「神を知り、神の言葉を守る」7/17隅野徹牧師

  月17日 聖霊降臨節第7主日礼拝
「神を知り、神の言葉を守る」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 8:48~59


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 山口信愛教会の主日礼拝で続けて読んでいるヨハネによる福音書8章。ここのところの聖書箇所である8章は、律法学者をはじめとするユダヤ人たちと、イエス・キリストとの対話が続く場面です。大変分かりにくい箇所でしたが、今回が最終回です。

イエスは、目の前にいるユダヤ人たちが血筋上「アブラハムの子孫である」ことは認めつつも、本当の意味で彼らはアブラハムの子ではない、とイエスは仰います。それは「神の言葉を受け入れない」こととともに、「イエス・キリストを殺そうとする」からだと仰るのです。

ここでの「キリストを殺す」とは、霊的な意味で!神の独り子であり、救い主であるキリストを殺すことである。そのキリストを霊的に殺す力の根源が「悪魔」であるということを先週お話ししました。

44節に「悪魔が人殺しである」というイエスの言葉が出ますが、これは十字架に追いやったというよりも「悪魔がイエスを誘惑することで作り上げようとした救い主像」に人々がまんまと乗ってしまい、心が荒廃することをいっています。

これは当時のユダヤ人たちだけではなく、今現代を生きる全世界の人間に対しても語られた言葉だと受け止めます。

今日の箇所は、厳しい中に愛のある「一連のイエスの教え」の締めくくりの部分です。イエス・キリストが「何者であるのか」そして「キリスト教が教える永遠の命をどのようにもたらすお方なのか」教えられる箇所です。深く味わってまいりましょう。

まず、簡単に今日の箇所48節から59節のあらすじをお話しします。

47節までの問答で、イエスに不信感を抱いたユダヤ人たちは、「あなたは悪霊に取りつかれている」と48節でいいます。これに対しイエスが答えられるのですが、中心は52節です。今日の説教題にも付けましたが「イエスの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない」という言葉でした。

この「イエスの言葉を守ること」と「決して死を味わうことがない」ということについては後程深く掘り下げます。

ユダヤ人たちはイエスの言葉を全く理解できず「あなたは一体何者だ」というような言葉を掛けます。

これに対するイエスのお答えが54節から58節です。ここでイエスはご自分が一体何者であるのかを、ご自身の言葉で答えられます。とくに注目すべきなのが58節です。「イエスがアブラハムの前から存在しておられる、まことの神である」ということをご自身ではっきりと表しておられるのです。

イエス・キリストは人の姿をとってこの世に来てくださったのが2千年前のクリスマスの出来事ですが、58節の証言の通り、神の子として、天地創造の前から存在しておられるのです。

天地創造の場面を記した創世記1章26節、人間が神によって創造される場面も「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」という神の言葉がでますが、単数ではなく「我々」と複数になっています。

これはイエス・キリストも「天地創造をなされた」ことを表すものです。

コロサイ書1章17節にも「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」という言葉があるように、イエス・キリストは私たちの創造者にして、永遠の存在したもうお方なのです。

このお方が「人となって、この世に来てくださった」のです。それは私たち人間を罪から救うために他なりません。そして永遠の命を与えて下さるのだということを今回の聖書箇所は「強く証している」のであります。

さて、イエスによる「この自分についての証言」ですが、聞いていたユダヤ人にとって「神への冒涜だ」と思えるものでした。彼らはイエスを石打ちにしようとしました。しかしイエスは身を隠すようにして神殿を出て行かれたのです。

イエスはこの少し後、人々から十字架にかけられ殺されますが、この場面は「まだ神の時が来ていなかった」ことが示されるのです。

以上が今日の箇所のあらすじでした。

最初にお話ししたように、今日の箇所からは「イエスが何者であるのか」そのことについて大切なことが示されていますが、ユダヤ人たちが全く理解できていないように、ここでのイエスのご自身の証言は「簡単には理解できない」ものです。

私は、今回の箇所を理解する上でキーになると考えるのが、説教題にもつけた「言葉を守る」という表現です。 今回の箇所では51節、52節、54節と3回も出ます。そして、この「言葉を守ること」が、「死ぬことがなくなる」ことにつながることが教えられます。

ユダヤ人たちは誤解していますが、ここで言われる「死ぬことがない」は、この地上でいつまでも生きられることではありません。「永遠の命」という表現でよく表されますが、この世での肉体の命を超えて「霊的に、いつまでも神と共にいることができる」その命に導かれることを意味します。

このように「永遠の命」につながるのが「言葉を守ること」だとイエスは教えられます。

これは、イエスの教えられた勧めや戒めを「行動として守り抜く」という意味ではありません。ここで「言葉」と訳されているギリシャ語の原語は「ロゴス」という語です。

日本語に訳すのが大変難しいとされたこの「ロゴス」。みなさんも聞かれたことがあると思います。この「ロゴス」が沢山でてくるのが、ヨハネによる福音書の1章ですが、このはじめの1章の「キリスト証言」と、今回の8章での「キリスト証言」が重なっているように私は感じます。

そして両方を重ねてみることで、聖書が私たちに「何を伝えようとしているか」が深く理解できると考えますので、ヨハネ1章を最後に見ようと思います。

皆さま、新約聖書のP163をお開きいただけるでしょうか。

1章の1~5節、10~14節を読んでみますので、皆さんも目で追ってみてください。

いかがでしょうか?今回の聖書箇所である、ヨハネ8章に記された「イエスご自身の証言」と重なるところが多いと感じられたのではないでしょうか。

8章の54節、イエスは「私に栄光を与えて下さるのは、私の父である」と仰っていますが、それは1章14節の言葉と全く一致します。

またご自身が「アブラハムの前から存在された」という証言も、1章1節から3節と全く一致しています。

 そのことを確認した上で、今回の箇所のヨハネ8章の一番大切な教えである「永遠の命」につながる「言葉を守ること」とは何なのかを、1章から考えましょう。

 皆様まだP163、ヨハネによる福音書1章をお開きのままだと思います。

 このヨハネ1章では「ことば」とは、「キリストご自身である」ことがはっきりと表されていることがお分かりだと思います。

 言葉を守るとは、「ただ教えを守ること」を超えて、「キリストと一つになる」「キリストを信じ受け入れる」ことを意味していることがお分かりにいただけたのではないでしょうか?

 12節13節「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」とあります。

イエスのお言葉通り、アブラハムもこの希望を待ち望んだことが聖書全体から分かります。弱く罪深い私たちが、それでもキリストによって特別に神の子としていただき、「霊的に死ぬことがない」神と永遠に共にいることができる希望が与えられるのです。

この希望を与えることができるのは、イエス・キリストだけである、そのことを今日の聖書箇所は強く示しています。私たちは改めて、イエス・キリストとともに歩めることの感謝を心に持ち、その感謝を世の多くの人に証してまいりましょう。(祈り・沈黙)

 

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