「命をおあずかりした私たち」11/24 隅野瞳牧師

11月24日説教・収穫感謝合同礼拝
「命をおあずかりした私たち」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書  創世記1:1~3、26~2:3

 今日の御言葉は、私たちが神様から命をおあずかりしていることが書かれています。神様がくださるメッセージを3つお伝えします。ご一緒に聴きましょう。

1.神様は言(ことば=イエス様)によって天地を造り、「良し」とされた。
 今日は収穫感謝礼拝です。食べ物をはじめ、たくさんのよいものをくださっている神様にありがとうの礼拝をおささげする日です。普段あまりごはんを食べないとか、野菜が苦手なお友達もいるかもしれませんが、自分で野菜を育ててクッキングすると、なぜかとってもおいしくて食べられた、ということがありますね。お料理だけでなく、絵を描いたり工作をしたり、人はもともと作ること、表現することが好きです。そして自分が作ったものは特別で大切です。それは私たちが、すばらしいアーティストである神様に造られたからなのです。神様はこの世界のすべてのものを愛し、じっくりとお考えになって、大切にお造りになりました。
 聖書は「初めに、神は天地を創造された。」という言葉で始まっています。「創造された」(バーラー)は神様だけに使われる言葉です。これは、何もないところから命を存在させるという意味です。誰が何と言おうと、初めに神様がいてくださいます。私たちが神様を知る前、この世界が始まる前から神様はおられ、私たちのことを愛しておられました。そして神様は今も生きておられ、世の終わりまでいつも一緒にいてくださることを、イエス様によって示してくださいました。イエス様のもう一つのお名前はインマヌエル、「神様が私たちと一緒にいてくださる」という意味です。
 神様は、何がどこにあるのかぐちゃぐちゃでわからない、からっぽ(無意味、空虚)の世界に光を造られました。(口語訳では「混沌」を「地は形なく、むなしく」と訳しています。)「光あれ。」神様がお言葉を言われると、そこに何かが起こります。それは私たちにとって大きな希望です。私たちの力では今の道からつながるところにしかいけません。けれども神様はまったく別の天への道を、上から開いてくださいます。 
 神様はお言葉によってご自身の栄光の光をもたらし、光と闇を分けられました。私たちがどうしようもない暗闇の泥の中でもがいている時にも、聖霊はそこを覆っておられます。一つひとつのものをあるべき場所に分け、美しく調和した姿にしてくださいます。
 「○○あれ」という言葉は、神様のお名前である「ヤーウェ」と関係があります。これは「わたしはある、存在する」という意味です。神様は「わたしはある」というお方であり、すべてのものを存在させる命、力である方なのです。
 神様はお造りになった光をご覧になり「良し」、満足だと言われました(4節)。皆さんは自分のことを「良し」と思いますか?自分が好きになれない、お友達と比べてなんてダメなんだと思うことがあるかもしれません。しかし天地を造られた神様が、あなたを「良し」と言ってくださっていることを覚えましょう。神様は光と闇を分け、昼と夜と呼ばれました。「夕べがあり、朝があった。」ここから時間が始まりました。
 2日目から3日目に、神様は世界を覆っていた水を分けて押しとどめ、生物が生きられる空間や陸地を造られました。私たちが安心して暮らすことができるのは、神様が雨や海を保ってくださっているからなのです。そこに植物が生まれます。太陽や月星、鳥や水の中の生き物、地上の動物。そして人間が最後に造られました。
 神が命じられるとそのたびに、「そのようになった。」とあります(7,9,11,15,24、30節)。神様のお言葉は、必ずその通りになります。そして何一つ神の決断と許しなしに存在するものはありません。神様はこの世界を、あなたを心から望んでお造りになったのです。

