「時満ちてわかること」8/23 隅野瞳牧師

  8月23説教 ・聖霊降臨節第13主日礼拝
「時満ちてわかること」
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書18:24~34

最下段からPDF参照、印刷出来ます

本日の箇所では、神の国に入る道はどこにあるのかについて記されています。3つの点に目を留めて御言葉にあずかりましょう。

1.神には救うことができる(ただ十字架によって)。(27節)

2.神の国のためにささげる者の歩みは、豊かな報いが約束されている。(29~30節)

3.御言葉が理解できないのは、隠されているからである。(34節)

 聖書って、わからない。聖書を読み、語る務めを重ねるごとにそう感じます。物語や癒しの言葉としてすんなり入ってくる箇所があるかもしれませんが、やさしいと思える箇所はわかったつもりになりやすく、やはり深くてわからないものだと思います。聖書を読んで守っていても、救いがわからない金持ちの議員へのメッセージから、先週に続いて聴きましょう。

1.神には救うことができる(ただ十字架によって)。

 ある議員が主イエスのもとにきて、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうかと尋ねました。当時ユダヤには最高法院と呼ばれる議会がありました。祭司や長老、律法学者等、社会的に信望のある人々によって構成され、ユダヤ教の律法に基づいて行政と司法を行う場でした。彼はその議員の一人で、マタイによれば彼は、若くして最高法院の議員に選ばれるほどの人でした。彼は信仰の道をまっすぐに歩き、すべてにおいて恵まれた、非の打ち所のない人物のように見えました。

 主が十戒に示されている道を歩みなさいと言われると、彼は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。主イエスが挙げた五つの戒めは人に対するもので、守っていることが目に見える形で現れるものばかりでしたから、彼も自信を持って守っていますと言うことができました。それを受けて主は「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と言われたのです。

 彼に欠けている最も大切な一つは「わたしに従いなさい」…主イエスこそ救い主であると受け入れることでした。持ち物を売るのは神への信頼の実践、貧しい人に与えるのは隣人愛の実践です。しかし主イエスはすべてを売り払って貧しい人々に施すという“行い”を補って永遠の命を得なさいと言われたのではありません。このような難題を求めることによって、それが“できない”自分に気づいてほしかった。できないままで神のみもとに出て救われることに気づいてほしかったのです。何かを“する”ことで永遠の命を受け継ぐことができると考えた彼に、そして同じように考えてしまいがちな私たちにも、そのままで神の憐れみにすがり、救いを受けなさいと主は招いておられます。

 さて議員は、主の求めに対して非常に悲しみました。大変な金持ちであったため、持っている財産を手放すことができずに去っていきました。祝福のしるしである富が、彼を神から遠ざけるものとなっていたのです。主イエスはその姿を見て「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。らくだは当時その地方の動物の中で一番大きなもの、針の穴は穴の中で一番小さなものでした。らくだが針の穴を通るとは、まったく不可能なことをユーモラスに伝えているのです。当時のユダヤ人は豊かな生活にあこがれていました。物質的に恵まれていることは、神からよしとされているしるしだと信じられていたからです。ですから人々は、金持ちが救われないならば、まして一般の人はだれ一人として救われることはないでしょうと驚いたのです。そこで主はお答えになりました。「人間にはできないことも、神にはできる。」

 救われる(=神の国に入る・永遠の命を受ける)ことは、どんなにすばらしい人であっても、人間的な事柄によっては不可能です。救いはただ主イエスの十字架と復活の恵みによって成し遂げられ、それに信頼する者に与えられる神の賜物です「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)。

2.神の国のためにささげる者の歩みは、豊かな報いが約束されている。(29~30節)

 去っていった議員を見て、弟子のペトロは「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。ペトロの言葉には、私たちは群衆や金持ちの議員とは違って、すべてを捨てて主にお従いしてきた弟子です、という自負が表れています。確かにすべてをささげて主に従っていった弟子たちは特別な恵みをいただいて、厳しい決断に歩みだしましたが、それは決して彼らが人よりすぐれた信仰をもっていたからできたのではありません。

