「弱い者となって近付いて下さる主イエス」9/5 隅野徹牧師

  9月5説教 ・聖霊降臨節第16主日礼拝・聖餐式
「弱い者となって近付いて下さる主イエス」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書4:1~9


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいます。これまで3章までを読み進めましたので、今週から4章に入ります。有名な「サマリアの女」のお話しの箇所が42節まで続きます。

 2カ月前お話ししましたが、私が洗礼を受けるのを決心したのは、大学1年生のとき、三重県尾鷲市の青年の家で行われたKGKキリスト者学生会の夏期学校に参加したときです。そのときの主題となった聖書箇所が、ここヨハネ4章の「サマリアの女」の箇所でした。

 主講師からメッセージをいただき、その後グループに分かれて「感想を分かち合った」のですが、「聖書って奥が深いな…こんな風に、複数人数で分かち合うとさらに内容が迫ってくるなあ…」そのように感じたこの箇所。ぜひ皆さんにもこの箇所を通して「聖書を深く味わう楽しさ、素晴らしさ」が伝わることを願っています。

 大切な主題がこの箇所にいくつもありますので何回かに分けて語らせていただきます。初回は、先週の予告より少し短くして「9節までの部分」を味わいます。題につけたように「弱い者となって、私達に近づいて下さる、イエス・キリストの愛」を中心に語ります。共に御言葉にきいてまいりましょう。

 まず1~5節です。ここをご覧ください。

1節2節では、洗礼者ヨハネよりも、イエスの方が多くの弟子を抱えるようになったこと、そしてイエスの弟子たちがたくさんの人に洗礼を授けていたということが分かります。

先週瞳牧師がお話しした通り、洗礼者ヨハネは、自分の役割の終わりをしっかりと理解していました。人々が自分のもとを離れて、イエスのもとに近づくのを喜んだのです。しかし、このことに目くじらを立てる人たちがいました。それがファリサイ派の人々です。       

2章13節以下の「神殿での出来事」以来、危険人物としてイエスの言動に注意を払っていましたが、「ヨハネよりも多くの弟子を集めている」という情報を聞いて、イエスに対し何かの妨害を企てたのだと考えられます。それでイエスは、都エルサレムのある「ユダヤ地方」から、生まれ故郷のガリラヤへ退避されたのです。

イエスは全知全能の神の子ですから、ファリサイ派の攻撃をものともしない力もお持ちでした。そして何より「多くの民をご自分の弟子にしたり、ご自分の名によって洗礼を施す」ことは推し進め続けるべきことです。

しかし、無駄な衝突や混乱をさけるためにユダヤ地方から去って行かれたのです。そこには「ご自分が苦難を受ける時は、今ではない」というお考えがあったことでしょう。

まるで「弱い者」のように、都を去って生まれ故郷に退避されるイエス。しかし、そこには深いご計画がったのです。3節4節5節にそれが表れています。

ユダヤからガリラヤへ北上していく時に通らなければならないのが、サマリアです。聖書の後ろの地図6を開けていただけるでしょうか。この地図の上にガリラヤがあり、下の方に「ユダヤ地方」と書かれている場所があるのを見つけられたでしょうか。

サマリアはこの地図のちょうど真ん中あたりです。そこに「ゲリジム山」という山があり、その北に「シカル」があります。でも当時のユダヤの人たちは、ガリラヤに行く際にはサマリアを通らず、ヨルダン川の東側をわざわざ大回りして歩いていました。それはなぜかというと、ユダヤ人とサマリア人は当時、お互いに敵意を抱いており、口もきかないような関係だったからです。それはガリラヤ地方に住むユダヤ人も同じでした。

これは捕囚という悲しい歴史が影響していると言われます。サマリア付近を占領したアッシリアは、サマリア人の捕虜を自分の国に連れて行く一方、5つの民族の人たちをサマリア地方に移植させました。それでサマリアは「混血の人たちが住む地」となったのです。このことが原因でユダヤやガリラヤの人たちはサマリア人を軽蔑しはじめて「民族的対立」となったのです。でも…ユダヤ人としてお生まれになったイエスは、敢えて!サマリアを通られたのです。

 わざわざサマリアを通られてどこに行かれたのか…それが5節6節から分かります。シカルという町にある「ヤコブの井戸」という場所に行かれるためだったのです。

しかし、「さあ目的地に着いたぞ!」という感じの到着の仕方ではなかったのです。長距離を歩いて移動されたイエスは「疲れ切っておられて」座り込まれたのです。そして喉の渇きを覚えられたのです。

ここに「全知全能の神の子イエス・キリストが、弱い肉体をまとってこの世に来てくださった」ことを私たちは見ることができるのです。ヨハネ福音書は他の福音書よりも「神としてのイエスをはっきりと描いている」のですが、ここは「神であるけれども、弱さを持った人間としてこの世に来てくださった」ことをはっきりと記しているのです。

