「良くなりたいか?」10/24 隅野徹牧師

  10月24日 聖霊降臨節第23主日礼拝
「良くなりたいか?」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書5:1~9a


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んで4章の終わりまで読み進めてまいりました。ここ3週、敬老祝福礼拝と神学校日礼拝、先週の信徒伝道週間礼拝は違う聖書箇所から読みましたが、今週は元に戻りヨハネによる福音書から順番どおり次の箇所、5章からメッセージを取り次ぎます。

今日の箇所は、「ベトザタの池の癒しの箇所」の前半部分です。

今回題につけたのが5節の「良くなりたいか?」という、38年間病気で苦しむ人に対するイエスの言葉でした。最初私は次のような内容で語るつもりでした。

この「良くなりたいか?」は肉体の健康の回復のことだけを指しているのではない。もっと広い意味での「改善・向上」そして何より「神にあっての成長」を指す言葉だ。すべての人にとって「神・キリストにあって良くなる」部分はある、そしてここにいる全ての人がイエス・キリストに「良くなりたいか?」と問いかけられているのではないか?

つまり…ある人にとっては、この登場人物のように「健康状態が良くなりたいか?」という問いだろうしし、ある人にとっては「家族や友人など、人間関係を良くしたいか?」という問いかけだろうし、牧師である私や瞳牧師にとっては「これまで以上に神の御心に叶う者になりたいか?」という問いかけであろう。

その主の問いかけに対して、すぐに「よくなりたい」と答えられないのが私たち人間の弱さだけれども、主イエスの前に、素直に「良くしていただきたい」と答える私たちでありたい!  そのように語ろうと思っていました。

しかしながら、この箇所を深く読めば読むほど、今お伝えしたことと違う新たなメッセージが思い浮かんできたのです。 今日はそれをお分かちします。それでは短い箇所ですが、順を追ってみてまいりましょう。

 まず1節から3節です。

4章の最後、イエス・キリストは、「ガリラヤ地方」で伝道活動をなさっていました。しかし「ある祭りの時」に都エルサレムに上ってこられました。そのエルサレムにある門のうちの一つ「羊の門」の傍らに、ベトザタと呼ばれる池があったそうであります。その池が今回の箇所の舞台です。

 自然の池ではなく、人工的に作られた四角いプールのような沐浴場を想像していただければ結構です。その池の周りに五つの回廊があり、そこには目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などであふれていたというのです。

そこに多くの人がいた目的…それは4節を見ると分かります。底本に記述が抜けているためにハネ福音書の最後の部分に記されているのですが、こんな風に書かれています。開かれなくて結構ですのでお聞きください。

「彼らは水が動くのを待っていた。それは主の使いが、ときどき池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかってもいやされたからである」

 もちろんこれは迷信です。皆さんも「根拠のない迷信や噂話に、人々が群がる」ということで思い浮かぶことがたくさんあると思います。多分ですが、「主の使いが舞い降りる」というのは、温泉水か冷戦水が、地下から何分かごとに湧く「間欠泉」だったからだろうと理解されています。

温泉か冷泉なら体によいこともありましょう。多少体の痛みが取れるなどはあったことでしょう。しかしその口コミが誇大広告となり「どんな病にも効く!」という風に伝わり、多くの病を負う人が集まる騒ぎがおこったのです。

続いて5節から6節です。

回廊で「水が動く時に、池の中に入りたい」と待ち続ける人の中に38年も病の苦しみから救われることを待ち続けている男がいました。そこに自らイエスが近づいていかれ、この男に声をかけてくださったのです。

さて今朝読んでいる聖書箇所ですが「マタイ」「マルコ」「ルカ」のいわゆる共観福音書には記載がなく「謎が多い箇所だ」と言われています。1節にある「ユダヤ人の祭り」が一体何の祭りなのかが分かっていません。そしてもう一つ、「弟子が一緒にいる気配が感じられない」ということが言われるのです。イエスはたった一人で「誰にも悟られないように」都エルサレムにいかれたのではないか…という説があります。私もそうなのではないか、と感じます。

もしそうなのだとすれば、少し前にそっくりな箇所が出ましたので、そこを開けましょう。P169 ヨハネによる福音書4章、サマリアの女の箇所の前半部分です。(開けてみてください) 

7節8節あたりをみると、弟子たちが不在だったことが分かり、イエスは1対1で女に近寄り、そっと声をかけられます。 少し前にお話しした通り、サマリアの女はイエスの招きに素直に応答できません。

14節でイエスが「私はあなたに、永遠の命に至る水を与えることができる」と仰ったのに対し、すぐに「私にその水をお与えください」とは言えませんでした。無理もないことですが、15節で「もう水を汲みに来なくてよいようにしてほしい」と答え、「永遠の命に至る水」のことは「与えてほしい」と答えていないのです。

P171に戻って下さい。7節で「良くなりたい」とは答えず、いろいろと言い訳しているこの病人。サマリアの女と似ているとは思われませんか?

