「神の選び」5/7 隅野徹牧師

  月7日 復活節第5主日礼拝
「神の選び」隅野徹牧師
聖書:申命記7:6~11


 今年度から、日本基督教団の「聖書日課」に載った聖書箇所から説教箇所を選ばせていただいています。今朝は、選ばれた箇所の内、申命記の7章6~11節からの部分にしました。

申命記とは「漢字が表しているとおり」、神からモーセに告げられた「命令」を、モーセ自身が「申し述べている」書物です。

ご存じの方も多いと思いますが、出エジプトの時、神がお立てになったリーダーである「モーセ」は、約束の地であるカナンを目前にしながら、この世を去ります。そのことは予め「神が予告しておられたこと」なのでした。

モーセは、神から予告をうけた後、約束の地カナンの地を目の前にしたヨルダン川の東で、民たちに神からのメッセージを伝えます。今日の箇所もそのモーセがした説教の一部です。

申命記の7章は、「神がイスラエルを選ばれ、契約を結ばれた!」そのことの意味が教えられ、この先入って行く約束の土地において、どのように生きるべきかを教えている箇所です。その根拠が記されているのが6~11節なのです。

まず、今回の箇所をより深く理解するために、皆さんに「契約を結ぶ場面」を思い浮かべていただきたいと思います。「雇用契約」「賃貸契約」「売買契約」、そして「婚姻の契約」などいろいろな契約が思いつくと思います。みなさんが契約を結んだ後には何かが発生するのですが、分かりますか?

それは「双方守らなければならないルール」、言い換えれば「掟」が発生します。契約とルール、掟は切り離せないものなのです。今日の聖書箇所の前後ですが、その「掟」が並んでいる部分です。その中にあって6~11節で「なぜ掟を守っていく必要があるのか」その理由が書かれているのです。

そもそも、なぜ神が掟を与えられたのか…そのことを考えてみたいと思います。

神によって造られた被造物である私たち人間は、本当なら創造主である神の御心にかなった生き方をせねばならないのです。しかし、私もそうですが人間一人一人はみな「何が正しいことなのか」が分からない、罪深いものです。放っておけば間違いを犯してしまうようなそんな者です。

そんな人間に対し神は「道を外れることのない様に」とルール、いいかえれば掟を与えてくださっているのです。最初の人間アダム・エバまでさかのぼって考えてみましょう。

創世記3章に示されていますが「この木の実だけは食べてはいけない」というのが人類に最初に与えられた掟でした。それには神に従って命を得るか、それとも背いて死ぬかということを選んでほしいという意味があるのです。

神は掟を与えるとともに、人間にはそれを破ることもできるという自由意思もお与えになりました。決してただ掟を何も考えないで守るというロボットのように人間をお造りになりませんでした。

このことから何が分かるかというと…「掟を守って自ら命と祝福を選び取ってほしい」という神からの愛です。これが人間の「契約の考え方」と全く違うところなのです。

よく「キリスト教は決まりを守らなきゃいけない堅苦しい宗教だから、信じたくない」という声を聞きます。しかし、「神の契約・掟」には人間には分かりにくい「大きな愛」が根底にあることを「まず!」覚えたいと思います。

その上で今日の説教箇所の申命記7章のうち、まず6~7節を読みます。

この部分では、神が全人類の中からイスラエルを選んで、契約を結ばれたのか、その理由について教えられています。

6節で神は地上のすべての民からイスラエルを選び、「契約を結んで、掟である律法を与え、神ご自身の宝の民とされた」ことが記されてい「ます。これは全人類の中から代表してイスラエルが神との特別な関係の中に入ったことを意味します。

神がイスラエルに期待したのは契約の民として、本来最も人間らしい、神との生きた人格関係の中で生きるということでした。すなわち「神の御旨に従って生きる」と素晴らしさを全人類に先駆けて示すことでした。

では、全人類の中で特別になぜイスラエルだけが神に選ばれたのでしょう。その理由ですが、7節から分かるのは「主なる神が愛し、心引かれた」ことです。対して選ばれた側のイスラエルは数も多いわけではなく、「貧弱だった!」ということが書かれています。

想像していただきたいのですが、皆様が「愛し、心引かれる」というとどのような相手でしょうか?きっといろいろと条件があると思います。

しかし!主なる神がイスラエルを「愛し、心引かれ」たのは、人間が考えうるような「魅力からではない」ということがこの7節に記されています。

今日の説教題にもつけた「神の選び」は人間の考えの遠く及ばないことですが、しかし、今回の聖書箇所の申命記7章7節からはっきりと分かる確かなことがあります。それは、神は人間的に見て「役に立たない。価値がない」と思われるような人をも愛して下さり、ご自分の宝として選んでくださることです。このことは現代を生きる私達にとっても慰めと励ましを与えてくれます。私たちにも同じ期待がなされているのです。