 主イエスと共に伝道旅行をしなくても、彼らを支援するというかたちで神の国のためにささげた人たちが福音書にはたびたび登場します(カファルナウムのペトロの姑、ベタニヤのマルタ・マリア・ラザロ等)。彼らは家や家族をもっていたからこそ、主イエスの一行を迎えて衣食住を提供することができました。ルカ8:38~39には、悪霊に取りつかれて墓場に住んでいた人が主イエスに救われ、お供したいとしきりに願ったとあります。しかし主は「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」と、彼をお帰しになりました。彼の場合主イエスに単身ついていったとしても失うものはほとんどなく、過去の彼を知っている郷里に帰るほうが、逆に気が重いことだったかもしれません。彼にとって「主イエスに従う」ということは、もう一度家族や町の人との交わりに生きることを回復し、そこで主を証することでした。私たちはそれぞれ、どのように主に従うかという召しが違います。

 さてマタイ19:27の並行箇所では、ペトロが「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と続けています。彼らは結局去っていった議員と同じで、自分の払った犠牲の大きさに応じて神からの報いがあるはずだと考えています。弟子として献身したことで、何の報酬がいただけるのか。それは、本当の意味で主イエスに従っていくということではないでしょう。しかし主イエスはペトロの言葉に対して、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」と約束してくださいました。自分で主にささげる決心をしたものがあり、自分の意志と関係なく取り去られるものもあります。しかし主イエスは神の国のためにささげられたならば、それらの犠牲をはるかに超える報いがあることを約束されました。

 ここで家や家族を「捨てた者はだれでも…」とあります。これはいらないごみのようなものを捨てることとは違います。自分にとって大切だけれども、握りしめていた手を手放して、神におまかせするということです。これは迫害下にある者たちを指しているとも言われます。主イエスを信じ教会に仕えることに、周囲の人の理解が得られないかもしれません。しかし神が必ず大切な方を最善に導いてくださる、救ってくださると信じ、家族や職場にあって自分の務めを果たしつつ主を信じ続けるのです。主イエスにささげるのは、無理をして犠牲を払わなければならないということではありません。主イエスの愛に包まれる時に、主に従うことが本当にうれしいことだと思われるでしょう。神の国のためにささげることを喜べるならば、それだけで私たちはすでに報われているのです。

 ルカがこの福音書の続編として書いた使徒言行録には、キリストの復活によって始まった最初の教会の様子が伝えられています。救われて集められた信徒たちでしたが、彼らが家族を捨てたとは書いてありません。むしろ家をベースに集会が広がっていきました。彼らは最も深いところで解き放たれ、神の価値観によって家族や自分の持ち物と関わることができるようになったのではないでしょうか。すべては神からゆだねられ、神と隣人のために使っていただくものとわかった時に、群れの中には貧しい人は一人もいませんでした。自分、家族という枠を超えて、必要な人と恵みを分かち合うようになりました。死んだ後に永遠の命が与えられるだけでなく、地上の生活において私たちには、共に主を礼拝し愛し合い支え合う兄弟、姉妹が与えられます。世界中の人を家族として愛する道へと、神は招いてくださっています。(マタイ12:50、ヨハネ19:26~27)

3.御言葉が理解できないのは、隠されているからである。(34節)

  この個所は、主イエスが最後のエルサレム入りをする直前に、12人の弟子を集めて言われたことです。12人は主イエスが手元で3年半ほど直接教育してきた人たちです。その人たちに、これから主イエスの身に起こる受難と復活を予告されました。弟子たちは、主イエスに従うならどのような報いを受けるのかということで頭がいっぱいでした。主イエスの周りには、その教えに感動した人、癒しの恵みにあずかった人、過ぎ越しの祭りを祝うためにガリラヤから主イエスに同行した弟子たちや女性たちなど、多くの人々が取り囲んでいました。人々は主イエスがメシアとして名乗りをあげることも近いのではないかと期待しました。主イエスはこれからエルサレムで起こる事柄とその意味について、弟子たちにはっきり認識させておく必要があると感じられたのです。

 主イエスがご自分の受難を予告なさったのはこれで三度目です(一度目は9:21~22、二度目は9:43~45)。しかしそれに続いて「そして、人の子は三日目に復活する」と予告されています。私たちの罪深さのゆえに死なれた主イエスを、父なる神は復活させられました。神は人間の罪がもたらした死を通して、新しい上からの、永遠の命をもたらしてくださったのです。主イエスがここで語られたご自身の受難と復活による救いは、預言者たち、つまり旧約聖書に語られていることの実現であり、御父のみ心であるゆえに主イエスは従い抜かれました(メシアの受難預言については詩編22:1~32やイザヤ52:13~53:12など。聖書巻末の「新約聖書における旧約聖書からの引用個所一覧表」も参照)。

