「救いに導く者の熱意」11/3 隅野徹牧師

  11月3日説教 ・永眠者記念礼拝「救いに導く者の熱意」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:マルコによる福音書2:1~12

 今日は年に一度持っている永眠者記念礼拝です。信仰をもって「天へ旅立たれた、信仰の諸先輩方」を覚えてこの時を持てればと思います。

 今年も何人かの方々を「天へお送り」しました。 

 さて、今年の永眠者記念礼拝ではマルコによる福音書2章から語ることにしました。なぜこの箇所から語ることにしたかというと、ここには「山口信愛教会が記念している永眠者の方々のことで、二つの大切なことが示されているからです。

 その大切なことの一つ目とは「永眠者の方々が、この地上でなさった働きは何か」ということ、です。

二つ目は「永眠者の方々が、もった希望とは何か」ということです。 本日は「久しぶりに教会に来た」あるいは「初めて来た」という方も多いです。先に天に旅立った方々を通して「少しでも聖書の教える大切なこと」を、覚えて帰って下されば幸いです。

はじめに…今回の聖書箇所の場面の流れを簡単に紹介します。人間の姿をとってこの世に来てくださった「神の子イエス・キリスト」はこの時すでに多くの病人を癒されていました。「イエスがただの人間ではないぞ!」という噂が、ガリラヤ中に知れ渡りました。そして多くの人たちが病人や悪霊につかれた人たちを連れてイエスの所にやって来ました。イエスが滞在しておられた家には大勢の人が集まり「戸口の辺りまですきまもないほど」でした。情景が目に浮かびそうです。

3節をご覧ください。「四人の男が中風の人を運んで来た。」とあります。四人の男性が一人の中風の患者を運んで来ました。この四人の男たちは床」に中風の人を乗せて、イエスが滞在しておられた家に来たのです。

しかし、4節「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」のです。でも!この四人の男達は引き下がりませんでした。どうしても、四人はこの中風の人と主イエスを会わせたかったのです。この四人は決意し、驚くべき行動を取りました。 そして病人は「イエスによって癒された」というのが今回の箇所の流れです。

ではこの箇所が示す一つ目の大切なことについてお話しします。それは「永眠者の方々が、この地上でなさった働きは何か」ということですが、ここに出てくる4人の友と、永眠者の方々が重なります。

 4節の後半をご覧ください。「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」とあります。この四人の男たちはまず屋根の上に登りました。当時のパレスチナの家は、たいてい外付けの階段がありました。それを伝って屋上へ登ることができたのです。屋根は平らで、梁と木の枝を編んだものの上に、粘土などを水で練って固めたもので造られていました。その一部に穴を開けることは、必ずしも困難ではなかったようです。

もちろん、沢山の土ぼこりが下に落ちるし、そのような行動はとても迷惑な行為です。大胆ではありますが非常識な行動です。イエスのおられる辺りを見つけて、屋根を剥がして穴をあけたとありますが、この穴から、病人の寝ている床をつり降ろしたのです。自分の家の屋根が剥がされる光景を目撃した人々は驚いたことでしょう。 これが迷惑な行為であることは百も承知だ。だけれども彼らは「病に苦しむ友をイエスの前にお連れしたい」という気持ちが上回り、屋根を破るという行為に出たのです。 それだけ「病の友を、神の子イエスのもとにお連れする」ことが「何を犠牲にしても大切だ」という信念をもっていたのです。

 目の前にお写真のある方、これらの方々が「生きている間、なさったことで共通していることが」友を、そして家族を「イエスの前にお連れしようとした」ことではないでしょうか? 「自分だけが信仰をもてばよい。家族や友はイエスに会おうお会うまいと関係ない」と思われるなら、教会式で葬りや弔いをするということはほぼありえないことだと私は思っています。

みなさんの多くが、この中のどなたかによって「イエス・キリストに出会うように促された」経験をお持ちのことでしょう。 その時のことを思い出してみてください。迷惑だなあ!と正直に思った方は多いのではないでしょうか?

