7月29日説教

 

7月29日説教
主イエスの栄光の姿
隅野瞳牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書  ルカによる福音書9:28~36

 祈るために弟子たちと山に登られた主が、栄光の姿に変わりました。それは受肉以前、また復活・再臨時の天的な姿です。主の十字架と復活の証人となり、教会を建てあげていく弟子たちに、人なる十字架のイエスが、栄光の神であると示すための顕現でした。十字架のイエスと栄光の主の両方が、福音信仰に必須です。神が人となって世に「降られた」出来事の前と後を、弟子たちは追体験させていただいたのです(フィリ2:6~8)。主は十字架というご自分の使命を自覚しておられましたが、その道を歩み通すためには多くの祈りを必要とされました。しかし同時に主は、復活の栄光を見ておられました。キリストの変貌は私たちの復活をも指し示しています。主イエスを信じた時から、私たちは主の栄光の内に入れられて歩み始め、主の栄光を映し出しながら成長し、終わりの日に復活の完全な命にあずかります(Ⅱコリ3:18)。これは信じる全ての者に与えられた、確かな主の約束です。
 そこにモーセとエリヤも栄光に包まれて現れ、主イエスと語り合っていました。それはここに聖書全体の内容が凝縮されていることを表しています。彼らが語り合っていたのは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」、つまり主がどれほど人間を愛し、救おうと願っておられるかということでした。「最期」は「出エジプト」の言葉と同じで、ここではこの世からの旅立ちである「死」と共に、死を越えて復活し、天に向かう「旅立ち」ということです。主の死と復活は人間を罪の奴隷から救い出すための、第二の完全な出エジプトです。
 至福の時を味わったペトロは、仮小屋を建てる提案をします。しかしそれは臨在の雲によって遮られ、神の声がありました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。主は人となられたご自身の存在、十字架に命をささげることによって、神の愛を示されました。それは全身を耳にして聴かねば聞こえないメッセージです。私たちも十字架への道を忘れて、山に留まっていたいと思うことがあります。しかし主が罪深い私たちのもとに降ってくださったのですから、私たちも山の下に向かいます。復活を信じ仰ぐことは、将来と共に、今置かれている現実にしっかり向き合って生きるための希望です。十字架の主の姿に聞き従っていく時にこそ、主の栄光を仰ぎ、再び自分の十字架を負って歩むことができるでしょう(Ⅱコリント4:8~)。