9月17日説教

「安息日は命の日」
<聖書>ルカによる福音書6:1~11
隅野瞳牧師(日本基督教団  山口信愛教会)

ある安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べました。この行為は農業で安息日違反であると批判するファリサイ派の人々に対し、主はダビデが空腹だった時に、祭司だけが食べることを許されるパンを食べたことを示されました。神はダビデの違反だけに目を留めて罰するのではなく、彼の空腹を憐れんでくださいました。安息日は、神の天地創造とエジプトからの救いの恵みを覚えるために制定されました。主イエスはご自分を「安息日の主」、安息日を制定された主なる神と等しい方とされました。安息日は主を第一として礼拝し、安息日を造られた主の御心に従って過ごすのです。神が人間に真に望んでおられることは、外見だけ安息日を守ることではなく憐みを実践することです。他の安息日の会堂に、右手が萎えた人がいました。律法学者たちは、主が癒し(医療行為)を行ったら訴えようと、注目していました。主は真の安息日に生きていない彼らに対し、安息日に善を行い命を救うことは許されている、と生きた律法の解釈をして、癒しを行われました。律法は全て、神を愛し隣人を愛することに基づきます。安息日は、助けを必要としている隣人を無視して、自分だけ礼拝を守る日ではありません。この方が礼拝の恵みにあずかるために、私に何ができるだろうかと考え、救いの恵みをその方と分かち合って喜ぶ日なのです。 
福音の時代に生きる私たちの安息日は、主イエスの復活された日曜日です。主の救いは①神とともに生きる者として再創造される②罪と死からの解放、霊的な出エジプトです。神に従いたいのに、かえって御心を悲しませるファリサイ派の人々、それは私たちの姿でもあります。しかし主イエスが御心に従いぬき、救いの御業を完成されました。悔い改めて救いを受け取るならば、私たちは神と共に生きる永遠の命という、真の安息に入れられます。日曜日は主が隠れていた弟子たちに出会い、赦しを与えてくださった日でもあります(ヨハネ20章)。どこまで罪深く弱い者であっても、決して見捨てることのない主にお会いしたゆえに、彼らは喜びました。キリストの平和にあずかった弟子たちは、主によって福音を伝えるのために遣わされました。私たちも日曜日ごとに、今も生きておられる主にお会いし、赦しの恵みと信仰を新たにされて、日常の場に遣わされます。安息日は命の日です。