 ユダヤ人は旧約聖書を律法の書、神の民としていかに生きるかという戒めの書として読みました。メシアについても、力をもってイスラエルを解放する栄光の王としてのみ読みとりました。それらは確かに聖書の一側面ですが、主イエスはまったく違う聖書の読み方、神が記されたご目的に従って読むことを示されました。それは旧約聖書が受難のメシアによる救いの道を示すという読み方です。

 主イエスはご自身に関することをはっきり示されました。1つ目は「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる」。神の民イスラエルがメシアであるイエスを異邦人に引き渡します。主イエスは弟子の一人ユダによってゲツセマネの園で捕らえられ、最高法院で裁判を受けローマ総督によって死刑の判決を下されます。そして2つ目は「彼らは人の子を、鞭打ってから殺す」。御子は神の子でありながらご自身を虚しくして、精神的・肉体的な苦痛を受け、最後には十字架につけられます。ユダヤ法では、石打ちや火あぶりの刑などが公式な処刑方法であり、神に呪われたしるしである十字架刑は執行されることはありませんでした。十字架刑はローマ世界における処刑法であり、主イエスはこれを指して、異邦人に引き渡されると予告されたのです。そして3つ目は勝利です。「人の子は三日目に復活する」。主イエスは死を越えた復活の勝利を見て、弟子たちに告げられました。

 しかし繰り返し明らかに語られていながら、弟子たちには主イエスの言われたことが理解できませんでした。不思議なことです。イエスは別に比喩をもって分かりにくくしているわけではありません。しかも主イエスのもとで教育を受けてきた人たちですが、何も、分からなかったのです。それは「彼らにはこの言葉の意味が隠されて」いたからです。それは神によってです。「隠されている」とは「覆われている」という意味で、実際にそこにあっても気づかないということです。

 ルカ福音書24章13節以下ではエマオという村に向かって歩いていく二人の弟子たちの姿が描かれています。この人たちは当時の弟子の代表のような存在です。主イエスの復活の後にもなお心を閉ざして復活の出来事を受け入れません。復活が隠されている。しかし、この二人と共に主イエスが歩いて、道々、主ご自身が御言葉の意味を説き明かしてくださいました。やがて二人は、このお方がよみがえられた主であることに気づき、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」とわかりました。御言葉が聖霊によって啓(ひら)かれ理解できるというのは、こういうことです。聖書の御言葉の意味に気づく時、主イエスが解き明かしてくださる時があります。やがてペンテコステの出来事を迎え、弟子たちに聖霊が臨むと彼らは福音を理解し語り始めました。教会は聖霊の臨在される場です。この教会の礼拝と交わりの中で聖書が読まれ、解き明かされていくのです。皆さんは何のために聖書を読んでおられるでしょうか。きっかけはいろいろあっていいと思います。しかしぜひ、聖書は私たちを罪から救うために神が救い主をお与えくださったことが記されていると心に留めて、救い主キリストに出会えるよう祈りつつ読んでいただきたいと思います。

 この時み言葉が分からなかった弟子たちも、後に、復活なさった主イエスと出会い、そして聖霊のお働きを受けることによって、心を開かれて、主イエスの十字架と復活による救いを告げるみ言葉を信じて受け入れ、そのみ言葉を宣べ伝える者となりました。これまでお聞きになった御言葉、お読みになった聖書の意味がわからないとしても、私たちにとっての神の時が満ちたなら、聖霊が覆いを取り除いて真理を悟らせてくださいます。わかるところまでが、今神が示してくださったことです。優れた作家や哲学者であっても、聖書が分かるとは限りません。しかし難しいことはわからなくても、イエスが私の救い主であると信じられる人は聖書が分かった人なのです(Ⅰコリント12:3)。私は天地創造の前から、母の胎に宿る前から神に知られ愛されている。そのことだけ知っていれば十分です(Ⅰコリント8:2~3、エフェソ1:4、エレミヤ1:5)。祈り求める中でやがて、ああ、そうだったのですね…と見える、わかる、信じられる時が来ます。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。…事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」(ヨハネによる福音書14:26,29)
 祈りましょう。

 

 

≪説教をPDFで参照、印刷できます≫

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Download [274.95 KB]