイ25章の譬え話は、一人ひとりに違う額「タラント」が預けられた、となっています。マタイ25章の方で、何がタラントに譬えられているかというと、それは「神からいただいた賜物だ」と理解できます。このたとえ話がもとで「才能・タレント」という言葉が生まれたと言われます。

 しかし今日の聖書箇所、ルカ19章では「全員に一律の同じもの」が、王になる者が不在の時期に預けられるのです。王として神の国を完成させてくださる「御子イエス・キリスト」が天に帰られている今、私たち一人ひとりに預けられ、委ねられるもの、それを多く神学者が「信仰だ」と理解しています。 

 教会に集う人はいろいろ違う「タレント」をもっていますし、お互いに支え合っています。聖書やキリスト教書を読むのが好きな方や、初対面の方にも人見知りなく声掛けできる人、誰に対してもキリストの証しができる人もいますが、反対に口数少なく黙々と奉仕してくださる人、人に伝えるのは下手だけど黙々と祈れる人、手紙を書いたりできる人等いろんなタイプの人が支え合って、山口信会教会は130年間歩み続けることができました。 

 「キリストを人に伝えるのが苦にならない人」と「伝えるのが苦手」という人が協力しあってこそ、教会は成り立ちます。違いを違いとして認め、その上で神にあって自分のできる最善を為すことが大切です。 

 しかし、イエス・キリストを救い主として信じる、その信仰は「神の側から与えられるものですが」(※Ⅰコリント12:3)その信仰は、すべての人に等しく同じものが与えられているのです。

 キリスト信仰というのは50パーセント信じるとか、そういうものではないからです。

 ではこの「全員に等しく与えられている信仰」をどう用いていくことが大切なのでしょうか?これが今日のメッセージの中心です。 15節~23節を目で追ってみてください。

 ここから分かるのは、やがて王になるこの主人は「もうけ高」よりも「僕たちの姿勢」に関心があるということです。かぎは23節です。(よんでみます)

 「せめて銀行にでも預けておけば」と言われています。みなさん考えてみてください!「商売ができない、苦手だ」ということで、よくよく考えて「1ムナを銀行に預けた」なら王は怒ったでしょうか?

 私は怒らなかったと考えます。銀行にでも預けておけば、他のお金を必要としている人のところに貸し出すことができて、その対価である利息も受け取ることができるからです。「ただ預金した」のではなのです。世のために役立てることにもつながるのです。

 だから、たとえ商売に失敗してお金を減らしてしまっても、怒られなかったのではないか…と私は考えます。

 王の怒りの理由は、「恐れてばかりで、何もせず、1ムナをしまい込んでいたこと」に対してなのです。24節、25節、26節では「王になった主人の激しい怒り」が見て取れますが、その理由は委ねられたものを「自分の手の中で離さないでいたから」です。

 1ムナを布に包んで持っていたこの僕は、わるいことをしていないじゃないか?主人からここまで罰せられる意味が分からない…と思われたかたもあるでしょう。それは「この世の常識と聖書の教えは相反することがある」ことの表れだと思うのです。

 21節で僕は「何もしなかった弁明」をしていますが、それは「怖かった、恐れていた」ということでした。怖いことを止める、リスクを避けることは本当に大切で必要です。でも恐ろしいは「言い訳になりやすい」こともこの箇所が教える大切なことなのではないでしょうか? 恐ろしいとき、まずすべきは「神に祈る」こと、そして「神の言葉である、御言葉に聴くこと」です。その上で、たとえ小さな小さな一歩でも、自分にできる何かをしていきましょう。

 イエス・キリストは今天におられ、わたしたちは肉眼でお目にかかることはできません。しかし私たちの心にこう語りかけてくださっていると信じます。

 「この世の旅路で恐ろしいことは必ずあるだろう。しかしどんな時も私は共にいる。あなたには私を信じる信仰を授けたのだ。」 ヨハネ16:33「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というイエスご自身の言葉を日々噛みしめましょう。

 今日のサブタイトルを教会全体へのもの、そして一人ひとりへのメッセージだと取っていただけると幸いです。「さあ行こう!何も恐れずに!いつも神が共にいるから!」 もちろん「何も恐れない」なんて不可能です。でも、恐れやすい私たちといつも共にともにいてくださり、信仰を授けてくださってくださる神・キリストに身を委ねてまいりましょう。

 最後に、今日は会堂の大規模改修工事の責任者である、山口建築技術研修所の中村さんが礼拝に出席くださっています。残暑も厳しいなか、スタッフの方々が一生懸命にあたってくださっています。

 この会堂も、今集う者たちの為だけに改修するのではもちろんありません。未来を見据えてのことです。主イエスがこの地上に王として戻って来られるその日はいつか分かりませんけれども、与えられたこの会堂を祈りつつ、よく考えつつ用いて、神のみ旨を行う教会として歩んでいきましょう。(祈り・黙想)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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