どうして自分だけがこんな目に遭うのだ…。当時の結婚制度の下で苦しんだサマリアの女も、今回の箇所の「38年病気で苦しんだこの人も」思ったことでしょうが、ここにおられる皆さんそれぞれが同じような経験をされているのではないでしょうか。後で私自身の経験を語らせていただきますが、失望させられ、力を失います。そんなとき自分で「希望をもって!」とか「信仰を強くして!」思い聞かせても空回りします。他人からそのことを言われてもかえって逆効果になります。本当に、人間ではどうにもできない…

しかし!その状況で神の御子イエスがそっと近づいて来てくださるのです。では神の子イエスの愛と力が「この病気で苦しむ人を覆った」箇所を読みましょう。 7節から9節です。

 7節は、「失望した人の心に光を当てるということがいかに難しいか」を表していると感じます。この人は答えを返しているので「かなり素直」な方です。しかし、イエスがせっかく招きの声をかけてくださっても、まともに反応しない、素直に答えず人のせいや環境のせいにするといった「言い訳ばかりが返す」そんな私たち人間を表している箇所だと感じます。

 しかし8節、イエスは、この人に対して、決して「あなたは駄目だ」と言われませんでした。深い憐れみをもって接してくださり、再び立ち上がる力を与えて下さったのです。

神の子であるイエスの「起きあがりなさい。床を担いで歩きなさい」というお言葉一つで、彼は良くなって、床を担いで歩き出したとあります。不思議ですが、イエスの言葉は「全能」であり、必ず「成る」ということを証し、今回の聖書箇所は終わります。続きの話は来週の礼拝で瞳牧師が取り上げます。

最後に、私に起こった「主からの慰めの出来事」を今回の聖書箇所と絡めてお話しします。            

今回の聖書箇所の出来事は「ユダヤ人の祭りの日」の裏側で起こっていたことに再度注目しましょう。

何の祭りかははっきりしませんが、多くの人神殿に向かい、神に対しての祭りを行っていたのでしょう。しかし!そのとき、イエスは神殿より先にベトザタの池に向かわれました。神殿に向かわれたのは、この後14節です。

池には「祭りから取り残された人々が大勢横たわって」いました。イエスは、祭りの日の賑わいの陰にそのような場所があることを分かっておられて、まずそこをお訪ねくださったのです。 

私は10年前の2011年夏、出産直前の次女を亡くしました。その直前、香川教会がかかわっていた保育園で大きな事故が起こり、その対応などから心無いことを言ってくる一部の人の攻撃でメンタルがかなり悪かった…その状態で起こった娘の死。正直、自分で心の糸が切れたのが分かりました。その後2か月のお休みをいただき、山口にも帰ってきました。

ちょうど帰ってきた頃、ここ山口信愛教会では日野原先生を招いての120周年記念礼拝が行われました。多くの方が尊いご奉仕をささげられ、本当に祝福された会になったことを感謝します。 信愛教会の皆様からは、娘の死産直後から慰めに満ちたお手紙など何人もの方からいただいていましたので、「直接あってお礼を言わなければ」とも思ったのですが…、どうしても山口信愛教会に近づくことができなかったのです。

教会での礼拝に出られない、そして人に会いたくない私は、当時3歳だった娘を連れて、ひたすら瀬戸内海の海水につかりにいっていました。「自然の中で、海の風を浴びて、すこしでも体調を元に戻したい」と考えたのを覚えています。まさに当時の私は祭りの裏側で、ベトサダの池にいた人達と同じです。 正直、もう回復できないかもしれない。牧師として戻れないかもしれない…そう思っていました。

でも、神が送って下さった助け人がいました。この方は牧師として、私たちを襲ったのと同じような試練を経験なさった方でしたが、愛を持って忍耐強く、そして時には厳しく、「一緒に立ち上がろう!」と手を差し伸べて下さったのです。

今思い返せば、その牧師の背後には確実に「主イエスが」いてくださいました。倒れて寝ている、そして礼拝にも出られない私たち夫婦に対し、それでも主は共にいてくださいました。「私が助け手を送るから、起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と励まし慰めて下さったことを思い出します。

神の前に出る気にはとてもならない…そんな人がこの世にはたくさんいらっしゃいます。牧師としてそういう方の思いに寄り添えていないことに力不足を感じます。しかし!神の独り子イエスが、そのような方をどれだけ愛し、どんな風に近づいてくださるのか、忘れないで歩みましょう。(沈黙・黙祷)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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