「癒されたいか?」3/15 隅野徹牧師

  3月15説教 「癒されたいか?」(受難節第3主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ヨハネによる福音書5:1~9a

 

 今教会の暦では受難節に入っています。イエス・キリストの十字架の苦しみ、その苦しみを通して私たちに何をして下さったかを覚えるのが「この期間」だというお話しを何度かしました。それとともに今日はもう一つ大切なことをお伝えします。

 それは、受難節の今「私たち自身が抱えている痛み・苦しみ」を正直に神・イエスに告白する、ということの大切さです。 それはイエスの十字架の苦しみが私たちの罪の身代わりということとともに、「日々いろんなことで苦しんでいる私たちの痛みを主イエスが分かって下さる、ともに担い、支えて下さる」ということを心から理解することにつながるからです。

 4日前は東日本大震災から9年目の日でしたが、未だに苦しむ人が沢山おられるほか、その後も各地で自然災害が頻発しています。ここ山口は直接の被害はないものの、あの日以来「言いようのない不安、恐れ」といったものが日本全体を包んでいるのではないでしょうか?

 本当の意味での復興は成されていない…多くの人がそう感じる状態の中で、次々に起こる災害。地球温暖化や環境問題も大きくクローズアップされる中で今回の「新型コロナウイルスの世界的蔓延」。

 「神様、助けて下さい!」と祈り願う一方で、先の見えない不安感から「絶望感や諦めの気持ちが起こる」という方もおられるでしょう。

 そのような中で迎える今朝の礼拝ですが、説教箇所は示されて、ヨハネによる福音書5章の「ベトザタの池の奇跡」を選びました。ここは今年の世界祈祷日にあたり「世界中の教会に読むように示された聖書箇所」でもあります。 有名な箇所ですが、改めて共に御言葉を味わいましょう。

 まず1~3節です。

 エルサレムの神殿の北東にある門の側に、「ベトザタの池」という池がありました。ベトザタとは「憐れみの家」という意味で、回廊になっていたようです。

 その回廊に池がありました。その池は、間欠泉だったのか、水の動きがあったようで、時々その水面が動いたそうです。言い伝えによると、その時、最初に水の中に入った者は、どんな病気にかかっていても癒やされたと言われていました。だからイスラエル中から、病気の人がやってきてこの池の周りで「貴重なそのチャンス」を待っていたのです。

 そんな馬鹿な…と思われるかもしれません。でもここで描かれた状況は、今の私たちの社会と何ら変わらない…そのように私は考えます。まず「病んだ人が大量にいる社会」です。現代の日本も、医療が進歩とは関係ないかのごとく「霊肉に不調を抱えた人が多くいる状態なのではないでしょうか?

 そして迷信が飛び交う社会です。最近はとくに「間違った情報、デマ」が飛び交い、それに翻弄されることが多いように思います。この場面とよく似ています。

 そして「弱肉強食の競争社会」が描かれていますが、これも現在の私たちの社会と同じです。 迷信ですから「一番先に飛び込んだものが、幸福を得られる」ということで賞賛される一方で、その力を有しない者はいつまでたっても見捨てられています。だれも助けない…現在も格差社会だと言われますが、本当によく似ているのではないでしょうか?

 その中に、38年間病で苦しんでいる人がいました。そして、この人に主イエスは近づかれるのです。 5節から7節を読みます。

 38年とありますが…これは、その当時の平均寿命よりも長いそうです。この人の病の重さがとてもよく分かります。しかし、この人はもう回復への希望や、癒やされたいという意欲さえも消え失せていたことも読み取れます。

 7節をご覧ください。彼は癒やされない理由を人や環境のせいにするようになっていました。そうすることで、何とか自分の恵まれない境遇から目をそらし、気を紛らわしていたのでしょう。あるいは、その悲しい境遇を人に見て貰うことで、同情をかって慰めを得ていたのかも知れない…そのように理解する人もいます。厳しい言い方かもしれませんが、彼が横たわっていたその床が、彼の安全地帯だったと言えます。

