「霊を吹き込むと、お前たちは生き返る」5/21 隅野瞳牧師

  5月21日 復活節第7主日礼拝
「霊を吹き込むと、お前たちは生き返る

隅野瞳牧師
聖書:エゼキエル書37:1~14


 本日は私たちに望みがなくても、主の霊は私たちに命を与えることができるということについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.枯れた骨に対しても、主の御言葉を語る(4節)。

2.主の霊が吹き込む時に、初めて人は生きる者となる(8~9節)。

3.聖霊は、主を知り愛し合う群れを回復してくださる(10,13節)。

 

来週はペンテコステです。その日に主が約束してくださった聖霊が弟子たちに注がれて、彼らは主の復活の証人として福音を語りました。すると約三千人がイエス・キリストを救い主と信じ、その名によって洗礼を受けて教会が誕生したのです。本日はエゼキエル書から、私たちに命を与え造り変えてくださる聖霊について聴きます。

エゼキエルは今から2600年程前の預言者です。イスラエルは北イスラエルと南ユダの二つの王国に分かれ、すでに北イスラエルは滅ぼされていました。南ユダもバビロンに敗北し、多くの人々そしてエゼキエルもバビロンに連れ去られていきました(列王下24~25章参照)。これは真の生ける神ではなく偶像や他国の武力により頼み、堕落した生活を続けてきた民に対する、神の裁きでした。

人々はいつかエルサレムに戻る望みを抱いて耐えてきましたが、捕囚の12年目にエルサレムの陥落が知らされました。それは自分たちが神から見捨てられてしまったという、彼らの存在が根本から揺らぐ危機でもありました。この知らせを聞いた民は、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」(11節)と言っていたのです。民が信仰を失い絶望していく中で、主はエゼキエルをお選びになりました。彼もまた捕囚民であってこの地で妻を失い、彼自身の中には慰めや励ましの力や言葉はありませんでした。しかし主は、イスラエルの民を見捨てることはない、必ず帰還することができるという御言葉をまず彼に、そして彼を通して民に与えてくださったのです。

 

1.枯れた骨に対しても、主の御言葉を語る(4節)。

「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。」(1~2節)

主はエゼキエルに御自身を現され、ある谷の真ん中に降ろされました。そこには殺された者たちの無数の骨があり、エゼキエルはその周囲を行き巡らねばなりませんでした。神はまず私たちに、己れの現実を直視させます。見るとそれらは甚だしく枯れていました。時間が経ち見棄てられているのです。エゼキエルが見たのは、神に背き続け、神と共に生きるいのちを全く失っていたユダの民の姿でした。

そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」(3節)

エゼキエルは主に問われましたが、「はい、生き返ります。」「あなたなら出来ます。」とはとても言えませんでした。「あなたはご存じです。」これが精一杯の答えでした。絶望的な状況、そのただ中にいる人たちを前にして私たちは言葉を失います。本日の箇所で神はエゼキエルに、何度も「人の子よ」と呼びかけています。人の子というのは人間一般をさす言葉で、原語ではベン・アダム、土(アダマ)から造られた限りある小さき存在を示します。私たちは神に造られたものにすぎず、今の状況に何の力もない土の器です。この骨が生き返るかどうかも分かりません。しかし私たちは創造者なる方、すべてを治められる主なる神を仰ぐことが許されています。人の子エゼキエルは、その答えを神にゆだねました。御心ならば、あなたは私たちを生き返らせてくださいます、と。

ヨハネによる福音書3章では、どうすれば神の国に入れるのか求めていたニコデモが、主イエスに質問しています。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」という主のお言葉にニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。」こんな自分が今更どう生まれ変われるというのか、出来るはずがないと答えたのでした。けれども主はこう続けて言われました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もそのとおりである。」と。ヘブライ語では「霊」と「風」は同じ言葉です。風は目に見えませんが、木の葉が動くと風の力がわかります。霊も人間の目には見えませんが、その力が働いた結果を見ることができるのです。聖霊は神とのかかわりの中に人を回復させ、人と人との間に愛し合う関係をもたらされます。ニコデモを見ると彼に聖霊の風が吹き、信仰が与えられていったことがわかります(ヨハネ7:50~51,19:39~42)。