2.神様は人間に、造られた物をまかせてくださった。
 創造の6日目に人間が造られました。「26. 我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。…27. 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28. 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚(うお)、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」これまでは「○○あれ、○○となれ」と神は命じておられましたが、人間を造る時には、特によくお考えになって決められたとわかります。
 「我々」(私たち)と言われているのは、父と御子と聖霊との、3つの神格をもつ一人の神様だからです。「かたどり」「似せて」は、別の訳の聖書では「神のかたちに」とあります。人間は言葉を使って隣の人と心を通わせ、自然を治める能力をいただきました。そして神さまを知り礼拝する霊性が与えられました。「創造された」という言葉が3度も出てきます。これは人間の創造が、すべての創造のクライマックスであることを意味します。
 「支配せよ」というと自分の好き勝手に、造られたものをむだ使いし破壊する悪い王様を思い浮かべますが、決してそうではありません。聖書で「支配せよ」というのは、お世話する、羊飼いのようなあり方です。造られたすべてのものが安心して、幸せに生きられるようにすることです。イエス様を見ると神様のご支配がわかります。「6. キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7. かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8. へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)自然や隣の人の幸せを喜び、そのために下から支えて愛を注ぐのです。すべての造られたもののうちで、神が直接語りかけているのは人間だけです(28~29節)。人間は、他の造られた物とは違う親しい関係を神様との間に与えられ、「世界を頼んだよ」とまかせていただきました。
 人間は、父・子・聖霊として愛し合っている神様にかたどって、男と女に造られました。それはだれかと一緒に、神様のお仕事をしてほしいからです。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」とあるのは、結婚して子供を産み育てるということだけを言っているのではありません。言葉で気持ちを伝え、それにこたえる力をいただいている人間として、自分とは違う隣の人と愛し合い協力して使命を果たすということです。
 人間はこの後神様に背き、最初に造られた神様の美しいかたちを失ってしまいました。ですから私たちはいつも自分のことばかり考え(罪)、隣の人と心を通わせることができません。しかし神様の前にごめんなさいと戻ってイエス様を心にお迎えする時、私も隣の人も造り変えられてイエス様の命につながります。私たちが愛しあい、力を合わせて神様のお仕事をする時、神様を信じて御心を行う人が加えられます。
 31節には「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。造られた世界に、神様は心から満足されました。すべてが完全に調和し、愛し支え合っていました。皆が神様を仰ぎ、そのすばらしさを映しだしていました。しかし今私たちの周りには台風などたくさんの自然災害が起こっています。今も苦しみの中にある方々に、一日も早い助けと癒しがあるように私たちは祈ります。それと共に、だんだん気候がおかしくなってきているのは、私たちがわがままに自然を利用し壊していることにも原因があります。私たちは神様から造られたすべての命をおあずかりしていますから、まず自分という命を大切にしましょう。そして特に傷つき助けが必要な人や地球を大切にしましょう。神様はあなたに、どうするよう語っておられますか。みことばを思いめぐらしながら、小さなことを今日から始めましょう。
(使っていない電気を消す、ごみはリサイクルできるよう分ける、修理できるものは修理して大事に使う、近くでとれた野菜や果物を食べる、近いところは自転車で行くなど)

3.神様を礼拝する日に、それまでの6日間が完成される。
 「第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(2:2~3) 神様は7日目に天地創造の業を完成し安息なさいました。疲れたなあ、と休まれたのではありません。神様は疲れたり眠ったりすることのない方で、いつもこの世界を動かし守ってくださっています。安息とは働きを止める、ストップするということです。神様は七日目を特別にご自分のものとされました。それは、御自分がお造りになった世界を喜び楽しむためでした。
 神様は私たちのためにも安息日を取り分けられ、「ここにきて休みなさい。」と招いてくださっています。安息の日、日曜日は、神様がくださったすべての命と恵みを喜ぶ日です。私たちが何かをすることを一旦やめて、神様が私たちに何をしてくださったのかをしっかり見つめる日です。何かができるからではなく、あなたがここにいる、それだけですばらしいのだよ。It was very good!(New King James Version)神様のお言葉を聞くたびに、神様が私を愛してくださっているんだと思い出して、ありがとうの気持ちでいっぱいになります。
 神様を賛美し礼拝するために、私たちは造られました。そうする時に私たちは本当に満ちたり、安らぎ、命と与える愛をいただきます。「何のために」「どこに向かって」を見失うと歩めなくなりますが、私たちは礼拝の日に、6日間の仕事や生活の意義を知ることができます。安息日は何もうごかないゼロの日に見えますが、次に進むために力をたくわえ、神様の方向に向き直って自分を見つめなおす、なくてはならない日です。神様のためにささげる日が、6日間の仕事を完成させるのです。
 今私たちにとっての安息は、イエス様によって与えられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)罪のない神の子イエス様が、私たちと同じ人間となってこの世に来られました。それは自己中心である私たちの罪の身代わりに、十字架で死なれ、よみがえってその命をお与えくださるためでした。なぜ十字架にかかってくださったのか、それは私たちを愛しておられるからです。大切に造られた私たちが罪と死から救い出されるように、神様に造られたもともとの自分に造り変えられるためにです。命がけの愛と赦しをくださるイエス様のもとで、私たちは本当の安息に安らぐのです。

祈り:初めであり終わりである神様。「光あれ」というお言葉で、光がこの地に輝きだしました。罪や苦しみの中にある私たちの心を照らしてください。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9) 来週からアドベントに入ります。私たちの罪の赦しと天への道を開くために来られた主イエスを、私の主としてお迎えします。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)命のみことばであるイエス様によって、私を新しくしてください。
神様が造られたこの世界を守り、神様の救いを伝えていけますように。御名によってお祈りいたします。アーメン。