「行いをもって誠実に愛し合おう」5/10 隅野徹牧師

  5月10説教 ・復活節第5主日礼拝
行いをもって誠実に愛し合おう
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書16:9~13、Ⅰヨハネ3:16~18

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 3週前から、山口信愛教会の主日礼拝の説教箇所は16章の前半にある、「不正な管理人のたとえ」から続けて御言葉を聞いています。私にはこの箇所を通してイエスが私達に示されている教えが「大きく3つ」あると理解しています。ですので先々週、先週今週と同じ箇所から、他の聖書箇所を引用しつつ、3回に分けて話しています。今週は題につけたように「行いをもって誠実に愛し合う」ということについて、神からの御言葉を聞いてまいりましょう。

 先週もお話ししましたが、この箇所を深く理解していく上で、確認したい「大切なこと」がいくつかあります。

 ①一つ目、それは!私達がこの世で持っている富、それは私達が生きていくために神が与えて下さった「良い物」なのだということです。しばしば「不正なこと」に使われ「悪用」されます。そういう意味で金銭や財といった「富」は新共同訳の訳し方にある通り「不正にまみれている」といえます。でも本当は「神から預かった良いもの」なのです。

 ②二つ目、この世の富は「ただ委託されているにすぎない、永遠に持つことができない」ということです。12節に「他人のものについて忠実でなければ…」という言葉でイエスが表されているとおり、この世の富は「あくまで他人のもの」であって「自分のものとして永遠に所有はできないのです。どんなに貯金や財産を持っていても、それは天国に持っていくことはできないのです。これに対して11節にでる「本当に価値のあるもの・まことの富」は天国に行くことで、永遠にもつことができるのです。

 ③そして三つ目、これも2週続けて言っていることですが「神から委ねられたこの世の富を全く無駄遣いしない」完璧なひとはどこにもいないということです。私たち人間は皆、失敗をします。気づかぬうちに「神から預かったもの、委ねられたものを無駄遣いする」ことはあるのです。イエスの譬えの出てくるこの人を「軽蔑するのではなく」「私も不正な管理人だ!」と気づくことによって、この箇所から示されることは多くあるように思うのです。

 以上の3点に心を留めつつ、今日は「自分に委ねられた富で、隣人を愛し、助ける」ということの大切さを考えてまいりましょう。

 イエスが譬えられた「無限の富を持つ主人の管理人」、その彼が、「管理人としての最後」が意識されるような状況にあって、よく考え取った行動…それは主人に借金のある人の借金を「半分にする」ということでした。   

 彼のやったことは、人間の常識では「正しいこと」には見えません。主人に損失を与えているので、むしろ「主人から責任を問われそう」に思えます。

 しかし「借金を減額してもらった」という、相手にとっては「とても有難い行動」です。もっといえば「生きるか死ぬかの状況の人を救うかもしれない」行動なのです。

 6節をご覧ください。主人に借りのある一人目の人は「油百バトスの借りがある」といっています。百バトスとは約2300リットルです。現在のように燃料を大量諸費する時代ではありませんので、この2300リットルの借りというのは莫大なものだったのです。

 続いて7節には主人に借りのある二人目の人が出ます。この人は「小麦百コロス」と答えていますが、これは小麦約2万3000リットル分です。これもとんでもなく大きな借りなのです。

 二人とも「このままでは生活が危ぶまれるレベル」の借金です。(強)しかし管理人が自分の立場を利用して、「借金を減額してくれた」ことによって、なんとか目処が立ったと思われます。ただ借金を減らしたというより「相手を助けた、救った」そして「主人の懐の深さを証しした!」だからこそ、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と8節でイエスは仰った、そのように考えます。

 このように「彼の行動は主人にさらに迷惑をかけたように見えるのですが、主人からは褒められた」とイエスは教えられます。一方で「だれにも迷惑をかけていないけれども、こんな生き方はダメだ」とイエスが教えられている譬えも聖書には登場します。今回の箇所とある意味で「正反対」の譬えともいえるその聖書箇所を開いて読んでみましょう。新約聖書P131をお開きください。

