「求める者には聖霊が与えられる」5/28 隅野徹牧師

  5月28日 聖霊降臨節第1主日礼拝・ペンテコステ礼拝
「求める者には聖霊が与えられる」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書11:1~13


 今朝は、ペンテコステ礼拝として持ちます。このペンテコステは「神の霊、キリストの霊である聖霊が、イエス・キリストの召天後、天から豊かにくだってきて、宣教がはじまった」ことを覚える日です。教会の誕生日というふうにも表現されます。

そんなペンテコステの今日、説教箇所として選んだ聖書箇所は「聖霊について、イエスご自身が教えられている、ルカによる福音書11章1節からの部分」です。

今聖書をお開きでしょうか?まず1~4節ご覧ください。

ここは、先ほども皆さんでお祈りした「主の祈り」のもとになったイエスご自身の言葉が並んだ箇所です。

主の祈りは「主イエス・キリストが、私たちに対し、このように祈りなさい」と教えてくださったものなのです。主の祈りは、その祈りの内容が「子どもでも分かる平易なもの」であるにも関わらず、「内容的には、祈りに必要な要素を全て含んでいる」と言われます。「まだどう祈ってよいか、分からない」という方、また「祈りの言葉がスラスラと出てこない」という方には、この主の祈りを「心を込めて、1日に数回、ゆっくりと祈る」ことをお勧めします。

キリスト教は愛の宗教です。「祈りの言葉も、神の側から与えられる」ことがこの箇所から教えられるのです。

「熱心に、言葉を並べ立てて、人に良く見せようとする」祈りが推奨されているのではありません。 そうではなく、自分が「神の前でよい祈りをささげられないものである」ことを覚えて、遜って「祈ることにおいても、神の助けを素直に受けること」が教えられてきたのです。

今日、中心的に皆さんに解き明かしをするのは、その続きの5~13節ですが、4節までと同じように「自分の力に頼らず、神の助けを借りる」ことの大切さが教えられるのです。

この箇所はイエスが2つの譬えを話され、最後に結論をお話になるという構成になっています。この二つの譬えを通して「小さい人間でも助けることが分かるだろう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

まして、神が助けられない、そして最善のものを与えられないはずがないではないか、そのことを信じつつ歩むことは最善である」という結論に至っています。

神が私たちを助けるために「お与えになる最善の贈り物」それが「聖霊」であることを今日の箇所から味わいましょう。そしてお一人お一人のこころに「聖霊は何のために与えられるか」「与えられた私たちが、それをどのように用いたらよいか」ということが伝わることを願っています。

まず5~8節の一つ目のたとえの箇所を見ましょう。

ここでイエスが展開された話は次のようなものです。

ある人の家に、もともと親しい関係にある友達が真夜中に「パンを貸してくれ」と来た。「こんな真夜中になんだよ!子供も寝ているし面倒をかけないでくれないか…」と迷惑がられた。しかし、それにもかかわらず「申し訳ありません。でも本当に困っているのです。なんとかお願いできませんか?」と必死に頼んだ…そんなお話しです。

 この話を理解するうえで、私は4つのキーポイントがあると考えます。

①つ目は、真夜中に訪ねていったその人は「自分の必要を満たすために」行動を起こしたのではないということです。

真夜中に寝ている人の家を訪ねるのは明らかに非常識です。でもそんな「非常識」な行動へと彼を駆り立てたのは、「旅行中に彼の家に立ち寄った、別の友人」の存在でした。「このままだと旅行中の友人が困ってしまう」その思いをもっていたから、行動したのです。自分が困っているから行動したのではない…ということを覚えましょう。

②つ目のポイント、それは「私には手持ちがない。友人を助けたくても自分の力ではどうすることもできない」ことに気付いているからです。このことは非常に重要だと思います。私たちがもし「自分の力だけに頼って、周りの人を助けようとするなら、それは高慢だ」ということも、この箇所でイエスが教えようとなさっていると理解します。

③つ目のポイント、それは「この人が夜中に家を訪ねてまでして求めたのはパン3つだけであった」ことです。        

聖書の中ではしばしば「パン」は生きていくための必要な糧として譬えられていますが、まさにこの箇所もそうです。求めたのは「肉」「フルーツ」などの少し贅沢なものではありませんでした。                  

また「パン3つ」というのは当時の一人の人が一日に食べる平均的なパンの量だったようです。つまり、「旅人の友人」にとって多すぎず少なすぎず、贅沢すぎず、だからといって空腹で困ることのない、必要を満たす「ズバリそのもの」が与えられることを願ったのでした。

この後、「神に助けを求めて、与えられるものが聖霊だ」ということが教えられるのですが、聖霊は「私たちにとってズバリ必要なものなのだ」ということが示されるのです。                 

④つ目のポイント、それは、訪ねていった友人は、パンを持っているのが誰であるかを知っていたということです。だれ彼かまわずに助けを求めたのではなく、助けを求める対象を分かっていたのです。だからこそ、真夜中に突然訪問するという非常識な行動をしても、「あくまでたたき続けることができた」のです。

