「返すべきもの、返すべき相手」11/8 隅野徹牧師

  11月8日説教 ・降誕前第7主日礼拝
「返すべきもの、返すべき相手」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書20:20~26

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 先週は永眠者記念礼拝で違う箇所を読みましたが、今週は再び、ルカによる福音書からのメッセージに戻ります。今20章19節まで終わりました。イエスがエルサレムに入城され、いよいよ十字架に向けての歩みがいよいよカウントダウンに入っています。

 当時のイスラエルの宗教的指導者たちは、イエスを捕らえて抹殺しようしていたのですが、その攻撃がいよいよ強くなっていきます。

 今回の箇所は、宗教指導者たちがイエスから失言を引き出して「ローマ帝国に逮捕してもらおう」と企んで、「罠にはめるような質問」をし、これに対してイエスがお答えになる場面です。

 この箇所のイエスの答えは、よく「政教分離の原則をイエスが示されている」と言われます。しかし、「ただ社会のルールを教えられた」のではなく、短いですが深い教えがなされていると私は感じます。今回の箇所のキーワードとして「返す」という言葉を最初に挙げさせていただきます。共に御言葉を味わいましょう。

 先程、今日の箇所は、宗教指導者たちが遣わした人々と、イエスの問答の箇所だ、と申しましたが、この場面の前にも同じように「宗教指導者たちとイエスの問答」がなされている場面がありますので、まずそこを見ましょう。20章の1~8節をご覧ください。

 イエスは、エルサレムに入城された後、「金儲けの場所と化したエルサレム神殿を、祈りの家に相応しい場所にすべく、きよめられ」そして神殿の境内で、熱く教えられたのです。これは神殿の管理を委ねられていた祭司長や、神殿で教えることがあった「律法学者、民の指導者たち」にとっては腸が煮えくり返る思いだったことでしょう。それで1節「我々に答えてみなさい。何の権威でこれをしているのか!」というようなことをイエスに向けて言ったのです。

 2節には直接出てきませんが、3節4節のイエスの答えから想像するに、祭司長、律法学者たち、長老たちは「天からの権威か、それとも人からの権威か答えを返してみよ!」というような迫り方をしていたのではないかと考えられます。

 もしイエスが「自分が神殿から商売人を追い出し、人々に教えたのが天からの権威だ」とお答えになったら、「この人は神を冒涜している」と訴えようとしたと想像します。逆に「人からの権威だ」と答えられれば「この人は神の宮である神殿を大切にしていない不届きものだ」として訴えようとしていたと想像させられます。

 しかし、全能の主イエスは彼らの心を見抜いた上で、答えを返されます。この当時、一方が何か質問をするなら、その相手も質問を返せるというルールがあったようです。一方的にならず、一問質問すれば、相手も質問を返すことができるというルールだったようです。それでイエスは「わたしも一つ質問するから答えなさい」と返されたのです。

 そのイエスが返された質問が4節です。「洗礼者ヨハネが、人々に罪の悔い改めを宣べ伝え、悔い改めのしるしとしてバプテスマを施したが、それは天からの権威によるのですか、それとも人間的な権威、つまり人間的な思いでなされたものだったのですか?考えを聞かせて下さい」というものでした。これは祭司長、律法学者たち、長老たちの急所を突く質問でありました。

 もし「洗礼者ヨハネは、ただ人間的な権威だけで悔い改めを教えていたのだ」と答えると、民たちから大変な怒りを買うことが予想できました。一方で「洗礼者ヨハネの権威が天からのものだ」と認めるなら、そのヨハネが救い主だとはっきり証言しているイエス・キリストをなぜ受け入れないのかという批判が来ることも恐れたのです。 結局答えに窮した彼らは7節で「ヨハネの権威がどこから来たのかわからない」と答えます。そして8節、イエスも当時のしきたり通り「あなたたちが分からない、答えないのなら、私も答えませんよ」とお返しになったのです。

