「神の子となる」5/16隅野徹牧師

  5月16日説教 ・復活節第7主日礼拝
「神の子となる」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:10~13

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 3週前の礼拝から、ヨハネによる福音書を主日礼拝で続けて読むこととなりました。先週少し「ヨハネによる福音書」が書かれることになった背景についてお話ししましたが、段々と教会が成長し、3つの共観福音書によって「イエス・キリストに関する証言」も文書化されていましたが、依然として「神が肉体をとって人間となられ、世を罪から救い出された」という教えはギリシャ哲学が栄えた当時の世の中から「軽蔑され、拒絶されていた」のです。だから「キリストの生きた証言」として、ヨハネ福音書は書かれたのです。

そのような状況で、ヨハネによる福音書の著者「ヨハネ」は、「神は本当に、その独り子を、肉体をもった人間としてこの世に送られたのだ」ということを証しすることを神から示されたのです。ヨハネによる福音書は「出だしのところ」から、いきなり「キリスト証言」が深い表現でなされています。

今回の箇所である10~13節では「神が人となってこの世に来てくださったことの目的」は、ご自身を信じる者に、「神の子となる資格」別の訳では「神の子となる特権」を与えるためだと教えています。

今回の説教題にも思いを込めて付けましたが、これは罪深い私たち人間が、それでも「神の子とされる」という恵みが「言であるキリスト」によって特別に与えられるという希望が今朝の箇所で示されているのです。共にみ言葉を味わいましょう。

今回のメッセージの中心となるのは12節です。(改めて、この節をゆっくり読みましょう)

この節が示していること、教えていることがいくつかあります。

  • 一つ目は「人々」つまり、「ある人間たち」は、人間でありながら「神の子となる資格・特権が与えられるのだ」ということです。

罪深く、弱さを持った私たち人間が、完全なお方であり、永遠に存在されているお方、全知全能の神の子となれる…考えてみれば不思議なことです。なぜ罪深い人間が「神の子」となれるのか…少し掘り下げて考えましょう。 

新約聖書は「神の子」という言葉を二つの意味で使用しています。単数形の「神の子」という場合と、複数形の「神の子たち」という場合、違って意味を表しているのです。

単数は一か所で「アダム」を指す以外はすべてイエス・キリストのことを指しています。つまり「単数の神の子」は純粋に「神様としておられる方」を表しているのです。

複数形の場合は「キリストを信じる者」を指しています。この12節も、英訳聖書では「チャイルド」ではなく「チルドレン」となっていますから、こちらなのです。本当なら「神の子どもたちとなる権利」と訳されてよいのだと思います。

 私達は、主イエスのような「神」ではないけれども、しかし「神の子どもたちとさせていただける」のです。

ある神学事典ではこのことを次のように説明しています。

「キリストが神の子である、ということは、彼の本質的な、永遠の性質を語る。一方で私たちが神の子であるということは、私達が養子とさせていただけるという意味である。私たちの被造物としての性質が変えられるということではない。しかし、目に見えないかたちで、主にある多くの兄弟姉妹と一緒に生まれ変わることができることを表している。」

お分かりいただいたでしょうか。12節から分かる大切なことの一つ目は「ある人間たち」は、人間でありながら「神の子どもたちとなる資格・特権が与えられるのだ」ということでした。

次に、12節から分かる2つ目の大切なことです。それは②すべての人間は神が造られたが、生まれつき神の子なのではない、ということです。

これは厳しい教えに感じますが、これが現実なのです。

私達は神によって創造されました。機械的に造られたのでもなければ、無関心に冷徹な思いで造られたのではない、ということをお話ししています。「言」による創造という表現には、本当に大切なものが秘められています。

今回の箇所では10節に出てきます。「言は世にあった。世は言によって成った」とあるこの言葉…ここに神が「この世界と私たち人間をどのような心によって造って下さったのか」が豊かに表されているのです。

神は私たちに「言」を通して語りかけ、私たちとの交わりを持とうとして「世界と私たちを創造して下さった」のです。この世界と私たちを心から愛して下さっている、私たち一人ひとりは、まさに「神の愛によって形づくられている」ことが分かります。

「この世のものは全て神の愛によって造られている。神の愛を受けて存在していないものは何一つない」ことを聖書は訴えかけるのです。しかし!そのままで「神の子どもたち」なのではないのです。