 さて…特に優れている点を見出せないのに、神から特別に選ばれたイスラエルの民達でしたが、神から期待された歩みが出来たのかといえば、そうではありませんでした。

申命記は、約束の地を目前にし、ヨルダン川を渡る直前にモーセがこれまでを振り返りながら語っているという内容ですが、エジプトを出てからこのヨルダン川に至るまで民達が何度も神に背いています。「自分たちに都合のよい偽物の神を作り出して、拝む」ということさえしてしまったのです。

神の大きな奇跡的な業によってエジプトを脱出できたのに、いつしかそのことへの感謝は心の片隅に行ってしまっている様子が見て取れるのです。

イスラエルの民だけでなく人は皆、神から受けた感謝を忘れてしまいやすい生き物です。もちろん私もその一人です。

しかし!だからこそ!この箇所の御言葉を自分へのメッセージとして受け取ることが大切なのではないでしょうか。ヨルダン川を渡り、約束の地に入るという新しい段階に入るというこの場面で、「神から契約を結んでもらって本当の理由」が記されているのです。そのことによって理解に乏しく、忘れやすい「一人一人に対して」大切なメッセージがモーセを通して伝えられるのです。

続いて8節から10節をお読みします。

8節からは、「神は誠実である方であるから」イスラエルと契約を結ばれたのだということが分かるのです。

その一方で厳しさも表されているのです。9・10節にある「従順であれば祝福を、そうでなければ裁きを」ということは「善や悪に対して正しいという神の誠実さ」を表しています。

「神は最初から悪に対して、目をつむり、赦せばよいだけの話ではないか」という意見を仰る方があります。しかし、私はそうは思えません。「悪に対して、きちんと怒りを現される、そんな正しいお方だからこそ」神を神として崇め、従って生きていくことができると私は考えます。

神は「約束を破られない愛のお方」です。イスラエルがどんなに罪を重ねても、一度結んだ契約を破棄なさらない神であられます。しかしその一方で、「人間が犯した罪を放置されない、罪に対して怒りを現わされるお方」でもあるのです。

その「相容れない」はずの二つのことを解決したのが、御子イエス・キリストなのです。

神の独り子である、イエス・キリストが「十字架にかかってくださったこと」で、人々の罪に対する神の怒りがなだめられ、そして「イエス・キリストが罪の力、死の力を打ち破って復活されたこと」によって、「神がご自分の民たちを救い、祝福する」という契約が守り抜かれたのです。

人間は大いなる神のことを知ることができない小さな者です。しかし「神は私たちを愛してくださる。そして誠実で間違いのない方である」ことを覚えていましょう。

先ほど、この聖書箇所の場面は「苦難の荒れ野旅の終着の直前だ」という話をしました。約束の地に入って新しい生活が始まれば、ここまで奇跡の業を通して示された神御自身の姿を思い出さなくなるかもしれないということを、神は分かっておられた。だからモーセを通し「神は愛にあふれる一方で、罪や悪を見逃すことのないお方である。しかし、一度交わした救いの約束を破られることのない誠実な方である」ということを繰り返し心に留める必要がある」と民たちに教えているのです。

最後に残った11節を味わって、メッセージを閉じます。

ここまで、神は貧弱なイスラエルの民を人格的に心引かれるまでに愛される方であること、過去イスラエルに対してされた誓いを守られる誠実な方であることが教えられてきました。しかし、民たちがただ「神がどんなお方か」を知りさえすればいいのではない!ということがここで示されるのです。

何か優れた点があるわけではないイスラエルを神が愛し選ばれた理由、それは「神の愛を知った者として、弱さのなかでも神を愛し、神に従順であり、祝福を受けることを期待しておられるから」なのです。神の愛に応えて生きるために「戒めと掟と法」を守って生きることを教えておられるのです。

イスラエルを神は「御自分の宝の民とされた」と6節で教えられています。これはイスラエルが「神にとっての特別な所有物である」ということです。所有物であるということは「聖なるものとなり、神に仕えるために他から区別されて生きる」ことが求められるのです。

イスラエルの民は、神によって造られた全人類が本来生きるべき生き方を示すために、神と人格的に交わる特権とともに、その「すばらしさを証しして生きていく」責任を委ねられているのです。

これは現代の「新約時代のイスラエル」であるキリスト教会にもあてはまることなのです。私たち「山口信愛教会に集う者達」にも誇るべき点は何もありません。ただ神の側の一方的な愛による約束、契約によって特別に「神と人格的に交わることをさせていただいている」のです。その事実に「あぐらをかいてしまうのではなく」積極的に、主を証してまいりましょう。

そのためにこそ、私たちは今日この礼拝に招かれている、ということを心に留めていただいたら幸いです。  (祈り・沈黙)