私も、まだ洗礼を受けていなかった中学生、高校生の頃、導いてくれたアメリカ人宣教師が「お金も全部だすから中高生クリスチャンのキャンプへ出て!」と熱心に誘ってくれたとき「迷惑だな!ほっといてくれよ!大体、お金を全部だすからなんて…非常識だな」と感じたのを思い出します。 でも今は「私をイエス・キリストに出会わせるために、できることは何でもしよう!という感じだったんだな。熱心に関わってくれて、本当にありがとう」と思えます。 

 聖書に話を戻します。 山口信愛教会の永眠者の方々とその姿が重なる「4人の友」。多くの目撃者は「非常識だ!」と憤っていたかもしれない中で、イエス・キリストはどのように見ておられたのでしょうか? それが5節を見ると分かります。

イエスだけは「4人の男たちの信仰」を見て、喜ばれたのです。

イエス・キリストは「全知全能の神の子」です。 人間の姿をとっておられますが、すべてがお出来になる「神の子」です。ですから、人間の心の中をすべて見通すことがお出来になるのです。この四人の男たちが「病気の友に対して誠実で思いやりを持っている」ことをご存知なのです。 きっと人間なら「見た目だけを評価しますから」屋根を破ったというその見える行為に対し、「何かしらの反応」をしてしまいます。でもイエス・キリストは「見た目の非常識な行動」を超えて、

「4人の友の心の内が愛に満たされている」のを見て取り、そして「この4人の信仰のゆえに」病気の友を癒し、祝福してくださったのです。

 今、山口信愛教会で礼拝を守っている私達一人ひとりの「これまでの歩み」は、永眠者の方々の祈りと、「キリストのために出来ることをする」という熱心さの故に支えられている、というのは決して過言ではないと思います。

 私達もその熱意を見習うところがあってよいのではないでしょうか?キリストのもとに人をお連れするなんて…非常識に見えるだろうな…と私たちは思いがちですが、イエスは「私達のこころが、事なかれ主義で保身に走っているのか、それとも「友や家族を心から愛そうとしているか…」それを見抜かれます。 すべてをご存知の神の子「イエス・キリスト」が見ておられることを拠り所にし「永眠者の方々や、四人の友のように」歩んでまいりましょう。

 さて大切なポイントの2つ目です。二つ目は「永眠者の方々が、もった希望とは何か」ということです。

 聖書の示す、私達人間にとって最大の恵みは「犯してきた罪が赦される」ことであります。病気が癒されることも「大きな恵み」なのですが、聖書の教える癒しは「体の癒し」であるとともに「心の癒し」なのです。

 イエスによって癒された人は「これで元気になったぞ、よし明日から遊びまくるぞ!」とか「飲みまくるぞ!」とはならないことが聖書全体から示されます。

 そうではなく、イエスによって癒されるひとは「心もきれいにされ」「生き方が変えられる」のです。そのことが「あなたの罪は赦された」という 節のイエスの宣言に表れています。 イエスは、ただ「体の中の調子の悪いところが、回復した」ということを大きく超越して「その人にとっての最善をなさる方」です。10節でイエスはご自分を「人の子」と呼ばれた上で「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と仰るのはそういう意味なのです。 

 イエスは神の子ですから、私達の罪を赦す権威をお持ちですが、「ただ権威をもっている」だけで止まられなかったのです。十字架で私達すべての人間の罪の生け贄となって死んでくださった。そのことにより、実際に「愛による犠牲の死」によって罪の赦しを成し遂げて下さったのです。

 私達一人ひとりは、毎日の健康がそれなりに守られ、そして病気などで体調を崩しても「いろいろな成され方で」癒されます。 このように私達の気付かないところで日々なされている「癒しの業」ですが、もっとも大きな癒しが「造り主である神との関係が癒される」ということ、つまり「罪が赦されたことに感謝して生きられるようになる」ということなのです。 今回の聖書箇所からそのことを覚えていただいたら幸いです。

 最後に山口信愛教会の永眠者の方々の「最大の癒し」ということをお話ししてメッセージを閉じさせていただきます。

ここにお写真のある方はみな、何かしらの「体の不具合」によって天国へと旅立たれました。では神・イエスによる癒しが無かったのか…というとそうではありません。この方々が願った通りには最後いやされなかったかもしれない。でも、皆「罪の赦しを得た」「天国に行って、神のもとに召されるのだ」という希望をもって天への凱旋されたことを私は確信しています。 まさに今日の箇所で「あなたの罪は赦された」という救い主イエスの宣言が一人ひとりになされ、心が平安に癒され、天へ凱旋されたことを覚えましょう。

私達も「イエス・キリストのもとに連れて行こう」と頑張って下さり、そして「最大の癒しの喜び」を胸に天へ旅立たれた方々のことを思い出し、その方々と同じような豊かな人生を歩みたいと願います。  (祈り・黙想)