「小羊の前で新しい歌を歌おう」1/3隅野徹牧師

  1月3日説教 ・降誕節第3主日礼拝・聖餐式
「小羊の前で新しい歌を歌おう」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネの黙示録5:1~14

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 

改めまして、皆様あけましておめでとうございます。今年も神の御言葉を共に聞いてまいりましょう。

今日は2020年最初の主日礼拝です。先週に引き続き、ヨハネの黙示録の5章から御言葉を聞きます。この5章は、すべての人間に与えられる時間や日々について「それを導くお方が誰なのか」を教えている箇所です。

年の最後と最初は、とくに「私たちに与えられた時間、日々」ということに思いを深める時だと思いますが、そのことについて、聖書から味わいたいと願います。

最初に、この「ヨハネの黙示録5章の説明」をさせてください。

本論が始まる4章では、ヨハネが「天に導かれて、天の上での礼拝の様子」を幻で見せられた描写が記されます。「天の中心に永遠に変わることのないものとしておられる主なる神に対してなされる天の礼拝」が静的に描写されますが、5章に入っては動的な描かれ方がします。

先週見た7節までも1節ヨハネは幻の中で「神の右の手に巻物がある」ことに気づきます。この巻物には何がかかれているのか…それは少し後の段階で分かるのですが、「神の手にあって、やがて起こること」が記されているのです。これから、世の終わりの時まで、世界はどんな風になるのか、それが書かれた巻物は7つの封印で厳重に封じられていたのです。

その後2~4節 一人の力強い天使が「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしいものが誰かいないか」と大声で叫ぶのです。しかし地上にいないばかりか、天の上でさえも、この巻物を開いて、見ることができる者がいなかった」のです。

それで4節、ヨハネは激しく泣いたというのです。 なぜ激しく泣いたのか、それは、この巻物が開かれない限り「この先、神の御手の中にある世界はどうなっていくのか?同じように神の御手の中にある歴史がどう変わっていくのか?」それが分からないからです。

しかし5節、天の上にいる長老の一人が言います。「泣かないで良い。神が封印しておられる歴史の行方が記された書を開き、解き明かして下さる方があるのだから」

このお方が神の独り子であり、クリスマスに「人間の姿となって」この世に来てくださったイエス・キリストに他なりません。

そのお方は「屠られた小羊だ」と6節で表されています。この小羊イエス・キリストが進み出て「神が封印しておられる歴史の行方が記された巻物」を受け取られたことが7節に示されています。これは、「小さく弱い小羊、しかもただの生け贄に過ぎないと思われたイエス・キリストこそが、歴史を導き、そして世界の救いを完成される救い主である」ことを示した、象徴的な光景なのです。

今朝はこの続きです。8~14節を、新年最初の主日礼拝で、共に味わいましょう。

 まず8節から読みます。

小羊が巻物を受取ったとき、天にいる「生き物」と「長老」は、小羊の前にひれ伏して礼拝をささげています。賛美をするために用いる「竪琴」と、祈りに用いる「香」を持っているのです。

このことから、小羊は「礼拝されるべき方、神である」ということが分かるのです。先ほど6節のところで見たように「小羊は屠られた」つまり「犠牲の血を流した跡」があるのです。真の礼拝は「天の御座におられる栄光の神」にささげるのと同時に「私達のために血を流された小羊に対してささげるもの」であることを忘れてはなりません。

つづいて9節、10節です。ここは今日の説教題にもつけた「新しい歌が、天の群衆によって歌われる場面」です。

 新しい歌とはいわゆる「新曲」ではありません。ここで言われているのは「新」とは時間的新しさを表しているのではないからです。

 ここで歌われる「新しい歌」には、それまでにない「質的な新しさ」があります。そして「古びることのない永遠の新しさ、次元の新しさ」があります。

その歌の内容は9節、10節の括弧の中にあります。今日のメッセージの中心はここです。大切なので、小分けにして詳しく見てまいりましょう。

まず最初の2行で「巻物を受取り、封印を開くのにふさわしい方だ」という歌が歌われます。これは「私達のために生け贄となってくださったイエス・キリストこそが、歴史を導き、そして世界の救いを完成される救い主である」ことを示しているのです。