 ルカによる福音書12章13節~21節です。

 この譬えの金持ちは、だれにも迷惑をかけていません。ルールも破っていません。でもイエスはこの生き方が「神のみ旨ではない」ことをはっきりと、しかも「厳しく」示しておられます。

 聖書が教える豊かな生き方とは、この世の常識でいう「豊かな生き方」とは全く違う、ということが今比較してみた「二つの譬え」から分かるのです。12章31節の言葉が一言で表していますが「自分のために富む生き方、たとえそれが世のルールを一切破っていなかったとしても、そんな生き方ではいけないのです!

 神の前に豊かにならないと永遠の命は得られない、本当に価値のあるものを与えていただくことは出来ない」のです。

 「神の前に豊かである」ということ、それは16章9節で示されているように、「神ご自身と共に、神が造られたすべての命、出会わせていただいたすべての命を大切にして生きる」ということです。

 このような生き方、つまり神を愛していることを表すために、隣人を愛していることを表すために、神から与えられた、別の言い方で「預かった」私達の富は用いることが大切なのです。もちろん自分にご褒美をあげることも時には必要でしょう。そのことが「この世のために、家族のために頑張ることにつながる」と信じます。でも!大枠では「神が造られたこの世全体」のことを考えて、富を用いていくべきなのは間違いありません。

 もういちどルカによる福音書16章に戻りましょう。(P新149)

 最後の13節をお読みします。

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」

 イエスは弟子たちに、そして私達一人ひとりに「神に仕える者として生きるように」 語られます。その上で「神に仕える者であるならば、富に仕えてはならない」と教えられるのです。

 つまり何が仰りたいかというと「富は使うべきものであって、仕える物ではない!」ということです。富に仕えて生きている人がとても多いこの世にあってイエスは「あなたたち主のものなのだ」と伝えられます。そして「富や財産はその主よりの贈り物なのだ。だから与えてくださったお方に目を向けて、感謝をもって、その御心に従って用いる必要があるのだ」という強いメッセージを発しておられるのです。

 自分の与えられたものをどのように用いるかによって、別の言い方で「富や財産の用い方を通して」神の栄光をあらわすことができます。管理人が自分の立場を使い、借金に苦しむ人を助けたことにより、「主人の懐の深さ」が証しされたように、私達も

 神からお預かりしたものの用い方で「神の愛、神の大きさ」を証しすることができるのです。

 新型コロナウイルス感染の影響が広がる今のこのとき、「クリスチャン」という看板を背負う者たちがどのように振舞うか…私達が思う以上に世の中の人々は注目していると私は感じます。「食べるものがない、明日どうやって生きて行けばよいのか分からない…」そんな人が溢れかえっていて、「神様なんてやっぱりいやしない」などとつぶやく人も多くあります。

 しかし私達は、主イエス・キリストを通して神が与えて下さった愛と恵みを知っています。栄光の神の子が、私達を救い出すために貧しくなられた。そこに「本物の豊かさがあること」を知っています。

 無理やりにする必要はなく「自然体」でよいのですが、それでも主イエス・キリストを通していただいた「愛の恵みに感謝して」自分に示されたできることをしていきましょう。神の愛の大きさを証ししていきましょう。

 最後に今いったようなことが表されているもう一カ所の聖書箇所を読んで、メッセージを閉じます。 ヨハネの手紙Ⅰ3章16、17、18節です。(新約聖書P444です)

 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」

 この後献金をお献げする時間を持ちます。それは私たちの日常、私たち自身をお献げすることを意味します。与えられた命をもって主を証する者であれますように…そういう祈り心をもっておささげしましょう。

 

(山口信愛教会の皆様へ)

 教会への献金は、手元に取っておかれて公に礼拝ができるようになったとき持ってきていただければと思います。しかし教会を支える以外にも、今実際に困窮しておられる方を支えることも示されましたら、ぜひ今実行していただければと願います。

 

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