大切なのでもう一度今挙げた4つのポイントをおさらいすると…イエスが譬えの中で登場させた人は①自分のためでなく、他者のために行動を起こしたこと、②でも「自分ではどうにもならず、助けを呼ばねばいけないと思ったこと」そして③多すぎず少なすぎず、助けるのに最善なものを、④それを確実に持っていると分かっている人の所へ助けを求めに行った」ことをイエスが伝えられるのです。話されていることを頭に入れておくと、聖書がこの箇所を通じて示していることを理解する上で助けになります。

そしてこのことを発展させて9節10節の教えが語られるのです。「隣人のための執拗な願い求めを聞いた人は、必要なものを与えてくれることをあなたたちは理解できるはず。 それならば、私達の造り主である天の父は、本当に必要なものを必ず!与えてくださることが分かるだろう。」

そして最終的に「神に求めなさい。そうすれば本当に必要なものはすべて与えられ、満たされるのだ」と教えられるのです。

次に2つ目の譬えが語られる11~13節を見ましょう。

ここでは、5~8節と同じように「人間の親でさえこうするのだから、まして天の父がそうされないはずがあるだろうか」ということが教えられています。

ここでも読むときに注意したいポイントがあります。それは「魚を欲しがる子供にそのまま魚を、卵をほしがる子供にそのまま卵を与えるものだ」とは言われていません。

普通、親は子供の欲しがるものを「なんでもかんでも、そのまま要求したものを与える」ことが、ときに子供にとってよくないと分かるからです。親は子供の欲しがったものとは「違うものを与える」こともあるでしょう。それだけ親はその子のタメになるものを「その子自身」より知っているものです。                   

このたとえ話を通して、イエスはこう教えられたいのです。

「ときに間違いを犯す、不完全な人間の親でさえ、子供の害になるようなものは与えず、子供にとって最もよいと思われるものを与える」ということは分かるだろう。だったら私達を愛してくださる天の父は「私達にとって本当に必要なものをご存知であり、その本当に必要なものを与えて下さること」を信じることができるのではないか、ということです。

そして私たちにとって最も必要な「善い物」が「聖霊」であると、最後の13節で教えられるのです。

 冒頭にお話ししたように、今日は「この聖霊が私たちのもとに与えられた」ことに感謝するペンテコステです。「私達が生きていく上で必要不可欠なのが、神・キリストの霊であり、わたしたちの心の内で働く聖霊をであり、私たちが助けを乞うようにして神に願うならば与えられるのだ」ということを心に刻んでいただければと願います。

さて、今日の話のまとめ、そして一番大事なことをお話ししてメッセージを閉じます。

5~10節と11~13節の違う二つの話をつなげて考えるなら、「困難の中で誰かのために必死に求めるならば、神は私たちにとって最も必要である‘聖霊‘を与えて下さる」ということが教えられていることに気づきます。

神の霊であり、私たちの心の中で働く神の力である聖霊は、個人的な必要ではなく「誰かを助けるために」もっといえば「この世の中全体で、自分のなすべき務めを果たすために」与えられるものです。私達は「神の愛の本質である聖霊を宿すことによって、隣人を愛して行ける」、つまり「神の愛によって支え合うことができる」のであります。

これまで「聖霊なんてとくに必要ないから、祈り求めたことがない。そんなに大切なものだと思っていなかった」という方もあるかもしれません。しかし、今の世の中はとくに「神の愛に基づいて、助けるべき人、寄り添うべき人々が溢れている」ことに間違いありません。 教会の中にも、助けを必要とする方、心に寄り添い、お話しを聞いて差し上げる方がたくさんおられます。

 だからこそ、今日のペンテコステを一つの機会にして、「お一人お一人が聖霊に満たされ、困っている誰かのために、できる支えをさせていただく」ことを祈り願う、私たちになりたいと願います。

私たちには隣人を助けたり、悩みに応えられる力や、蓄えは全くありません。できることは「天の父のところに行って願うこと、そしてすべての必要の源である聖霊を受けて、隣人を愛することのできる力をいただく」ことなのです。

さきほどこどもメッセージでお話ししたように、教会のはじまりは「使徒たちが、神の霊である聖霊に満たされるように祈り」そして「神の愛に満たされた彼らが、迷いの中にあるエルサレムの人たちを受け入れて、共に生きようとした」それが原点なのです。

一人ひとりが、「本当に必要なものである聖霊を与えて下さるお方」に頼り、委ねることで、互いの重荷は担い合うことができるのです。そうすることで、教会はただの人間的な助け合いの場ではなく、神の栄光を表す場所として、輝き続けると信じます。

 (祈り、沈黙)