なぜ歴史を導き、完成に導くのに相応しい方なのか…それは続く4行に出ます。ここでもまず!「屠られた」という言葉が出ています。それに続く言葉として「ご自分の血で、すべての人間を、造り主である神の下に戻れるように贖われた」ことが表されます。

そこに人種の区別はありません。また罪を犯した数や大小に関係なく「小羊が屠られたことで」罪深い人間は皆、神の下に戻ることが可能になったのです。

そのようにして「小羊の血の代価」によって神の下へと贖われたクリスチャン達はどうなるのでしょうか?それが10節です。最初に「彼らをわたしたちの神に仕える王」とありますが、この新共同訳の訳し方より、口語訳の「御国の民とされる」や、新改訳の「彼らを王国となさいました」という訳し方の方が相応しいと思います。

王はあくまで「小羊イエス」であり、私たちは「その王国を形成する一人の民」にすぎません。しかし「神と地上の間をとりなす祭司」としての役目をお授けくださり、そして「地上を統治する、治める役目」もお授けくださるのです。

クリスチャン達がこの地上を統治する…そう聞いて違和感を覚える方もあるでしょう。統治という言葉には「戦争に勝った国、もしくは力の強い国が、負けた国、あるいは立場の弱い国を、力で支配する」という悪いイメージをもつからではないでしょうか。

しかし、私達の王は「屠られた小羊」なのです。この方を頭とする私達が、この地上でなす「統治」。それは「キリストの愛による統治。隣人愛にあふれた統治」なのです。

どんなにこの世が暗くても、悪が支配しているように見えても…それでも「あなたがたクリスチャン達の祈りと執り成しは届くのだ。そして愛による統治は、小羊キリストによって成し遂げられていくのだ」ということを幻の中で教えられたヨハネ。それは極限の中にあった彼と仲間たちをどれだけ励ましたか…皆さんも想像できると思います。

私達も、暗い世の中にあって「屠られた小羊による愛の統治が完成に向かっている」ことに希望をもち歩んでいけたなら幸いです。

 最後に残った、11節から14節の大切なところだけ見てまいりましょう。目で追って見て下さい。

ここでは、世界の歴史を導かれる小羊と、その小羊を私達のためにお与えくださった玉座におられる神に対しての賛美は「全世界、全宇宙でなされるのだ」ということが教えられるのです。11節、12節では「万の数万倍、千の数千倍」の天使がいて、それらが皆小羊を賛美していることが分かります。

13節では「天と地と、地の下と海にいるすべての被造物と、そこにいるあらゆるもの」が、小羊と神を賛美しています。ここでも敢えて「屠られた小羊」と歌われていることが大きな意味をもつと私は感じます。

「ただ栄光にみち、力強いだけ」ではない、「私達への愛の故に傷や痛みを負ってくださった方」を、無数のものが褒め称え、賛美しているのです。

ちなみに、12節と13節の言葉は、ヘンデルのメサイアの基になっています。

今はコロナこともあり、大合唱でのメサイアが歌えません。そして聞けませんが、本当に大勢で心から神を褒め称え、小羊イエスに感謝を表すことを願っています。

今はそれぞれで、主イエスの「すべての者に与えつくせる力と富」、「常に正しくあられる知恵、すべての抵抗を打ち破る威力」、そして「本来の全知全能のお方としての誉れ、栄光」を褒め称え続けましょう。

地上での歩みが本当に苦しい状況の中でも、「私達を愛してくださる故に屠られた小羊イエス・キリスト」が、歴史を導かれる、愛のご支配、救いを成し遂げて下さることを、この先私たちは忘れずに歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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