 3週間前、私がこの箇所からメッセージを取り次いだとき、8節のイエスのお答えに注目して語らせていただきました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」これは、ただ質問をはぐらかされたのではなく、「私は権威を振りかざす者ではないのだ」と仰っているように私には感じられる…とお伝えしました。

 権威を持つ者が「有無を言わせず、言うことを聞かせることができる…」そう勘違されることが多いこの世にあって、イエス・キリストはお持ちである「神の権威」を、愛の故に正しい道に招くために用いられることを示されるのです。 神殿を管理する者として権威をぶつけてきた人たちに対し、愛の教え・諭しを返されるのがイエス・キリストなのであります。

 今回の箇所の20章20節以下は、今見た場面が伏線にあるのです。イエス・キリストは宗教指導者たちに対し「ご自分が権威ではなく、ただ愛をもってすべての人を正しい道に導こうとしている」ことを教えられました。しかしそんな愛に溢れた神の御子に対し宗教指導者たちは「なんとでも恥や苦しみを返してやろう」とします。これはすべての人間がもつ「汚い心」なのです。

 復讐心や嫉妬心を持ちやすい罪深い私たちです。やられたら、やり返すことに異常な執念をもつことが多いです。少し前まで「倍返し」がテーマのドラマが続編で放送されていました。それだけ世の人々は「やられた苦しみを、相手に返す」ということに快感を覚えるのだということの表れです。

 しかし、本当に返すべきものは「痛みや苦しみ」ではありません。今日の箇所では「本当に返すべきもの」について、二つの大きなことをイエス・キリストが教えられます。節を追って見てまいりましょう。

 まず20節から見ます。この節の後半に、彼らのやろうとしていることが記されています。

「イエスの言葉じりを捕らえて、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の総督に逮捕してもらおう」という企みです。そのために彼らは「正しい人を装う回し者」をイエスのもとに送り込んだのです。

 正しいものを装うというのは、21節の「イエスへの褒め殺しの言葉」にも表れています。

 問題は彼らの素性です。この場面と同じことが書かれているマルコ12章13節から、この回し者たちは「ファリサイ派やヘロデ派」だと分かります。

 ファリサイ派は、国粋主義で外国人を嫌う考え方でしたが、ヘロデ派は、ローマ帝国よりの考え方を師「ローマ帝国を大切にしよう」という考え方だったのです。つまり、全く違う主義主張をする2つのグループをわざわざ「イエスを貶める」ために呼んで、失言を引き出してローマ帝国によって逮捕してもらおうと動いたのです。

 とくにヘロデ派は、律法学者たちや祭司長たちとは全く違う考え方の人たちでしたが、そういう合わない人同士をわざわざ動員するのです。宮清めや前回の問答で受けた苦しみを必ずやイエスに返してやるのだ!…凄まじい復讐心です。

 続いて22節をご覧ください。宗教指導者たちが、イエスを罠にはめるためにした質問がこれです。

 「神の選民であるイスラエル人が、ローマ皇帝率いるローマ帝国に対し税金を納めることは正しいことですか?」これは、成人のイスラエル人が一年に1デナリをローマに収めることになっていた「人頭税」といわれる税のことを指しています。額自体はさほど大きなものではありません。しかし、このローマ帝国が要求している人頭税が「神の教えである律法に照らし合わせて、正しいことなのか、そうでないのか?」との質問がイエスに投げかけられたのです。

 もしイエスがローマへの納税が正しいと答えれば、国粋主義者たちが黙っていません。国粋主義者たちは「神以外に王は認めない」という立場ですから、イスラエル以外のすべての国は存在すべきでないという極端な考え方です。ローマへの納税を断固拒否し、命を懸けて徹底抗戦する姿勢で、実際にこの時代、反乱を何度か起こしていたのです。もしイエスがローマを擁護していると彼らが判断したなら、ただではおかなかったことでしょう。

