「罪の赦しによる平和」4/12 隅野徹牧師

  4月12説教 ・イースター(復活節第1主日)礼拝
罪の赦しによる平和
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ヨハネによる福音書20:19~23

 

 今年のイースター礼拝の説教箇所ですが(予告と変更しています)、示されましたのでヨハネによる福音書20章19節~23節から語らせていただくことにしました。

 今日の箇所の最初の19節をご覧ください。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」という言葉で始まります。

 イースターは「イエス・キリストの復活」をお祝いする日です。今年は卵を食べたり探すこともできませんし、愛餐会も祝会もできません。しかし、それでもイースターは「お祝い」なのです。

 それは先週までみてきたエフェソ書2章にはっきりと示されていたように「私達に永遠の命が与えられる。天国への道が開かれた」そのことに感謝するからなのです。

 その天国への道は、私達人間を愛する故に「十字架に架かって、罪を贖ってくださった神の御子イエス・キリスト…」このお方が死の力を打ち破って復活されたからこそです。しっかりと感謝し、祝いましょう!

 しかし…とてもお祝いする気になれない、という方は多いのではないでしょうか。今世界中を震撼させている新型コロナウイルス感染。その影響は皆さんに何かしらあるでしょうし、恐れもあることでしょう。不要不急の外出を控え、鍵をかけて部屋の中に出来るだけ籠る私達。しかし部屋の中にいて「とても平安だ」という人はおられないのではないでしょうか?不安や恐れ、ストレス…そういうものが私達の心を包んでいます。

 だからこそ、今年のイースターはこの箇所から語ることにしました。

 今日の箇所の弟子たちは「主イエスが復活される」という約束を主ご自身から何度も聞いていました。そして「実際に復活された」という証言を伝え聞きました。それでも喜んでいる様子はありません。逆に「不安の中、部屋に閉じこもる」様子が分かるのです。しかし、復活された主イエス・キリストは「閉ざされた扉を自ら越えて」会いにいかれるのです!私達へのメッセージとして受け取りましょう。   

 まず今日の箇所の一番最初の19節の一つ目の文を読みます。

 弟子達の「恐れていた」様子が表されています。弟子達の「恐れの原因」は、この節で実際に書かれているように「ユダヤ人を恐れていた」ことです。
 イエス・キリストが捕えられて殺された…だから「弟子である自分たちも捕らえられて殺されるのではないか…」そう思って、閉じこもり、鍵までかけて隠れていたのです。

 この状態の弟子達に「復活の主イエス」が、自ら会いに来られるのです。その場面を読みます。19節の二つ目の文から20節までを読みましょう。

 この部分が教える大切なことがいくつかあります。

 鍵までかけているのに、それを越えて入って来られるのが復活されたイエス・キリストだということです。開かれなくて結構ですがⅠコリント15章44節で示されるように「復活による霊の体」というものがあるのですが、それは普通の人間が入ることのできない場所に入るなど「自由に行動すること」ができるのです。

 十字架で死なれ、復活されるまでのキリストも、普通の人間ではできない、そして説明がつかない不思議な業をなされましたが、その行動の裏には必ず「愛」がありました。この場面でも私達は「なぜこんなことができるのか…」その答えを探しがちですが、大切なのは「弟子たちを愛してやまないからこそ、閉じられた扉を越えてイエスは弟子たちのところに会いに行かれた」ことです。この動機にこそ心を留めましょう。

 一方で復活の主は「幽霊」のように、実態のない姿で現れられたのではありません。十字架に架かるため釘を打ち付けられた手と、槍で突き刺された脇腹を確かにお見せになり「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。

 このイエスが言われた、「あなたがたに平和があるように」ということば、これはただの言葉というよりは「祈りの言葉」ですが、ひと時これを掘り下げましょう。

 「平和があるように」とイエスが祈られるということは、弟子たちは「平和ではなかった」のです。平和ではない原因はどこにあるかというと…それは「自分の命を狙っているユダヤ人たちとの関係」ではありません。20節の最後に「喜んだ」という言葉があります。ユダヤ人たちが迫害する状況は全く変わっていないのに「不安が喜びに変わる」ということは、ユダヤ人との関係が原因ではないのです。では何との関係においての平和をイエスが祈られているのかというと、「神との関係、ご自身との関係においての平和の回復」を祈られているのです。

 もう一度19節に戻ります。

 部屋に隠れていた弟子たちにはもうひとつ「恐れの原因」があったと私は考えます。それは「神とイエス・キリストを恐れていた」ということです。

 弟子たちは心からイエスを愛していた…そのことに間違いはありません。しかしイエスが復活なさったという知らせを聞いても喜ぶことなく「部屋に閉じこもってしまった」のです。イエスご本人から「私は3日後に復活する」という約束を事前に何度も聞かされていたにもかかわらず…「閉じこもった」のです。

 「主よ、あなたが復活なさったのなら、どうか私達の心を強めてください」「ユダヤ人たちから守ってください!」と叫んだり、祈ったりすることはできたはずです。これまではそうしていた弟子たちでしたが、全く「イエスに助けを求めることをしていない!」のです。なぜでしょうか?

