「神の国に欠かせない一人ひとり」1/19 隅野徹牧師

  1月19日説教 「神の国に欠かせない一人ひとり」(降誕節第4主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書15:8~10

 

 先週から、続けて読んでいましたルカによる福音書に戻りました。先週、今週、来週と読む箇所は15章です。聖書をお開きでしょうか?有名な譬え話が続いている箇所です。先週は「見失った羊の譬え」でしたが、今週は「無くした銀貨の譬え」そして来週が「放蕩息子の譬え」です。いずれもイエスに対して反感を抱いていた「ファリサイ派や律法学者のひとたち」に対して話されたもので、一つ一つが繋がった話です。

 今朝はその中の「無くした銀貨のたとえ」を読みますが、ここから、皆さんが一人ひとりが「神にとってどれだけ大切な存在なのか」そして「人生の歩みを最善に導こうとされているか」を感じていただければと思います。御一緒によみすすめてまいりましょう。

 まず、つながりを確認するために、先週語った15章の1~7節を簡単に振り返ります。

 1~7節は「見失った羊」のたとえですが、イエスがこのたとえによって語ろうとしておられることはごく単純に、自分の大切なものが無くなったら、必死に探し回る。そして元に戻ったら仲間と一緒になって喜ぶ」ということです。神も同じように、ご自分の大切なものが失われていくのを、放っておくのではなく、捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとなさるのです。

「迷い出た羊」にたとえられている「私たち一人一人」のことを、神様が、「ご自分のものとして大切に思って下さり」捜しに来て、見つけ出し、ご自分のもとに取り戻そうとして下さるのだ、ということです。 このたとえの続きにとして今回の箇所である8~10節が語られます。

 8節9節を読んでまいりましょう。

 まずドラクメ銀貨1枚とは現在の日本のお金では約400円に相当するとされます。400円を無くしたとしたら皆さんはどうするでしょうか?貧しい労働者が1日で得ることのできた金額が大体そのような額だったとされますから、その日暮しで毎日の生活している人なら必死に探すかもしれません。しかし、1日暮らすのに必死な人が、それを見つけて近所の人を集めるでしょうか?

 もしこのたとえの女性が「400円相当の銀かを必死に探して、生活費をまかなわなければならないほど貧しい」のでしたら、そもそも銀貨は10枚も持てなかったでしょう。また、何枚か持っていたうちの1枚をなくした…という例えがしたいのなら、なにも「最初に10枚もっていた」という前提でなくてもよいと思います。それではなぜ10枚という譬えをされたのでしょうか…?

 私たちの常識とは違っているように感じる、このたとえ話を理解するために鍵になることがあります。それは8節の最初です。

 ここでイエスは「女は銀貨を10枚持っていることを前提のようにして」話をはじめられているように見えることです。 ここでこのたとえを聞いている人の中心は「ファリサイ派や律法学者の人たち」です。

 そんな彼らが当然知っている「常識」の話というような感じで、唐突に「ドラクメ銀貨を10枚もっている女がいて」という譬えが始まっているのです。つまり、現代の日本に住む私たちは「10枚の硬貨」と聞いても何もピンときませんが、当時のイスラエル人ならだれでもが「ピンとくる」エピソードがあったのです。             

 実は「有力な説」があるのです。それは次のようなものです。

「パレスチナでは、既婚の女性であるしるしとして銀貨が使われていた。銀貨を10枚鎖でつなげて髪飾りとし、それは現在の結婚指輪にあたる大切なものであり、女性がひとたびそれを手にしたなら、たとえ借金があったとしてもそれを返済につかうことは許されなかった。

この例えの中で女が無くしたのはおそらくこういう銀貨のうちの一枚ではなかったのではないか?どんな女性でも結婚指輪を失くせば必死になって捜すものだが、この女も必死だった。この女がついに銀貨をみつけたとき、その喜びはどれほどのものだったか想像するに難くない。神様もそれと同じだ、とイエスは言っている。」