主イエスの復活、そして主を信じる私たちもまた復活の命をいただき、新しい人に造り変えられることは、聖書の信仰の中心です。この復活の出来事の中に真理があるのではないかと求める時、私の理解を超えたことだけれども「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と告白した時に、私たちは主の命を受けます。

人が変えられることは非常に難しいことです。しかし人が神によって新しくされるのに、私たちが考えているどんな「壁」も妨げにはなりません。御言葉によってそれが示される時に私は、「ああ、神の御力をなんと小さく見ていたことだろう。神の愛とその御計画はなんと大きいことだろうか」と、自分の小ささ、不信仰を知らされて、主の栄光をたたえます。枯れた骨であった私でも救われたという恵みに立つ時に、あの人をも主は必ず生かしてくださる、主が和解させ変えてくださると信じることができるのです。

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(4~6節)

この箇所には「見よ」が繰り返されています。霊の目で神の出来事を見なさいと。目に見える現実は厳しく、困難です。けれども私たちは御言葉によって示される、主のなさることを見ます。そして「主の言葉を聞け。」混沌の中に光を創造し、天地を造られた神の御言葉に聴きます。

 主はエゼキエルに、枯れた骨に向かって主の言葉を聞けと、絶望する民に対して預言せよと言われます。主なる神は枯れた骨のような彼らをなおも御自分の民として愛し、語りかけることをやめないのです。途方もない神の愛です。信仰は神の言葉を聞くことから始まります。そして語る人がいてこそ、聞くことができます(ローマ10:14~17)。神の霊を吹き込まれて新しく生まれ変わった時私たちは、神が自分の人生の本当の主人であることを知ります。

 

2.主の霊が吹き込む時に、初めて人は生きる者となる(8~9節)。

「わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。しかし、その中に霊はなかった。主はわたしに言われた。霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」(7-9節)

預言というのは、神から受けた言葉を伝えることです。エゼキエルのように私たちには、語る言葉も力もありません。けれども主はまず私たちに出会ってくださり、御自身の霊に満たし、語るべき言葉をお与えくださいます。隣人と共に痛むほどの近くに置かれた私だからこそ、御言葉を共に受け、伝えることができるのです。

エゼキエルが命じられたように預言すると、骨と骨とが近づき、筋と肉、そして皮膚が生じて外側の人の形が戻りました。神が「光あれ」と言われると光が創造されたように、神の言葉はそのとおりに実現します。御言葉には無から有を創造する力があるのです。しかしまだその人の中に霊はありませんでした。

今も私たちの体は動き、食事をし、自分の願いをもって生きています。しかし聖書はそのような私たちに「あなたは本当に生きているのか?」と問うのです。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)

聖書が告げる神は「生きておられる神」であり、「生かす神」です。土の塵から造られた人間は、神がその鼻に命の息を吹き入れられて生きる者となりました。「人の創造」には二つの段階があり、人が真に生きるものとなるには神の命の息吹、主の霊を受けることが不可欠です。聖霊は私たちの四方から吹き来たる風のように吹き、私たちの全身を包み、清めつくします。聖霊が使徒たちに降る時にも激しい風が吹いてきて、家中に響き渡りました。そして彼らはさまざまな国から過越祭に来ていた人々に、主がどのようなことを私たちにしてくださったか、語る力が与えられたのです(使徒言行録2:2~4)。捕囚の民、そして弟子たちに吹いた聖霊の風が私たちにも吹いて、福音に生き伝える教会としてくださいます。

 

3.聖霊は、主を知り愛し合う群れを回復してくださる(10,13節)。

「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って、自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(10節)

