「命を得るためになすべきこと」11/14隅野徹牧師

  11月14日 降誕前第6主日礼拝
「命を得るためになすべきこと」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書5:31~47


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいますが、召天者記念礼拝の先週は5章19節~30節がその順番に当たりました。今週は続きの31節から40節です。

新共同訳聖書の小見出しには、「イエスについての証し」と付けられているこの箇所です。私も仮の題としてこれを説教題につけましたが、またしても説教題を変えてしまいました。(申し訳ありません)メインで語りたいのは「聖書を深く読んで、神の御前に出よう!イエスの御前に出よう!」ということです。別の言葉でいうなら①「聖書は、この私が永遠の命を得るために語られた書だ」という思いをもって聖書全体を深く読むことをし、②そのことによって「神の御前に出させていただきたい!」という思いを新たに持つことを皆さんに感じていただくべく、語ることを示されています。これは今回の箇所では主に39節、40節に語られていることです。

まず私の話をさせて下さい。今回、この箇所のメッセージを準備していて40節の言葉が私の心に刺さってきました。私は聖書の御言葉を研究している。だけれれども、それが「仕事としての研究」に終わってしまっているということを強烈に示され、顧みさせられたのです。

「聖書を研究しているのに、わたしのところに来ようとしない」という言葉はファリサイ派や律法学者たちに語られただけでなくて「この私に語られている」ということを感じました。

「永遠の命につながる書である聖書」を、字面だけで理解するのではなく、もっと心から、そして霊的に理解し、私自身が更に一歩「神と主イエスの御前に出たい」と思わされたのです。

皆様も、今朝の礼拝を通し、「聖書をより深く読んで、新たな思いで神の御前に出よう!イエスの御前に出よう!」と思っていただいたら幸いです。共に御言葉に聴いてまいりましょう。

先ほどもお話ししたように、今回の箇所の中心は39節、40節ですが、全体のあらすじを簡単にお伝えします。

3週前私が語ったのがヨハネ5章の1節からです。祭りの喧騒の裏側にあって長年病気に苦しんでいる人に目を留め、愛し癒されるイエスのお姿を見ました。その続きは2週前、瞳牧師が語りました。

 38年間病気に苦しんだ人が癒されたのが「安息日だった」ことから、ユダヤの宗教指導者たちは、「律法違反だ」と怒ります。そして17節「わたしの父は今もなお(つまり安息日でも)働いておられる。だからわたしも働くのだ」と発言されたイエスを「神への冒涜者だ!」として命を狙い始めたことがかかれていました。

先週の召天者記念礼拝では、19節から30節を読みました。イエスは「ご自分は、天におられる父なる神の御心のとおりに業を行う」ことを伝えられました。つまり「十字架と復活によって、なされる救いの業は、すべて父なる神とご自分との信頼関係による共同の業だ」ということを教えておられるのです。そして「神の独り子である、ご自分の十字架と復活を信じて受け入れないものは得られないが、信じ受け入れる者は永遠の命を得る」と結論的に話されたのです。

先週お話ししませんでしたが、このイエスの言葉を聞いて、ユダヤ人指導者たちはさらに怒り狂ったことが想像できます。「このイエスは、自分は神の子だと何度も繰り返し言っている。こんな神を冒涜するものを絶対に許すものか!」という感じで怒ったことでしょう。

今回の箇所は主に「そんな怒っているユダヤ人宗教指導者たちに対し」イエス・キリストが「ご自分は何者であるのか」を伝える言葉が並びます。

31節から47節の内容を簡単にお話しします。ここではイエスが、いくつかの側面から「ご自身が何者であるのか」の教えられているのです。

1つ目の側面は、イエス・キリストを証しするのは、「父なる神ご自身である」ということです。これは31節と32節です。この二つの節を簡単に目で追っていただけるでしょうか?

