「本当に価値あるものを任せられるように」5/3 隅野徹牧師

  5月3説教 ・復活節第4主日礼拝
本当に価値あるものを任せられるように
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書16:1~13

 先週から、山口信愛教会の主日礼拝の説教箇所は再び「続けて読んでいたルカによる福音書」にもどりました。16章の前半にある、「不正な管理人のたとえ」から再び読んでいるのですが、実はこの箇所、大変深い教えが詰まっている箇所です。私にはこの箇所を通してイエスが私達に示されている教えが「大きく3つ」あると理解しています。先週、今週、来週と同じ箇所から、他の聖書箇所を引用しつつ、3回に分けて話します。今週は題につけたように「本当に価値あるものを任せられるように」ということについて、神からの御言葉を聞いてまいりましょう。

 まずイエスがなされたこのたとえ話のあらすじと、先週のメッセージのおさらいをします。1~8節をご覧ください。

 ある金持ちに「一人の管理人」がいました。管理人というのは、主人の財産と商売の一切を託され、取り仕切っている人です。信頼されてその務めを与えられているのです。しかし、その管理人が主人の財産を無駄遣いしてしまいました。主人は管理人に対して「きちんと報告するように」命じます。3節、4節では「失敗に気づかされた管理人」が一生懸命に考えて、「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作る」ということを考えつきました。

 そして5節から7節、主人に借りのある者を一人ずつ呼んで証文に記された借金の額を半額にしました。そしてたとえの最後の8節で「主人は、この管理人の抜け目のないやり方をほめた」そのように語られてイエスはたとえ話を閉じられるのです。

 先週はこの話を通して、イエスが語ろうとされた「一つ目の大切なメッセージ」をお伝えしました。それは…成り行きに任せるのではなく、また「自暴自棄になるのでもなく」「何とかならないか!」と必死に考え、実行することの大切さなのです。管理人としての「終わり」に直面していたこの人ですが、この時はまだ管理人として、主人の名において行動する権限をもっていました。ですので、それを「どう用いるか」真剣に考え、実行しました。

 「もう何もできることはない。すべてがおしまいだ…」となってしまいそうな状況で、泥臭く!できることを探し、実行したのですが、まさにこの姿勢の大切さをイエスは弟子たちに、そして「光の子」として譬えられている私達クリスチャンにも教えられるというお話しをしました。

 第二週目の今朝は2つ目の大切なメッセージ「本当に価値あるものを任せられるようになる」ことについてです。これは11節の言葉から取らせていただきました。

 11節をゆっくり読んでみます。

 ここで「不正にまみれた富」という言葉がでます。これは新共同訳独特の訳し方ですが、本質を捉えていると思います。金銭や財も神から与えられる「賜物」であるのですが、しばしば「不正なこと」に使われます。別の言い方で「悪用」されます。そういう意味で金銭や財といった「富」は不正にまみれているといえます。ここでイエスは「目には見えない、本当に大切なもの」と対局にあるものとして、こう表現なさったと考えます。

 一方で「本当に価値のあるもの」が出てきます。別の訳し方では「まことの富」となっているこれは一体何でしょうか。これは一言でいえば「天国にもって行ける永遠の命」です。

 悪用されることが多い「この世の富」と、目には見えない「天にある、目に見えない富」について、ウイリアム・バークレーという人が次のように解説していますので紹介させていただきます。

 「あなたがこの世で所有しているものは、本当はあなたのものではなく、委託されたものである。死んだとき、あなたはそれを持っていくことができない。それはただあなたに貸し出されているだけだ。性質からいって永久にあなたのものにはなれないものである。

 他方、天国においては永遠に、本質的にあなたの所有物であるものをあなたは得るであろう。」

 いかがでしょうか? バークレーが言う通り、私達が今所有していると思っている「金銭や財の一切」を、私達は永遠に持つことはできません。天国に持っていけません。しかし、私達は「天国に行くことができたならば」、消え失せることのない永遠の所有物を神から戴けるのです。それが11節で教えられている「本当に価値のあるもの・まことの富」なのです。

 このように、私達がこの世で持っている富は「ただ委託されているにすぎない、永遠に持つことができない」のに対し、まことの富、本当に価値のあるもの」は天国に行くことで、永遠にもつことができるのです。 大切なのは「天国に行く」ということなのです。

 実はこの箇所の前半でイエスがなさった「管理人のたとえ」に、天国に行くための大切な教えが秘められているのです。 残りの時間、「管理人の生き方」から「私達が天国へいって、本当に価値のあるものを与えていただくための大切なこと」を学んでまいりましょう。