 それだけ罪の呵責は大きかったということです。十字架の苦しみのとき、イエスを見捨てて逃げてしまった…そのことについて本当に大きな罪悪感を抱いていた。だから神にもキリストにも向き合えないのです。「自分たちを苦しめているユダヤ人との平和」よりも何よりも「神、そして御子イエスとの間の平和を取り戻さなければいけない」状態だった。

 そこに御子イエスは「扉を超えて、愛の内に近づかれた」のです。そして「あなたがたに平和があるように」と祈られたのです。

 本当の意味での平和は「神との和解なし」にはありえない!そして罪の赦しなしにはありえない!という強いメッセージがこの箇所から迫ってきます。そして「この神による罪の赦しの宣言」を私達が受け入れることによって「神との平和」が形作られます。それは永遠の命への希望、天国への希望へとつながるものなのです。

 今世界での多くの人が「家の中にこもり、不安な日々を送って」います。新型コロナウイルス感染を防いだり、自分の身を守るために仕方のないことです。でも生活状況がどうであれ「神との間に平和があるかどうかが大切である」というメッセージは私達に語られているように思うのです。

 感染は怖いですし、防がなければなりません。しかし、死の力を超えて復活された主イエス・キリストに「その不安な気持ちをそのまま祈りで伝えているか」それとも、この時の弟子たちのように「神に心を向けない」のとでは大きな違いがあります。そして何より「キリストによる罪の赦しを信じ受けいれるなら、この世での命を超える永遠の命の希望がある」ことを覚えているのか、思い出しもしないのかでは大きな違いがあるのです。

 そんなことを言われても、心の不安は取り除けられないではないか…と思う方もあるでしょう。 しかし、先ほど見たように復活の主は、「霊的な命」、「目には見えないけれども自由に働かれる存在」であります。ふさぎ込んでいる私達のところまで「愛の故に近づいて下さる」のです。そして「罪から救われることを勧められ」「本当の平和、永遠の命の希望」を自ら伝えて下さるのです。

 世界中の多くの人が、復活の主によって変えられ、弟子たちのように「悲しみが喜びに変わる」ことを願い、祈ってまいります。

 最後に21節から23節を味わいます。

 この中で特に注目したいのが23節です。この言葉は「解釈が難しい」とよく言われますが、先ほど詳しくみた「弟子たちが復活の主によって得た、本当の平和」ということを踏まえて味わうなら、イエスが仰りたいことが深く迫ってきます。

 弟子たちが人を赦したり、裁いたりすることができるという意味ではありません。弟子たちはあくまで、「キリストの十字架による罪の赦しと、それを信じることによって天国で永遠の命に与ることができる希望」を告げ知らせる役割を担っているということなのです。

 逆に「赦しの恵みを信じることなく、自分自身も人を赦さないで悔い改めのない生き方をするなら、神との間の平和が作られることもない。だから悔い改めねばならないのだ!」ということを告げ知らせる役割も担っているということなのです。

 今日詳しく見てきたように、弟子たちは「神の子を裏切る」という大きな罪を犯し、暗く不安な気持ちでふさぎ込んでいました。しかし、主自ら愛の故に近づき「罪の赦しによる平和」を下さったのです。

 この後、弟子たちは「自分の罪を心から懺悔する人に会ったならば」絶対的な確信をもってキリストの赦しを宣言したことができたはずです。「状況に関係なく、復活の主を信じることによって、罪が赦され神との間に平和が造られるのだ!」

 この弟子たちによってはじまったキリスト教会は、それ以来「復活の主の、罪の赦しによる、真の平和」を大切なこととして2千年の間変わらずに語り継いできました。戦争が絶えないときも、今回のように「疫病が流行したときにも」それは変わることはありませんでした。

 山口信愛教会も同じです。この後墓前で献花し、祈りをささげますが、信仰を抱いて天へ旅立った先人たちも「罪の赦しによる平和」を信じ、そして私達に引き継いだことを忘れないで、私達も歩みましょう。