イエスは「証言が、自分以外の誰かによってなされなければならない」という当時の裁判の行い方を前提に立たれた上で、「わたしについて証しをなさる方は別におられる」と言われるのです。これは父なる神のことです。「その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」と言われたのですが、もちろん、これでユダヤ人指導者たちが納得するはずはありません。

イエスが「ご自分が何者であるのか」を証された2つ目のことは33節から35節です。ここでは洗礼者ヨハネのことが挙げられています。

洗礼者ヨハネについては、これまでも申し上げてきましたので、今朝は詳しく説明しません。イエス・キリストが活動される前にその道筋を整えた人で、彼はユダヤ人たちからも一目置かれていました。そのヨハネが、イエスのことを「神の小羊、救い主だ」と証言したのです。しかしユダヤ人たちは、そのヨハネの証言を受け入れようとしなかったことをイエスは語ります。

続けてイエスは「ご自分が何者であるのか」を「ご自身の業そのもの」を通して証ししようとなさいました。それが37節、38節です。

これまでになさってきた数々の奇跡、それはご自分が「神の子である」ことのしるしでした。ただの奇跡ではありません。イエスがなさってきたのは神の愛に基づいた、人を救う奇跡です。しかし、多くの人はそれをみても「イエスを神の子だ」と受け入れようとしなかったのです。

そして最後に、イエスが「ご自分が何者であるのか」を証言なさるのに用いられたのが「聖書」です。今朝はこのことを一番に注目しますが、39節から47節を読んでみます。

ここに書かれている意味を簡単にお話しします。

当時のユダヤ人宗教指導者たちは、一生懸命に旧約聖書の「律法、掟」が記されている部分を読みました。その目的は39節にあるように「自分が永遠の命を得るため」でした。しかし、41節にあるように、その心には「神への愛がなかった」のです。

もともと旧約聖書の律法、掟を神が与えたのは「人間をがんじがらめに縛るため」ではなくて、「神と愛の交わりを保って生きるため」でした。民を代表して律法を受け取ったモーセもそのことを理解していました。

「周りの人から称賛されるため、よい人間だと褒めてもらうために」律法・掟があるのではありません。そうではなく、「神を愛し」、そして神にあって「隣人を愛するために律法・掟があるのです。この後で、旧約律法のある箇所を実際に読んで皆さんと確かめたいと思います。

ユダヤ人指導者たちが実際どう読んでいたかというと「自分は掟をしっかりと守れる立派な人間だ」と人から称賛されたいために、「見せかけで」律法を守っていたのです。中身が伴わない、その状態を見抜いておられるイエスは45節で「あなたたちをモーセが訴える」と仰います。この言葉を聞いたユダヤ人たちは怒り狂ったでしょうが、しかし実情はこの通りなのです。  

46節に注目します。「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、私をも信じたはずだ。モーセはわたしについて書いているからである。」とありますが、イエスのおっしゃる通り、モーセが神から授かり、民に伝えたとされる「旧約律法の掟」は、まさに「イエス・キリストを証しするもの」であるのです。

 難しい掟の言葉が並んでいるところではなく、比較的分かりやすい箇所を皆さんと開いてみたいと願います。 旧約聖書のP192をお開き下さい。レビ記の19章9~18節をゆっくり読んでみます。 皆様は「この言葉のここがイエス様とつながるな」などと考えながら、読んでいただいたら幸いです。

いかがでしょうか? 異国の人や貧しい人をお助けになるイエス・キリストとつながる言葉があったと思います。目の不自由な人など、苦しみにある方々を癒されるイエス・キリストを思い出す言葉があったと思います。さらに、不当な裁きによって苦しみを負う人々を救い出すイエス・キリストとつながる言葉があったと思います。

そうなのです!これは「人間が守って神の愛の御心に従って生きていくための指針」であるとともに「この後来られる、イエス・キリストがどんな方なのか」を表すものなのです。

別の箇所でイエスは「私は律法を廃止するために来たのではなく完成するために来た」と仰いましたが、「律法を詳しく読むとき」「神の独り子イエス・キリストがどんな風に律法を成就なさるのか」つまり「どんなお方として来られたのか」が深く分かるのです。

皆さまぜひご一緒に「聖書全体を読んで」、より深く救い主について知ってみませんか?きっと心に「大きな愛の迫り」があります。

この当時のユダヤ人指導者たちのように「ただ体裁を整えるために聖書を読む」なら意味のないことです。しかし、聖書全体を「この私が、永遠の命を得るために救い主として来てくださったイエス・キリストについて教える書だ」という思いをもって深く読むなら…「絶対に」大きな恵みを得られると今回確信を得ました。

最初にお話ししたように、私も十分にできていないことに気づかされます。しかし皆さんと共に「より深く共に聖書を読みたい」と願います。そしてより多くの方々と「心から神の御前に出させていただき」、確かに約束された永遠の命を味わいたいと願います。(祈り・沈黙)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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