 逆に、イエスがもし「ローマへ税は納めるべきでない」と答えるなら、常駐しているローマ総督にすぐ通報したことでしょう。ローマ帝国は、体制を揺るがす政治犯の撲滅に躍起になっていました。

 1節から8節の権威の問答の時と同じく、いやそれ以上に「これでイエスをうまく貶められる」と宗教指導者たちは思っていたことでしょう。しかし、全知全能の神の御子は企みをすべて見抜いた上で答えを返されます。それが24節以下ですが、決して相手を叩きのめすものではなく、愛の答えを返されるのです。その愛の答えを見てまいりましょう。

 まず24節です。ご覧ください。「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われ「そこには誰の肖像と名前が刻まれているか」と逆に尋ねられたのです。当時イスラエルでは「自国の貨幣」もありましたが、それではなく「ローマ帝国の貨幣を出しなさい」と言われたところがミソです。

 古代世界では、「貨幣を発行できることが、人々から税金を集める権利を持つ」と考えられたようです。貨幣を作るのにかかった費用の一部を含む「社会を回していくための様々な費用」を貨幣に名前や肖像が入れられた人が徴収できる、というのは世の中全体に理解されていました。ですのでイエスは25節前半で「皇帝がつくった貨幣は皇帝に返しなさい」と答えられたのです。

 注目すべきなのは、「税を納めなさい」とはおっしゃらず「返しなさい」と言葉を変えておられることです。

 貨幣の発行だけでなく、ローマ帝国は社会のインフラ整備など、イスラエルの人々の生活を助けていることも事実でした。「受けている恵みの一部を、与え手に返す…」イエスは納税をそのような捉え方で教えられたのです。

 私たちも税を納めている相手の行政に対し、何かしらの不満はあると思います。完全な法や制度はどこにもありませんので。しかしながら、私たちは行政から様々なサービス、恩恵を受けていることもまた確かです。イエスが愛のうちに教えられた「受けている恵みの一部を、相手に返すこと」これは必要なことなのだと教えられます。

 もちろん間違いを指摘したり、正したりすることが必要な場面もありましょう。しかし、基本的には「公共サービスの与え手に対し、感謝する、愛をもって接していく」ことが基本線だと私は考えます。神にあって、様々な方々に感謝の気持ちを「返して」まいりましょう。

 さて今日覚えたい最も大切なことは、このあとの25節です。イエスは「社会的責任を果たすこと」だけでなく「造り主である神に私たち自身を返す」ということを教えられるのです。

 ローマ貨幣に、ローマ皇帝の肖像が刻まれているように、人間は、神の形に似せて造られた者であります。別の表し方でいうと「神の像が刻まれている者」なのです。だから聖書は、最初の創世記から「神を神として仰ぎ、被造物である自分を神の前にささげる」生き方を教えているのです。そしてイエスもこの場面で「自分を神に返す」という大切なことを教えておられるのです。

 大地や太陽、雨、木々や草花、生き物たち、今日一日を生きるためのわたしたちの命、すべては神様が提供してくださっているものです。国や地方公共団体がさまざまなサービスを提供して生活を支えてくれる以上に、神は豊かな恵みを私たちに提供し、人生を支えてくださっています。これだけのものを頂きながら、自分からは何も返さないというのはおかしいのではないでしょうか。

 私たちは勘違いをしがちです。「別に、神に返さなくても生きて行けるじゃないか!」と…。神は憐み深いお方なので、私たちが「神に返さなくても」私たちへの恵みを止められることはありません。しかし、神のために自分の時間、自分の人生をささげるなら、人生はどう変わるかということをぜひ考えていただきたいです。

 自分のすべてを返すことができないことを素直に認めつつ、でも嫌々ではなく、感謝の心から「神のものである自分を神に返すこと」を意識しながら日々歩むなら、本当に実りある人生になる…そうイエスが教えておられることを忘れないでいましょう。 (祈り・沈黙)

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