それは世の現実が表しています。10節と11節と13節を読みます。

11節はとくに、人間としては「イスラエル民族の血を引くもの」としてこの世に来てくださったイエス・キリストが、そのイスラエル民族から受け入れられなかったことが表されています。

イスラエル民族は、「自分たちはアブラハムの子孫である。神が選ばれた特別な選民だ」ということを誇りにしていましたが、血のつながりが、そのまま「神の子とされる権利」なのではありません。

神は確かにアブラハムを選び、救いの基とされましたが、安易な選民思想におぼれたままで肝心なことが抜けるなら「神の子どもたちとなることはできない」のであります。13節の言葉の通りです。血のつながりや、子孫を残すことなど人間の努力が「神の子どもたちにならせていただく」ことにはつながらないのです。

そして10節です。ここでは「イスラエル民族」だけでなく、全人類が創造主である「神の言」を受け入れようとしなかったし、その愛を拒絶したことが表されています。残念ですが、これが世の中の現状です。ヨハネ福音書が書かれた頃から約2千年が経ちましたが、多くの人が「自分の命の根源であり、造り主である神・その独り子であり救い主であるイエス・キリスト」を知ろうとせず、受け入れようとしない…

この言葉を見るとき、なんとも切なく、やるせない気持ちになります。しかし、神ご自身がどんなに悲しんでおられるか、ということを思います。

親が子をどんなに愛しても、子はその愛を拒絶し、「他人として生きる」ことができてしまうのです。有名なルカ15章の「放蕩息子のたとえ話」の弟息子が分かりやすいと思います。少し思い出してください。

彼は、自ら親との関係を断とうとして出ていき、放蕩の限りをつくします。この段階ではたとえ血はつながっていたとしても本当の意味での「親子」であるとは言えない状態です。

しかし、弟息子が本当に意味で「父親と親子になれる」時がきます。それは自分の弱さをそのまま認め、悔い改めて父親に立ち返り、そして実際に口に出して謝ったことで、父が抱擁し、そして祝いの宴をもったときです。

親子の契りの印である指輪がはめられ、立派な礼服を着せてもらいました。このとき、弟息子は本当の子になったのだと私には示されます。

弟息子を本当の意味で「親子にさせた」のは、血筋ではありません。またお金でもありません。ただ父の一方的な愛だということが分かります。弟息子がしたのはその愛を拒絶しないで受け取るということだけでしたが、その「愛を受け取り続けること」が大切なのです。

父の愛の証である「指輪」と「着物」。これを身に着けていることで、彼は「父からの愛をいつでも感じること」ができたことでしょう。「こんなもの身に着けたくない」と拒むこともできたでしょうが、そうしなかった。それは「ずっと父の子でいたい。その愛を受け続けたい」と思ったからではないでしょうか。

私達も同じだと思うのです。私たちが「神の子どもたちの一員になる権利」は、神からの一方的な恵みによるのです。そこには差別はありません。血筋など家柄で神の子どもたちとなる権利が与えられるのでもなければ、能力によるのでもありません。罪深く、弱い私、とくに秀でたものがない私でも、神からの一方的な愛と恵みによって「神の子どもたち」に加えて下さっていることを改めて感謝したいと思わされました。

一方で私たちの方の側で「神の子どもたちの一員になるために」必要なこともあります。しかしそれは単純なことなのです。ただ「神・キリストからの愛を受ける」こと、そして「この愛を受け続けていたい」と願い、望むことです。

最後に、今お話しした私のメッセージがそっくりそのまま語られているかのような聖書箇所をご一緒に読みたいと願います。

 新約聖書の346頁をお開き下さい。私の大好きな箇所なので度々開く箇所でありますが、ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節です。

言わずもがなですが、26節の「神の子」は元の言葉で複数形です。わたしたちは生まれつき神の子ではないが、イエス・キリストを救い主として受け入れることで、天の国の宴に加われる「礼服」を着させられるのです。

内実は「弱い人間のまま」でも、イエス・キリストという礼服を着るようにして「神の子どもたち」の一員に加えられることが叶うのです。そのことを改めて「喜んで」一生この愛から離れたくない!という思いを強く持っていただけることを望みます。(祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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