 どうでしょうか?500円硬貨ぐらいの価値の銀貨に穴が開いていて、それをひもで結んだものを髪飾りとして使っていたそうです。それが結婚指輪の役目を果たしていたのだそうです。

 実際みなさんが結婚指輪を無くされたら、どういう行動にでるでしょうか?想像してみてください。必死に探さない人はいないと思います。

 イエスが実際にどのような女性をイメージしていたのか…それを確定させることできませんので、この説が正しいかどうかは分かりません。しかし、はっきりと分かることがあります。それはこの譬えに出てくる、「無くした銀貨」の価値は計れないということです。

 お金の単位など関係ない、かけがえの無い1枚なのがこの「なくした銀貨」なのです。ほかの銀貨で代用すればよいとか、そういうことでは済まない…それを神様は必死になって探してくださっているのだということです。

 1~7節の「見失った1匹の羊」の譬えでも「他に99匹いるから」ということには関係なく、1匹は大切な存在だ!ということが教えられていましたが、この「無くした銀貨のたとえ」も同じなのです。

 さて、当時の「結婚指輪のような役目をはたしていた」「銀貨をつなぎ合わせた髪飾り」ですが、これは10枚がそろってこそ素晴らしいのです。残り9枚があったとしても残り1枚がなければ完成しません。銀貨1枚そのものの価値はたった400円かもしれません。しかし、それを形作る1枚1枚の銀貨は髪飾りという大切な物を形作るために「欠かせない、オンリーワンの一つ」なのです。

 さて、神の国や教会はよく「パッチワークや切り絵(貼り絵)」に例えられます。一人一人は小さくとも、神の栄光を表すという作品の大切な部分、構成要員になっているという譬えとして話されます。ここの銀貨の例えも同じです。神は「あなたが必要だ!あなたが欠けてしまっていては困る。だから神の国を完成させるためにいっしょにきてほしい」との気持ちで私たち人間を探していてくださるのです。

 最後に残った10節を読みましょう。

 この言葉のように、一人の人が、自分中心の生き方を悔い改めて、神のもとに立ち返ることは神様にとってかけがえのない喜びになるのだということが分かります。それだけ、一人一人はかけがえのない存在なのだ!ということが表れています。

 神は「あなたがわたしから離れて、見失われた存在になるのは悲しくてしょうがないんだ!だから、あなたを必死で探すのだ!」というメッセージを「皆さん一人ひとりに」発しておられるのです。

 現代の日本は、数字で、そして人間的な価値判断で評価されることが多いです。そのような物差しでみられ「私は価値がない」と思ってしまう人が多くあります。そして自暴自棄になり、罪に溺れるということも多いです。しかし、神はすべての人間を「価値のある者」として捉えて下さるのです。

 そして、自暴自棄になり、道を踏み外しそうになっても、神は必死で探してくださるのです。「あなたが必要なんだ!あなたがいなければダメなんだ」と血眼で探してくださっています。 そのことを世の多くの人に知ってもらいたいです。

 人間は「額の大小」で判断します。多額のお金を無くせば必死で探しますが、少ないお金ならあきらめてしまうことも多いでしょう。

 しかし!神は違います。「この人は能力が豊かだから、悔い改めてクリスチャンになってくれたら戦力になる。だから必死に探そう!!」そのようにはされません。

 神は私達に対し「役に立つとか、素晴らしいから」とかそういうことは関係なく、皆一様に「悔い改めて、ご自分と一緒に歩んでほしい」と切に願われているのです。

 たとえ人間的に無価値とレッテルを貼られたような罪人でも自ら必死に探されて「悔い改めに導こう」とされるのです。

 たとえ一人ひとりが大変な状況にあっても「道からそれて見失われた存在にならないように」必死に見守ってくださっている、そんな神がおられることを感じましょう。

「わたしとともにいなければだめだ!そうでないと天の国は欠けたままになってしまう!」それぐらいの熱い思いを神はもっていてくださることを覚えていただいたら幸いです。