「心から喜ぶことになる」3/19 隅野徹牧師

  月19日 受難節第4主日礼拝
「心から喜ぶことになる」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書16:16~24


 順番に読んでいますヨハネによる福音書ですが、今朝は少し飛ばして16章の16節から24節を読むことにします。飛ばした16章4節後半から15節は、聖霊についての教えですので、5月のペンテコステ礼拝で改めてお語りします。

ヨハネによる福音書は14章から17章までの「十字架が目前に迫った中でのイエスの言葉が記された箇所」です。今日の箇所でも語られるのですが「イエス・キリストが、十字架にかかられることによって、父なる神の救いのご計画が成就する」そして「その父なる神が、御子キリストを復活させられ、人間を罪から救い出す、救いの業が完成する」ことがあらかじめ教えられているのです。

今回の箇所では16節他で何度も繰り返されている「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」という言葉は、まさに十字架と復活を、キリストご自身が予告して教えておられるのです。

弟子たちにとって、これまで付き従ってきたイエスの逮捕、それにつづく十字架での死が直前に迫っていました。しかし、弟子たちにはさほど緊張感、切迫感がありませんでした。

実際、この後、「パニック」に近い状態になり、多くの弟子たちは「部屋に閉じこもり、悲しみ、憂いる」ことになるのです。でもすべてをご存じの神の子イエス・キリストは、そんな弟子たちに配慮をなさいます。「あなたたちは、見られなくなってしまうが、それはずっとではない。その後、私は復活する。そしてあなたたちは、再び私を見るようになる」と、あらかじめ愛をもって教えておられるのです。

その復活が、弟子たちにとって「喜び」であることが今日の箇所では強調して教えられています。このことは説教の後半で詳しく掘り下げます。

しかし20節、このイエス・キリストの十字架と復活は、この世では「全く反対に捉えられる」ことが教えられます。これも14章からイエスご自身が「繰り返し」教えられたことです。

世の中では「強いリーダー、自分に利益をもたらしてくれる、自分にとって都合の良いリーダー」が期待されます。イエスも世から同じような期待をかけられましたが、そうでないと分かると、世の人々は「殺せ!十字架にかけろ!」と叫びました。

そして実際にイエス・キリストが十字架にかけられたとき「喜んだ」のです。

しかし!すべてが終わったように思えたイエス・キリストの死、世の悪、人間の身勝手さの前になすすべがなく「イエスが殺されてしまった」かのように思える、その「十字架の死」が、悪に対する勝利であり、私たち信じる者たちにとって「大きな喜びである」ことを、イエスはあらかじめ伝えて下さっていたのです。

世の常識とは真逆の価値観の中にある「喜び」。それは「神・キリストと共に私たちが一つとなる」ことによってなされるということも教えられます。今日の箇所の前の部分で教えられるのですが、「神ご自身の霊である聖霊」が送られることによって、私たちも聖霊を心に宿すことができ、「神、キリストと一つになることができる」のことが教えられます。

この「神・キリストとわたしたちが一つになる」その希望が「ある言葉」で語られます。それが今回の箇所でも23節、24節で出てくるのですが、「わたし、つまりイエスの名によって願うならば、与えられる」という言葉です。これは「身勝手なお願いをしてもなんでも叶えられる」ということを言っているのではなくて「神の御心をねがうならば、つまり神の業がもっと大きなものになるために、助けを願うなら、それは叶えられる」ということです。

これも「神・キリストの御心が一つとなっている」ことの表れです。神・キリストと同じ思いをもち、同じことを成し遂げていく…そこにキリスト者ならではの大きな喜びがあるのです。

残りの時間、今回の箇所のイエスの教えの中でみてとれる「喜び」について、詳しく掘り下げてみたいと願います。

1 一つ目は「イエスの十字架と復活を通して与えられる喜び」は、その喜びを受ける者にとって「大きな痛みを伴う」けれども、しかし過ぎ去った痛みを忘れるほどの喜びであるということです。

これは21節で印象的な表現を用いて教えられています。(21節よんでみます)

私は子を産む苦しみを体験したことがありませんが、それでも、横で見守るのも、本当に「心痛」するものでした。

とくに第一子の誕生のときは苦しんでいる妻に対し、背中をさするしかできない、その心痛は大きく、夜一睡もできなかったのを今でも思い出します。しかし、無事に子どもが生まれてくれたときの喜びは、それ以前の苦しみを全く思い出さないほどの喜びでした。

イエスがこのことを譬えに用いられた意味は大きいと個人的に感じます。

世の人々は「イエス・キリストが十字架にかかって死んだ。そして復活されたという風に言い伝えられている」ということを知識として知るだけで、そこに特に大きな喜びも悲しみもない…という方がほとんどだと思います。

そんな世に生きる私たちが「イエスの十字架と復活が喜びだ!」と心から思えるためには、やはり「陣痛のような痛み」が伴います。

自分の中の罪に向き合う、そしてその罪を「イエス・キリストを信じ受け入れることによってきよめていただきたい!」そう願うことは、必ず痛みの伴うことです。しかしそのことではじめて「赦され救われた恵み」は、心から「喜びをもって」受け入れることができるのだと信じます。

弟子たちは、今回の箇所の場面の時点では、「十字架と復活の恵み」が分かっていなかっただけでなく、自分たちが、この後大きな苦しみに遭うことも理解できていませんでした。

しかし、イエスが十字架にかけられる悲しみ、そして「自らも同じように迫害されてしまう」という悩み苦しみを通して、「本当の喜び」は彼らのものとなったのです。

それは復活されたイエス・キリストが天に昇られた10日後、天から下ってきた「聖霊」を心の中に迎え入れ「神・キリストと一つ心になったときに」さらに喜びは揺るがないものとなりました。

真の喜びは「キリストにあって」苦しむことなしには、もたらされない。しかし、一度確信をもった喜びは「その前にあった痛み、苦しみ」を忘れさせるものであることを覚えましょう。

2 最後にもう一つ、この箇所を通して教えられる「喜び」について味わって、メッセージを閉じたいと願います。 二つ目の喜びは「神との新しい関係が与えられる喜び」です。これは22節23節から読み取れます。 (22,23をよみます)

 ここから、読み取れるのは弱く罪深い私たちが、終わりの時に「神・キリストと相まみえ、一つとなれる喜び」です。22節にはこの喜びが「決して取り去られない」とあります。

 終わりの時、私たちが神と相まみえる場所は、いわゆる「天国」です。そこには悪の力はないということが聖書全体から教えられます。

 この地上は「私たちを神から引き離そうとする悪しき力」が強力に働いていますが、天ではそうではないのです。罪や悪、悲しみが無い場所、そこにわたしたちは「イエス・キリストの十字架と復活の業を受け入れること」によって入ることができるのです。

 また23せつには「あなたがたは、もはや、わたしに何も尋ねない」とあります。

この地上では、私たちは弱さのため、また「罪にまみれた心のため」神の御心が見えなくなる時があります。また「神のなさることがさっぱりわからない」そして神に不平不満を言うことが沢山あると思います。

 しかし!天では、私たちの罪はきよめられ、神と心一つとなっているので「もはや、尋ねることがない」のです。

 私たちはいま地上の生活において「様々な悩み、苦しみ」があります。この先もそれぞれにあることでしょう。 しかし、主イエス・キリストはすべてご存じの上で「苦しみ悲しみの先にある喜び」「苦しみ悲しみがあっても決して奪い去られない喜び」があることを教えてくださっているのです。

 このことを深く心に刻みつつ、残りの受難節を歩んでまいりましょう。

(祈り・沈黙)