 イエスが譬えの中で出された管理人ですが、私は聖書を読み始めた頃、正直この人に嫌悪感を抱いていました。「ずる賢い」ところも、ですが何より「主人の財産を無駄遣いした」ことに対して「悪い奴だな…」と思っていました。

 しかし最近は見方が変わりました。先週お話ししたように「無駄遣いを全くしない」完璧なひとはどこにもいないということに気づいたのです。私たち人間は皆、失敗をします。気づかぬうちに「神から預かったもの、委ねられたものを無駄遣いする」ことはあるのです。「ある意味で私も不正な管理人だ!」と気づいた、その物の見方でこのたとえを見ると、イエスが譬えられたこの管理人から学ぶ点があることに気づくのです。

 一つ目は「素直に失敗を認めていること」です。

 管理人は、間違いをごまかそうとはしていません。嘘の報告書を出すことはしていませんし、主人に色々言い訳しようとする様子もありません。実はこれはとても大切なことなのです。そして私達が天国に行くために「必要なこと」なのです。

 創造主である神は、私達が失敗するもの、間違いを犯しやすい者であることをよくご存知です。でもそのことに「きちんと向き合う」ことを望んでおられるのです。私たちは、自分のした失敗・間違いに向き合わずに隠そうとしたり、言い訳しようとします。今はお家にいて、これまでの自分の人生を顧みる機会も多いことと思います。ぜひ、主である神の前に「失敗・間違い」が示されたら、はっきりと告白しましょう。それが「天国に行って、本当に大切なものをいただける」ことにつながります。

 そして二つ目の管理人から学ぶ点、それは「主人の愛の深さと赦しを信じる」ということです。

 イエスが譬えられたこの管理人がした行動は、「管理人としての立場を用いて、主人に借金していた人々の借金を半分にする」というものでした。私達にはこれは「大胆で非常識な行動」に見え、これのどこが褒められる行動なのか…と思えてしまいます。

 ではなぜこんな「大胆な行動ができたのか…」私はこの管理人が主人のことをよく理解していたからだと考えます。具体的にいうならば、「主人の懐の深さ」と「自分や他の人の負い目をも赦すお方だ」ということを知っていたからなのだと考えます。この主人と同じように、私達は今礼拝している「神」も創造主ですから、「無限に与える」ことがお出来になります。そして、御子イエス・キリストを犠牲にしてまですべての人々を救おうとなさる「限りない愛のお方」であります。

 私たちは、もっと神のことを知ろうとしましょう。管理人がそうであったように「主が全知全能の創造主であり、御子イエス・キリストを犠牲にしてまですべての人々を救おうとなさる愛のお方である」ことを心に刻みましょう。

 そうすれば、私達はもっと自由に大胆に「与えられた命を全うすることができる」と信じます。このことも「私達が天国へいくために必要なこと」なのです。

 ただ失敗・間違いを認めるだけでは一歩は踏み出せません。そして素直になった上で、なお「神の赦し、神の愛」を信じて生きていこうとすることこそ大切です。「束縛されたのではない」自由な活動的な人生…それは「天国での永遠の命につながる」のです。

 結果的にこの管理人は苦境にあった多くの人を助けました。そのことも「天国にいくために必要なこと」ですが、この大切さはまた来週深く掘り下げます。

 このように今朝は、イエスが譬えられた管理人の姿勢から「私達が天国にいき、本当に価値のあるものを与えていただくために大切なこと」を学びました。①間違いや失敗を主なる神の前で素直に認め、告白しましょう。その上で②「神の赦し、神の愛」を信じて、自由に大胆に生きてまいりましょう。

 最後に、私が個人的に「今日のこの箇所とつながった」聖書のある場面を読んでメッセージを閉じます。 それはイエスの十字架の場面です。ルカによる福音書23章39~43節 新約聖書の158頁をお開け下さい。

 天国に行ったこの犯罪人もある意味で「不正な管理人」です。自分に与えられた命や時間、労力といったものを「犯罪のために使った」のですから。

 しかし!彼は言い訳せず自分の間違い・失敗を神であるイエス・キリストの前でしっかり認めました。そしてイエスが「天から来られた神であること」を認め、こんな犯罪人の自分をも「赦してくださる限りない愛のお方であること」を信じました。そしてイエスははっきりと彼が天国にいく」ことを宣言されたのです。

 私達も、同じように「天国に行き、永遠に朽ちることのない、本当に価値のあるもの」を神から与えていただきましょう。