一人ひとりが命を得るだけでなく共同体全体が生き返ることが主の御心でした。自立できていない、人とつながれない。その枯れた骨の状態を主が癒してくださいました。人は神に似せて造られたのですから、愛し支え合うつながりの中でこそ、人として生きるのです。神が人々に新たな命を与えられるのは、再び交わりを築くためです。私たちにとってそれは、教会全体に聖霊が注がれることです。

私たちは会堂やプログラムが整い、礼拝に人が集まり、必要が満たされていることを求めます。確かにそれは大切なことですが、そこに集められた一人ひとりが主を私の主として礼拝し、兄弟姉妹と心が通い合っていないなら「その中に霊はなかった」、と主はご覧になるのではないでしょうか。一人ひとりが聖霊によって悔い改めに導かれ、復活の主の命によって新しく造られる時に、私たちは愛において一つとなり、キリストを土台とした揺るぎない教会が建て上げられていくのです。御心に従って生きる…神と隣人を愛することを選ぶ時、真に私たちは生きた教会であるといえます。まことに主の命によって生きている時、私たちは成長し外に向かい、新しい命が生み出されていきます。 

主に生き返らされた人々は自分の足で立ちました。それは自立した信仰者と言えます。主は私たちが自立した者として生きることを願われます。かまずに簡単に飲み込める甘い乳のような御言葉しか受けつけない者は霊的な幼子と言われています(ヘブライ5:12~6:3)。神は愛であるからこそ訓練を与え、悔い改めに導き、私たちを成長させようとなさいます。いつまでも自分中心に留まるのではなく、神と人との関わりの中で砕かれて、自分を差し出す喜びに生きる者と変えていただきましょう。

本当に自立している人は、自分が一人では生きていけないことを知っています。主を信じ礼拝し、伝道するということにおいてもそうです。神は私一人を罪から救われたのではなく、自分だけで信仰生活をすればよいのではありません。兄弟姉妹たちと共に、なのです。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。」(12節)

エゼキエルの預言は、罪の支配のもとで命の神から離れ、死んだ状態であった私たちが主に赦され、新しい命に生きるようになることを示しています。永遠の命は主イエスを主と信じた今この時から生きることができます。さらに私たちには墓が開かれ、墓から引き上げられる…終わりの日に主が私たちを神の国に連れ帰り、御もとに住まわせてくださる約束が与えられています。

苦しみ疲れ果て、神に対する信仰を失いそうな私たちにも、主はご自分の霊を注いで下さいます。「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」(エゼキエル18:32)「私は渇いています、今ある状況に希望を見出すことができません。あなたの命によって生かしてください。」悔い改めとへりくだりをもって求めましょう。主のもとに来る者は生きた水である聖霊を受け、その命は私たちを潤すだけでなく、川となって隣人に流れ出るようになります(ヨハネ7:37~38)。

「わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(13節) 

神の霊を吹き入れられる時に私たちは、聖書の神こそ私の主、すべてのものの主であると知るようになります。エゼキエルを通して語られた主の約束を頼りに、イスラエルの民は捕囚を耐え忍びました。そしておよそ50年後にバビロンはペルシャの王キュロスによって滅ぼされ、彼らは故郷に帰ることを許されました。私たちはバビロンから解放されイスラエルへ戻ることができたので、希望を失った民が生き返ることができたと考えるかもしれません。しかし捕囚の民が生き返るのは帰還を果たしたからではなく、神の霊が吹き入れられる時でした。この霊によって主こそ神であると知る時、たとえ今はどこにも希望を見いだせなくても、神は私たちを見捨ててはおられない、今ここに共にいてくださるのだと知ります。聖霊が吹き込まれ神が主であることを知る時、人は生きるのです。

憐み深い父なる神様。私たちは目に見える状況が良くなってほしいと願います。大切な方の癒し、教会の祝福を私たちは願います。それも大切なことです。しかし私たち一人ひとりが聖霊を受け、その息吹によって造り変えられることが、すべての根本です。あなたを主とし、あなたを喜び従う私たちでありますように。愛し合う群れとしてください。主イエスの御名によって祈ります、アーメン。