 しかし!その状況はある出来事によって一変しました。神の子イエス・キリストが目の前に来られたのです。それが6節です。

 6節は今日の説教題にも選ばせてもらった大切な事柄が書かれていますので、深く掘り下げます。

 イエスは、目の前に大勢いた「病む人」の中でも一番絶望的なこの人に目を留められました。 そしてただ目を留められただけでなく、この人の状況について詳しく知ろうとされたのです。私たちの抱える苦しさを知ろうとしてくださる、そして「知っていて下さる」主の愛を感じます。

 そしてイエスは「良くなりたいか」という声をこの人にかけられたのです。「良くなりたいか」という問いには、病人の心を希望に向けさせ、その心に希望の光をともす力があるのです。 

 人となられた神の子イエスは、人間の苦しみをよく理解され、思いやりとやさしさに満ちた目で見つめてくださることを心に留めましょう。

 このイエスの問いに対して、38年間病気に苦しみ床に横たわっているこの人は何と答えたでしょうか?それが7節です。

 イエスは「よくなりたいか?」と尋ねられたのに、彼は「はい、癒やされたいです」とは答えないで、「誰も池の中に入れてくれない」と答えたのです。これは自分の境遇を嘆き哀れむだけの言葉です。これはある意味無理もない言葉なのかもしれません。彼は「主よ」とイエスに言ってはいますが、目の前に立っておられるイエスがどんなお方なのかよく理解していないと思われます。そしてこのお方が全能の神なので、御心ならどんなことでも可能であるという信仰も持ってはいなかったことも間違いないと思われます。

 でも、イエスは、彼に「質問に応えなさい」とか「よくなりたいのでないなら、私はもう知らない!」とおしかりになることは一切なさらないのです。そして言われたのは「起き上がりなさい!床を担いで歩きなさい!」という言葉でした。

 とても簡潔ですが具体的な指示があります。実はこの短い言葉・指示ですが、この病人に「チャンスを与えておられる」のです。

 これまで、自分の境遇を嘆き、人のせいにして生きてきたこの人。自分から何かを変えようとは思えず、「良くなりたいか?」ときかれても「良くなりたい」と答えない彼…。そんな状態でも決して見捨てることをなさらず、変わるチャンスを与えられたのです。

 この病人には「行動を起こさない」という選択肢もありました。

 どうせよくなるはずがない…という思いでイエスの指示を無視することもできたのです。しかし、彼はイエスの御声に「従おう」としたのです。

 実はこれが大切な分岐点なのです。 苦しさの中で私たちに近づいて下さり傍にいてくださる救い主イエスを無視するのか、それとも「そのお言葉を聞いてみようと思うのか」それは人生を変える大きなことなのだ…そうこの箇所は示していると考えます。

 ずっと立てなかったこの人が行動を起こすのには勇気がいったことでしょう。なにせ「起き上がる」という感覚さえも失っていたでしょうから、どうすれば立てるのか…という思いはあったのではないかと私は思います。

 また不安や疑いがあったかも知れません。「立てなかったらどうしよう」とか、「どうせ歩けないに決まっている」そんな思いもあったのではないでしょうか?

 しかし彼はイエスの御声に従って、「起き上がり」「床を担いで」「歩く」ことを選び取りました。そして「癒された」のです。それは「体の癒し」だけではなく、「魂の癒し」でもあったのです。 

 最初にもお話ししましたが、私たちには日々生きていく中でいろいろな痛み、苦しみがあります。また今の日本社会には「いいようもない不安感、また絶望感」があります。しかし、そのような中でも、救い主イエス・キリストは確かにいてくださり、私たちの苦しみに寄り添ってくださるのです。「良くなりたいか?癒されたいか?」と私たちに問うてくださっているのです。

そんな癒し主を信じて「一歩を踏み出す」ことを大切に歩んでまいりましょう。