私たちは暑さで喉が渇きます。また疲れを覚えます。動かなきゃと思いながら、ぐったりすることがあります。しかし、そんな私達の弱さを神の独り子イエス・キリストは分かられないのでない、むしろ理解してくださるという慰めをこの箇所から受けましょう。

順番を入れ替えて8節を先にみます。

この8節では、弟子たちが食糧の調達に町へ行き、イエス一人が「井戸のそばで座って待たれた」ことが分かります。これは女と1対1でじっくりと話をするための配慮からですが、一方で「井戸の傍から全く動けないほど、イエスは疲労困憊だった」という見方もできます。民族的対立があるサマリアの町で食べ物を買いに行くなら何かしらのトラブルが起きることも予想でしたでしょう。普通であれば代表者であり、神の子としての権威を表しておられたイエスを置いて弟子たちだけで買い出しに行くことは考えにくいです。だから…イエスが疲労困憊で動けなかったのではないか、という考えは一理あるように思えます。

いずれにしても、ピンと立って待ち構えるようにして女と会われたのではない…「弱く、低くされたものの姿で女を待たれた」ということを心に刻みましょう。

それでは今日の中心の7節と9節を深く味わいましょう。(読んでみます)

イエスが疲れて、座り込んでおられた井戸に、ある「サマリア人の女」が水を汲みに来ました。この井戸は「ヤコブの井戸」と呼ばれるものでしたが、その井戸とシカルの町の間には1KM弱の距離があるのだそうです。シカルの町にはちゃんとした水汲み場があったそうです。それなのに、この女が「重たい水がめをもち1KMの道を暑いお昼時に汲みに行かねばならない」これには事情がありました。詳しくは来週見ますが、彼女は自分の町の井戸さえも使わせてもらえない、そんな道徳的追放を受けていたのではないかと言われています。

多くの人から非難・罵倒され、人目を避けているこの女性、しかしこの人に対し、喉が渇き、疲労されていたイエスが「水を飲ませてください」と頼まれたのです。

「低くて弱い、求める者」になって、「相手を上に置いて」イエスはお願いをされた。そのようにして、「人間不信に陥っていたであろうこの女」との対話を始められるのです。

 女がどう反応したか、それは9節にあります。一言でいえば、彼女は「驚いた!」のです。

それは2つの点においてだと考えられます。一つは、当時律法の教師は、公の場で女性に声をかけることはしなかったからです。彼女は、最初イエスのことを律法の教師だと勘違いしていたことが分かりますが、当時の律法の教師は「公の場で女性と会話してはいけない」という決まりになっていました。常に「上から目線」の人たちですから、「水を飲ませてください」などと頼んでくることはありえないことでした。  

 二つ目の驚きは、イエスはユダヤ人であり、自分はサマリア人だということです。先ほどお話しした通りユダヤ人はサマリア人とは歴史的ないきさつがあって互いを敵視していました。しかしイエスは「水を飲ませてください」と声をかけられたのです。彼女はとても驚いたことでしょう。しかし「自分が知っている律法の教師たちとは全く違う」と感じ、心を開き始めたと考えます。

ユダヤ人とサマリア人の間の民族の壁や、性別の壁、職業や階級の壁を乗り越えられて近づかれるのが主イエス・キリストです。しかも「絶対的権威を振りかざして壁をぶち壊す」のではなく、真反対に「あなたにお願いをします。助けてください」という「弱くて低い態度をもって」壁を乗り越えてこられるのです。

10節からは来週見ますが、多くの注解者が解説しているように、私は10節の前でイエスが実際に水を飲まれたと考えます。喉の渇きをいやし、一服いれたところで、次の話が始まります。また来週以降深く御言葉を味わいましょう。

最後に!今回の箇所が教える「大切なこと」を一つ皆様にお伝えしてメッセージを閉じます。それは「イエスは敢えて色んな人に頼み事をされ、そのことで救いの業を始めてくださる」ということです。

今回の箇所でイエスは、のどが渇き疲れ切った状態で「水を飲ませてください」と頼まれたことによって業を始められました。これを今の私達に当てはめるなら、「教会が、誰かに何かを依頼することによって、救いの業が始まるきっかけになる」というようなことでしょう。例えば、教会が困っているときに助けて下さる専門業者の方々や、皆さんが教会に来るために送迎して下さるご家族などです。自分は信仰を求めてはいなかったけれども、教会や教会員から何かを頼まれたことがきっかけとなって神・キリストと出会うということが実際多くあるのです。

それはサマリアの女と同じように「低く、弱くされたキリスト」が、何かを用いてその人と出会って下さるということなのではないでしょうか?些細な事でも「自分は教会のために協力した」という人が増えていくように祈ってまいりましょう。そして主の業が働くことを願いつつ、「神のためのいろんな手助け」をたくさんの人にお願いしてまいりましょう。(祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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